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■トランキライザー

 緩やかな意識が頭をもたげようとする。力の入らない身体に無理やり力を入れる。首だけが曲がる。シーツを握り締めているイメージ。全身の筋肉を鼓舞するが、首から下は動こうとしない。実際、手はぴくりとも動かず、シーツを握ることすらままならない。震える頭が枕に落ちる。全身をつつむ脱力感。指先から流れ出る活力。
 どうかしてしまったのに違いない。己の身体が、主の意思に逆らう。有り得ない。有り得ない話なのだ。身体は脳の従僕であり、脳の意識的生命活動を現実に具現するための道具なのだ。生命が始めて手に入れた道具が身体なのである。人が人となるさらに昔、地球上に生命体が誕生してから今までの途方のない時間、自然の摂理として身体は脳に従順であった。
 それが思うように動かせないのはまさに苦痛。冷凍まぐろのように横になって転がっているのは、生命活動を放棄したと見なされても仕方がない。
 どうして、
 喉からは息が漏れるばかり。意識の中に形作った言葉は言葉とならず、現出することすら許されなかった。主張する手段をもぎ取られた人間など、人形と同然、またはそれ以下だ。呼吸するだけの生命。
「起きましたか?」
 声が降ってきた。現実の人間のものとは思えない、テレビの中でしか聞かないような鼻にかかった甘い女声。そこにノイズが混じった音が耳の穴にするりと入った。脳の表面に張りついて、消える。軽いハウリング。不快の表情を作ろうとするが、眉が少し動いただけだった。表情筋すら思うようにならない。
 見上げる先に小さなスピーカーの穴があった。そこで初めて、目だけは思うように動くことを発見した。二度まばたきして、ぐるりと目玉を動かした。スピーカーの穴が右へ、左へ動く。ハエを目で追っているようなものだった。視界が揺れて軽く酔った。
 誰、
 唇にできるわずかな隙間。弛緩した舌が喉の奥に落ち込み、呼吸をふさぐ。あえごうにもあえぐための口に力がない。空気を求める金魚にすらなれない。問いかけに対する問いは失敗した。
「今、そちらに行きますから」
 ぶつり、と音が切れた。広がっていた細かな音のノイズも消失する。被っていたシーツを一枚剥ぎ取られたようだった。空間が清浄になり、こもっていた空気が解放されて広がる。
 倦怠感、脱力感、疲労感、無力感。いまいましく思いながら、どこか心地よい。今の今まで行使されていた身体はストライキを起こし、本格的に休息に入った。脳は裏切られたと感じるが、身体への休息は脳への休息も意味する。それは真の安息、死にもっとも近い状態。
「お待たせしました」
 金属が触れ合う音。金属のきしむ音。一瞬空間が広がり、また閉じる。そこで扉の存在を知った。扉を開け、入り、閉じる。まったく無駄のない行動。空気が入れ替わる隙もない。
 待たせたと思っている誰かの足音。こっちは待ってなどいなかった。ただ、あるだけの肉塊と化した我が身には、希望など宿っていない。床を叩く高い音はただの音でしかなく、何の感慨もわいてこない。
「気分はどうですか?」
 枕元からの圧力、たしかにそこに誰かがいる気配。立っているだけのはずなのに、気配は腕を長く伸ばしてからめとり、頭にのしかかってくる。声はスピーカーから流れてきたものと同じ。甘ったるい慣れない匂いに顔をしかめようとする。やはり眉がわずかに動くばかりだった。
 垂れた栗色の髪が視界に現われる。下を向いているはずの誰かの頭。顔と顔が向き合うように身を乗り出している。だが、うねる豊かな髪が声の主の顔を覆い隠す。表情も見えない。目も鼻も口も見えない。奥にあるはずの顔面から毛を生やしているようだった。こんな髪を乱した妖怪がいたような気がする。
 不思議と怖いと思わない。感情までが麻痺し始めたようだ。
「センセイ」
 毛束が言った。鼻先まで垂れてきそうな髪が邪魔だ。首を振るなり、手で払うなりといった動作を脳が欲した。もちろん、従僕はもはや従僕でないことなど承知済みだ。身体は動かずとも、思うことだけは自由なのだ。
「おひさしぶりです。おぼえていらっしゃいます?」
 ひさしぶりだと、
 出てきた予想外の言葉に、ぴくり、と感情の端が動いた。感覚器官から刺激を受け取り、主観的な感想を述べるだけだった脳が、針で突つかれた。怠惰な思考機械が重たい腰を苦ともせずに立ち上がる。やめていたはずの、考えるということ。声と姿をキーとして記憶の箱を探り始める。整理ができていないおもちゃ箱は深く広がる。ミニカー、ぬいぐるみ、毛布、絵本、ロボット。手にとって確認しては投げ、投げてはまた新しいものを手に取る。
 ない。
 声も姿も記憶にない。それどころか、混沌としたおもちゃ箱には自分自身を特定する個人的な情報が一切入っていなかった。電車の乗り方や、文字の書き方や、電話の応対の仕方はわかる。だが、一個の人間としての独自性についてはまったく空っぽで真っ白だった。自分の名前も年齢も外見もわからない。自分が何者なのかわからない。
 気付いてしまった事実に愕然とする。毛束が笑った。栗色の髪が揺れたが、やはり顔は見えなかった。
「おぼえていらっしゃらなくてもしょうがないですね、センセイ。あんなにクスリ使っちゃったんですもの」
 白い手が伸びてきて顔に触れた。細くて長い指が髪を梳き、額に触れ、鼻に触れ、頬を撫でた。慄然とした。人間とは思えないほどに冷たい手だった。おまけに、表面がとてもすべらかだ。陶器の手だと言われたら信じてしまうだろう。
「最後の診療のときにおっしゃったじゃないですか。君に本当に必要なのはクスリじゃないって。一緒にいてくれる誰かだって」
 さらに身を乗り出して、毛束が動かない左腕をとった。力の入らない腕は意のままになる。手首をつかんで持ち上げる。彼女に負けないほど細い腕が見えた。青く浮いた血管が表面を這っている。自然な状態だと手は緩く拳を握る。赤子のようにむすんだ指の中には何も入っていない。頭と同じ、空っぽだ。
 毛束の空いた手が細長い物を持っていた。中指と人差し指挟み、底にあたる部分を親指で支えている。透明なボディに薄桃の液体が満たされていた。先端が光を反射する。親指が押し上げられると先から雫がこぼれた。
 手首の浮いた血管の中に針が差し込まれる。痛みはない。もちろん、液体が注入される感覚もない。液体が全て体内に吸いこまれ、毛束が腕を元に戻す。ぼんやりとした頭にますます霞がかかる。目蓋は動いていないのに、文字通り視界が狭まってくる。意識すら手放し始めた脳の隅っこで、たった一つわかったことがある。身体がどうにかしちまったのはこいつのせいなんだ。
「センセイ、一生アタシの精神安定剤になって」
 毛髪の奥に、歪んだ赤い唇が見えた。笑っているのか怒っているのか区別のつかない歪み方。
 そこから先は覚えていない。有象無象の中に埋もれて行く己の姿がイメージの世界に展開されただけだった。白い白い世界に落ち、沈み、散逸する。それはまるで、海に散らされた骨。

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