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■柔らかい殻
博士はとても偉大な博士だ。偉大な博士は普通の博士と違う。毎日毎日研究室に閉じこもって黙々と研究活動に励むのが普通の博士。偉大な博士の仕事はそれだけではない。たくさんの研究機関に所属し、たくさんの委員会に所属し、たくさんの学会に所属している。肩書きが多ければ、やるべき仕事も多い。だから全国を飛びまわっている博士には、おちおち自分の研究をしている暇もない。
「博士! 成功しています!!」
久しぶりのお休みの朝。博士の夢の中で助手が叫んでいた。博士が、
「何が成功したんだね」
と聞くが、助手は、
「あれですよ、あれ!」
としか言わない。興奮して紅潮した顔が博士にずいずいと迫ってくる。豊かな白い髭を撫でながら、
「今日はひさしぶりの休みなんだ。もう少しゆっくりさせてくれないか」
と博士はのんきなことを言った。そう、博士は本当は急ぐことも忙しいことも嫌いなのんびり屋さんだった。そんなだからしばしば、他の普通の博士に先を越されてしまうこともあった。
「ゆっくりしてる暇はありません! 早く来てくださいよ!」
助手の眼鏡がずり落ちた。博士はそれが面白くて笑う。不思議と地面がぐらぐらと揺れていた。助手の顔も左右に揺れている。だが足は地面にしっかりくっついているし、バランスを崩してもいない。二本の足で立っている。ああ、これはわたしの体が揺れているんだな。博士は博士特有の聡明さで、現状を分析した。
「早く起きてください!」
目覚ましはそんな助手の声だった。目の前に赤い助手の顔があった。助手は博士の両肩をつかみ、ぐらぐらと揺らしていた。
「何だね。どうして君がいるんだね」
まだ博士の頭はぼんやりとしていた。助手はちょっと怒ったような声で、
「ご報告にあがったんです。実験が成功していたんです!」
はて、と博士は考える。何の実験をしていたんだっけかな。二週間近く、自分の研究室に足を踏み入れていなかったからすっかり忘れてしまっている。
「とにかく起きてください。地下実験室にいますから!」
寝室に博士を置いて助手は慌しく出て行った。その後姿を見送ってから、博士は、よっこらしょ、と身体を起こした。
研究室は上に下にの大騒ぎだった。狭い地下室の中で白衣の男たちが抱き合っている。入り口のノブをつかんだまま、博士はちょっとだけ眉根を寄せた。むさ苦しい光景だった。博士は忙しいのも嫌いだが、暑苦しいのも嫌いだった。
「博士!」
起こしに来た助手が博士を見ると、部屋の中央に招き入れた。中央に設えられた広い実験机の上に水槽が載っている。水槽の底には砂利が敷き詰められ、四分の一ほど水が注がれていた。掌大の石が隅っこに寄せられ、水面から頭を出していた。
「見てください!」
助手に言われて博士は覗いてみた。よく見えなくて、目をこする。老眼鏡を掛けていたことに気付いて外した。
「何だね、これは」
水槽の底でもぞもぞ動いているものがあった。平べったい体に大きな二本のハサミ、三対の小さな足。博士には薄いピンクの殻を持つハナサキガニに見えた。偉大な博士となれば、各地でおいしいものをごちそうになる。今年の冬、食べたカニはうまかった。先の割れた細い棒で白い身をほじくりだす。蟹肉の、実にジューシーで味わい深いこと。そうだ、今度の慰安旅行はカニ食い放題にしよう。半分想像の世界に行ってしまっている博士。こっそりと舌なめずりをする。
「カニです!」
助手は水槽を持ち上げた。
「我々の研究成果です。ご覧ください!」
目の高さまで持ち上げられ、まじまじと見るけれど、カニは所詮カニでしかなかった。桃色の甲羅というところが新しいが、普通のカニにしか見えない。
「他のカニと何が違うのかね」
「やだなぁ、博士、お忘れですか? 博士が言い出した研究ですよ」
はて、と博士はまた首をひねる。研究室に入るたび、助手が何やらやっているなぁとは思っていた。しかし、実際のところ何をしているのかはわからなかった。机の上でシャーレを睨みながら時にはかんしゃくを起こし、時には奇声を上げる助手が、むしろ怪しい人物にしか見えていなかった。怪しい人とは関わり合いになりたくはないが、研究者というものには奇人変人が多い。自称一般人の博士は、やむなくそんな方々とお付き合いしている。
「見ててください」
助手は水槽を博士に渡すと、机の上からシャーレを取った。水槽を抱えた博士は、助手の行動をいぶかしげに眺める。そのうち半分は、重いものを持たされた恨みもこもっていた。
助手のシャーレの中には真っ赤な棒が入っていた。いや、棒ではなく、茹でたカニの足だった。シャーレの蓋の裏にはびっしりと水滴がついていた。慎重に蓋を開ける。茹でたてなのか、足からほこほこと白い湯気が上がった。
いつの間にか助手は細い針を持っていた。縫い物に使う小さな針だ。それを、そっとカニの足に押し当てた。
「どうです?」
誇らしげな助手。針は見事カニの足を貫通していた。
「柔らかい殻のカニです! 成功したんです! こんなカニ、前例がありません。博士が言い出した時は、正直言ってバカらしいと思っていたんですが、素晴らしい研究です」
興奮する助手に対し、博士は「ああ、うん」という曖昧な返事しかできなかった。割れないカニの殻にかんしゃくを起こし、助手に割れやすい殻のカニを作るよう命じたのを、博士はすっかり忘れていた。
「これで世界各国のカニ好きが、より簡単にカニを食べられるようになったんです。あの、先の割れたカニスプーンも必要ありません!」
助手の熱が周囲のスタッフに伝播する。エネルギーがあり余っている若者たちは、万歳三唱を始めた。
「ああ、それはいいんだがね」
寝起きなのにこううるさくされてはたまらない。水槽を抱えていて耳を押さえることもできず、博士は顔をしかめて精一杯不快であることを主張した。
「そのカニの肉はうまいのかね。誰か食べたのかね?」
助手の満面の笑顔が凍りついた。万歳したまま、スタッフも凍りついた。
「博士、食べてみませんか?」
博士は部屋の片隅を見てこっそりと溜息をついた。そんなものを人に勧めるなんて無礼な、と怒る気にもなれなかった。部屋の片隅のゴミ箱には、肉がこびりついたままの赤い殻が山盛りになっていた。