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■深夜番組
トイレに起きた。枕元の目覚まし時計を確かめると三時だった。もちろん、深夜の。
深夜三時と言えば、いわゆる丑三つ時。お化けや幽霊なんて信じちゃいないけど、周りは暗いし静かだし。やっぱり気分は良くないものだ。
こんな時間に目が醒めた自分に恨み言を吐きつつ、ベッドから抜け出した。
真っ暗な階段を降りて、トイレを目指す。
昭和の高度成長期真っ只中に建てられたこの家はトイレが一個。しかも和式。全面タイル張りのご不浄はとても狭く、冬は冷たい。何度も改装を父上に申し出ているのだけれど、
「汲み取りじゃないだけマシだと思え」
と、取り合ってくれない。
無駄に長い廊下をそっと歩く。そっと歩いてもぎしぎしと音がする。
ホント、古い家だからなぁ。
電気もつけない。勝手知ったる自分の家。たとえ、廊下にゴルフバッグや座椅子や本棚やぶら下がり健康器があったとしても、目をつぶっても歩き回れる。だって、これらはもう何年もここから動かされていないから。
両親を起こさないように抜き足差し足で進んで行く。爪先立ちで、できるだけ体重をかけないように。
と、居間がほのかに明るかった。
誰だろう。こんな時間に起きてる人なんていないはずなのに。
一瞬冷静に考えて、急に青ざめた。昨日見たホラー映画を思い出す。
ちょっと前に流行った映画だ。呪いのビデオテープだとか、テレビから人が出て来たりだとか。
ずるり、という効果音が聞こえたような気がした。
あああ、余計なことばっかり思い出す!
尿意も忘れ、居間に近づいていった。闇夜に目を凝らし、物音を立てないように、やっぱり忍び足で。
途中、父のゴルフバッグからドライバーを一本拝借した。
ドライバーを握る手が震えている。心臓なんて、音が聞こえそうなくらいバクバクいってる。
居間を目の前にして、一度立ち止まった。
この先、右から四番目の床板は踏むと大きい音がする。踏んだらさすがに気付くだろうな。
細心の注意を払い、その隣、三番目の床板に踏み出す。
ぎぃ
あ。しまった。
心臓が喉元までせりあがってきた。反射的に居間を見る。
踏み出した姿勢のまま、待った。息を押し殺し、今なら蝋人形のパフォーマーにでもなれるんじゃないかってくらい、ぴくりとも動かず、待った。
ポーンと一つ、鐘が鳴った。居間にある古い時計が三時半を知らせる音だ。
鐘の音が真夜中の家に長く長く残った。耳の中にも長く残った。ようやく余韻が消えた頃、覚悟を決めてまた歩き出した。
四番目じゃなくて、三番目だった。
気付かれてもしょうがないよな、と半分諦めが入ったような緊張状態で、居間の前に辿りついた。
障子を模したガラス戸の細い隙間を覗く。
居間の明かりはついていなかった。テレビだけがついていて、ぼんやりと室内を浮き上がらせていた。テレビの音はしない。ここからはテレビは見えない。辛うじて白っぽい光が見えた。
誰かいるわけではないようだ。
血管がきゅっと収縮した。
ドライバーを両手で握りなおし、どんな事態にも対処できるように振りかぶった。
右足を戸にかけた。行儀が悪いと口を酸っぱくして言われてるけど、あいにくと足癖が悪いのだ。
からからと軽い音とともに戸が開く。
「ヨシヒサ」
「ぎゃあああああっ!!!」
振り向きざまにドライバーを振り下ろした。
「うわぁっ!!」
しゃがみこんだ誰かをカーボン製ドライバーが襲う!
このまま殴ったら血がいっぱい出るんだろうな。頭なんかぱっくり割れちゃって、即死なんだろうな。ついに人殺しになっちゃうのかな。でも、こういうのって正当防衛っていうんだよな。
重力加速度も手伝って、ドライバーがうなる。
目をつぶった。
とてもとても鈍い音がした。
人って意外に硬いんだな。
そんな手応えを感じて、右目だけ開けてみた。
ドライバーの先が見えなかった。床の中に潜り込んでいる。
肩に手を置いた誰かは叫び続けたまま、しゃがんでいた。ちょうど左腿のすぐそばに破砕した床板があった。
頭を庇う二の腕すれすれをドライバーがかすり、床板を叩き割ってしまったようだ。
そこにいたのはお化けでも妖怪でも幽霊でもなく、十年以上の付き合いとなる顔だった。
「にいちゃん?」
白いワイシャツ姿の兄貴はまだ縮こまっていた。
「家庭内暴力か!? それとも反抗期か!? 悪かった、俺が悪かったよ、ヨシヒサ! 何が悪かったのか全く検討つかないけど、とにかく悪かった!」
ただひたすらに謝り続ける兄貴。しまいには土下座まで始めた。
これが警察官なんだから、笑えるよな。
「にいちゃん、俺が悪かったよ。いきなり肩叩かれて驚いたんだよ」
「だけど、襲いかかってきたってことは、少なからず俺に恨みがあるってことだろ? 警察学校の少年犯罪の講義でそう教わったんだ。思春期の少年は衝動的に暴力を振るうことがあるって!」
「だから、違うって」
と、ドライバーを放り投げた。先が床下に突っ込んだままの棒っ切れは完全に倒れなかった。中途半端なところで重心を見つけ、床から斜めに生えてるかのように立った。
言い訳する気も失せるような負け犬っぷりに、我が兄貴ながら溜息がこぼれる。こうやって見下ろしてるのが一番サマになるってどういうことだよ。あ、ズボンのジッパーが開いてる。
「こんな時間に何してたんだよ。帰ってくる時間にしては遅すぎるよ」
「それは、なぁ」
床に正座したまま、顔を赤らめてモジモジとしてる。
「昨日、同じ課の人から変な噂聞いたんだよ。深夜、番組が全部終わった後の砂嵐をずっと眺めていると、そこに別の物が見えてくる、って」
「別の物?」
ああ、また映画を思い出した。あんなホラーな話じゃないよなぁ。怖いのだけは勘弁だよ。深夜の学校だってイヤだし、昼間でも墓場なんて冗談じゃない。肝試しも嫌いだよ。
「その、あの」
話にくそうに兄貴は目をそらした。
「裸のねーちゃんが映るって」
正座してる兄貴の顔面を蹴り飛ばした。
こんな時間に一階に降りてきた理由を思い出し、廊下をぎしぎし鳴らしてトイレに入った。ちっこい電球に照らされながら、ぶつぶつと文句を唱える。
何で兄貴が警察官なんてやってられるんだろ。それとも、警察官てこんな奴ばっかなのか。深夜番組で冗談で言われそうな噂を本気で信じるなよ。
あれで彼女もいるんだから、世の中ってよくわからん。
しかし、何よりどうして兄貴が自分の兄貴なのか。考えるだけでもつくづくイヤになった。