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■貴方というひと
和服は心で着るものだ、と亡くなった母から教わった。心清らに着付ければ自然と背筋が伸び、美しい姿勢になると。薫は手を後ろに回して帯が動かないか、衿の合わせはずれていないか確認する。何十年も毎朝続けていたら、いつの間にか鏡に向かわずとも済むようになった。仕上に唇に紅を引く。自然な赤みが薫の顔を華やかに彩る。
「準備はいいかい」
そこにちょうどよく声がかかった。障子越しにすらりとした影が見える。薫は戸を引き、
「ええ、参りましょう」
と、穏やかな微笑を浮かべた。
「あれ、薫さん出掛けんの?」
二階から降りてきた慎二はまだ寝間着のままだった。ゴールデンウィークで帰省してきていた孫は、薫の傍らに立つ男にとてもよく似ている。
「口紅、似合ってるよ」
「あら、それって自画自賛かしら」
照れ臭そうに慎二は頭をかく。孫は初めてのアルバイトの給料で口紅を土産に買ってきたのだ。妙なところで色気を出すのは血であるらしい。夫も息子も、孫までも、やたらと薫を女扱いしたがる。かつて、もうおばあちゃんなのに、と言って、女の人は死ぬまで女なんだよ、と異口同音に三人に返されたことがあった。
「こんなに綺麗な人はそういないんだからな。変な奴に目ぇつけられないようちゃんと守れよ、じいちゃん」
真剣な顔で言う慎二に、薫と並ぶ男は、
「若造に言われるまでもないわ」
自信に満ちた不敵な笑みで言い返す。その姿は慎二と双子かと見紛うほどに若々しい青年のものだった。
瑞々しい若葉の小道を手を引かれて歩く。齢七十を超えて手を繋ぐなんて、と躊躇っていた薫だったが、夫婦なのに何がおかしいと有無を言わさず青年は手を取った。筋張った長い指に絡む自分の指。皺が寄った手は如実に歳を示しており、見るに耐えられず目を逸らす。
指だけではない。細いながらも広い青年の背中は五十年余りの間、ほとんど変わっていない。薫も若く見られるものだが、相応に齢を重ねているのは間違いなく、綺麗だと言われても言葉の頭につくのは『歳の割には』という一言だ。五十年寄り添ってきた夫は丸っきりの若者であった。
「今日はモーツァルトなんだ。アイネクライネ好きだったろう?」
「よく覚えていたわね」
私は忘れていくばかりなのに。
思った心にトゲが刺さる。できるだけ考えないようにしているつもりでも、ふとした折に感じる距離。停滞の中に住む夫とは年々離れていくばかりだ。向けられる笑みは何年経とうが変わらない。不変や永遠なんて存在しないと自身に言い聞かせても、極めてそこに近いものは目の前にあった。
公会堂は真新しい建物だ。こけら落としが行われたという話をつい先日新聞で見た覚えがある。薫は背を延ばして屋根を仰ぎ見た。少しずつ夏の熱がこもってきた逆光が眩しい。そこに純白のレースの傘がかかる。
「白い肌が焼けてしまう」
真面目くさった顔つきに思わず笑みがこぼれる。そうね、とうなずいて薫は日傘を受け取り、彼の眉間にそっと触れる。深く刻まれたしわを伸ばすようになでる。
「恐い顔。それでは患者さんも逃げてしまうわ」
ほんの少し背伸びして、やっと額に届くかどうかというところだ。足を張ると腰が少し痛い。だけど顔に出せば心配される。心配されると腰も、気持ちも、余計につらい。
「もう開場時間じゃないかね」
優しく薫の手をつかんで額から離し、そっぽを向いた顔は赤く染まっていた。左袖をまくって腕時計に目を落とす。手を口許に寄せ、薫は少女のようにうふふ、と微笑んだ。彼の時計は所有者が彼である限り、正しく時を刻むことはない。薫も本人もそのことはよく心得ている。だからこそ、彼のその意味のない行動にどこかおかしくて心をほぐしてくれる。
「ほら、行くぞ」
差し出された手に自分の手を重ねる。
「薫さん」
柔らかな声が宥めるように囁く。
「終わったよ。さあ出よう」
うなずいて同意を示すものの、足に力が入らない。じっとりとした重みに手足を捕われ、思うようにならない。柔らかな座席に背を預けて大きく一つ、息をつく。急に何歳も老け込んだような気分だ。膝の上のハンドバッグに視線を落とす。
演奏会は実に素晴らしいものだった。凛としたバイオリンと深みのあるコントラバスの調和が心地良く、現実を忘れてのめりこんだ。やはり音楽は生の音に限る。繰り返しレコードで聴き込んだ曲でも生演奏だと新鮮に聞こえてくる。
終演後、甘い余韻に浸る。いつもならば極上の時間だ。だが今日ばかりはどうしても引っ掛かるものがあって素直に楽しめていない。
『息子さんですか?』
隣に座っていた婦人の言葉が耳に蘇る。
『親孝行でいいですわね』
嫌になるほど鮮やかに覚えている。それに薫は何と答えただろうか。寂しげに否定したのか、曖昧に微笑んだだけか。
手を差し延べていた夫が隣に腰を降ろした。仏頂面で薫の痩せた肩を抱き、無理矢理頭を自分の胸に寄せる。
「他人は残酷ね」
搾り出すようにそれだけ呟くと涙が溢れ出てきた。鈍い痛みが胸を縛る。言葉は形がない分、様々なものに化ける。砂糖菓子のように甘くもなる。ナイフのように鋭い刃も持つ。何気ない一言が凶器になる。
夫は静かな薫の涙を受け止めていた。灰色の上着に黒い染みが広がり、しばらくしてからそっと薫の顔をあげるとハンカチをあてがった。昨日薫が洗ったばかりの清潔なハンカチだった。
「辛い思いをさせてすまない」
薫は首を振る。誰も悪くはない。あの婦人に非はない。彼女は彼女の世界の常識で考え、他愛のない世間話をしただけだ。常識からほんの少しだけ外れた夫にも、その妻であることを選んだ薫にも勿論非はない。誰かを怨むならば、運命と、こんな病気を作り出した神だろう。
人の時を遅らせる病。それはまさに古の時代より人が追い求めた不老長寿そのもの。
夫は不老も長寿も求めていない。妻とともに時を刻み、同じ墓に入ることを切望している。だから懸命に治療と研究を続けているのだと長年寄り添ってきた薫は痛いほど知っている。なんで私だけ、と夫婦は答えのない自問を幾度も繰り返す。
「こんなしわしわのお婆ちゃんでごめんなさい」
「馬鹿なことを言うな。たとえ外見が若くとも、僕もあなたも一緒に刻んできた時は同じだ。僕は七十のおじいさん。あなたは七十のおばあさん。そう戸籍に書いてある。それは動かしがたい事実だ。だから気にすることはない」
五十年余り薫の手を握っていた手。暗闇の中で触れてもそれとわかるだろう。優しく腕を撫ぜる手に目を落とし、変わらないそれに自分の手を重ねた。
「私はあなたより先に逝きます。それでも、それでもいいのですか?」
「いつ死ぬかなんて言うな。僕は幸せであればそれでいい。あなたがいて、僕がいる。たったそれだけのこと、と言われるかもしれんが、それが僕には本当に幸せなのだよ」
叱責する夫の厳しい声がなぜか嬉しく、薫の心にじわりと広がった。