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■ハーモニカ
夜に笛を吹くと鬼が来るよ。
茶の間でハーモニカを吹こうとしたわたしを、ママはそう言ってたしなめた。
「笛じゃないもん。ハーモニカだもん」
ぷくっとほっぺたをふくらませて言うと、
「同じでしょ。吹くと音が出るでしょう? だから夜はやめなさい」
「そうだ。鬼がミサを食べに来るぞー」
テレビを見ていたパパもそんなことを言う。二人ともどうしてもわたしにやめさせたいみたい。鬼なんていないのに。わたしだってもう子供じゃないのに。
そんなにうるさいかな、と銀のハーモニカを口に当て、ドの音を出した。
「やめなさいってば!」
ついにとうとうママが大きな声を出した。もうやめよう。怒ったママはとっても怖いんだ。パパのシャツにアイロンをかけるママ。その後ろにいるパパは苦笑いしていた。
仕方なくわたしはハーモニカをしまい、パパの隣に座ってテレビを見た。テレビの中ではクラシックのコンサートをやっていた。トランペットやバイオリンがきれいなきれいなハーモニーをつくりだす。特にフルートのソロ演奏には背筋がぞくぞくした。
でも。
これも笛の一種だよね。こんな時間にこんな番組やってたら鬼が来るんじゃないの。
パパにそう聞くと、
「テレビだからいいんだよ」
そんな答えが返ってきた。大人って適当なこと言うよね。
コンサートが終わっても、何だかもやもやした気分のままテレビを見ていた。するとママが、もう子供は寝る時間だからとわたしを茶の間から追い出した。
はーい、とふてくされた返事をしておとなしく二階の自分の部屋に行く。
ハーモニカ。一度も吹けなかったな。
小さな袋から出したハーモニカ。電灯の光を受けてキラキラと輝く。
ちょっとだけならいいかな。
ドアが閉まっていることを確認して、窓の鍵を下ろしてカーテンを閉めて、ベッドにもぐった。横一列に並んだ四角い穴にそっと口をつける。
プーと澄んだドの音。ちょっと口をずらしてレの音。またちょっとずらしてミの音。
心臓がすごくドキドキしている。今の音、ママとパパには聞こえたかな。聞こえないといいな。
耳を澄ます。
ドキドキという音しか聞こえない。階段を上がってくる音もナシ。大丈夫みたい。
ベッドと布団の間でまた音を出す。ド、ミ、ソの順。
「呼んだ?」
知らない声。心臓のドキドキが早くなる。
「なあ、呼んだだろ?」
布団をかぶって固まっていたわたしの前が明るくなる。布団をめくる誰かの大きな手が見えた。
「嬢ちゃん、笛吹いたろ?」
大きな身体のおじさんがそこにいた。
おじさんはおっかない顔でこっちを見ている。パパよりは若いっぽい。体育の村田先生くらいかも。浅黒い肌にTシャツジーンズという格好だった。もさもさと広がった髪が頭を覆っている。こういうの何て言うんだっけ。天然パーマ?
「吹いたよな?」
声はパパよりも低い。地の底から響いてくるような声。
「吹きました」
ハーモニカから口を離して答えた。とてもとてもかたい声をしていたと思う。でも、そんなことを考えている余裕なんてない。もう、頭の中は色んなことでいっぱい。
この人は誰だろう。どこから入ってきたんだろう。何でここにいるんだろう。パパとかママの知り合いにこんな人いなかった。わたしのこと誘拐しちゃうのかな。それとも食べられちゃう?
そんなことでぐちゃぐちゃしている。
「どちらさまですか」
だけど意外なことに、ぐちゃぐちゃな内面と違ってわたしの外側は冷静だった。英語で言えばクール。
「おう。嬢ちゃん肝据わってんな。俺はあれだ。鬼ってやつだ」
普通だったらここで驚いて大声出すとか、気絶するとかするものかな。アニメとかではそんな場面よくあるよね。
「証拠もあるぜ。ほら」
と、自称鬼さんはかがんでわたしに頭を向けた。やっぱり鳥の巣みたいなもさもさ頭だ。ちょっと茶色いのは傷んでいるからかしら。
「見えるか?」
自称鬼さんは両手で頭をかき分ける。ちょうどてっぺんのあたりに手を入れて二つに分けようとしている。でも、髪がこんなだからなかなかうまくいかない。ごわごわの髪に指が引っかかったりしている。
そしてようやく頭の皮膚が見えてきた。日に焼けていない白い皮膚。その上に、
角が生えていた。
動物園で見た象さんの牙の先っちょみたいな、ちょっと白い角だ。
「本物?」
「触ってもいいぞ」
自称鬼さんがわたしの手をつかみ、角に触らせた。少しざらざらするそれはしっかり硬くて、引っ張っても抜けそうにない。
「鬼?」
「そう言ってるだろうが」
布団の間から顔を出しているわたしの目の前に、鬼さんはどっかと座った。ベッドがかなり沈んだ。
「あの、何のご用でしょうか」
「それは俺が聞きたい。なんせ、笛吹いて呼んだのは嬢ちゃんのほうじゃねぇか」
「笛ってもしかしてこのハーモニカ?」
銀色の小さなハーモニカを見せると、
「そう、それだ」
鬼さんが笑った。笑ったんだと思う。口の端がつりあがって、おっかない顔がますますおっかなくなった。
「俺は笛の音を聞いたから来たんだ。笛ってのは誰かが俺を呼んでるってことだからな。嬢ちゃんだって『笛を吹くと鬼が来る』って母ちゃんたちから教えられてただろう? なんだってその言い付けを破ったんだ」
「あの」
わたしは口ごもる。
「俺が鬼だから言いにくいのか? 別に取って食いやしねぇよ」
鬼さんがガハハと笑う。大きな口はわたしの頭くらいならすっぽり入りそうだ。
「明日、音楽のテストがあって、それでハーモニカ吹かなきゃいけないから……練習しようと……」
もう、だんだんと声が小さくなっていく。最後のほうなんて自分でも聞こえていなかった。
「ほう。熱心だなぁ。どんな曲だ?」
「エーデルワイスの最初のほう」
体の下に敷いていた教科書を引っ張り出す。しわくちゃの教科書に、おたまじゃくしが何匹も泳いでいた。わたしには謎の記号でしかない音符。五線符の下にレとかソとか書かないと全然わからない。
「あー、俺も習ったなぁ」
まじまじと楽譜を見る鬼さん。やがてジーンズのポケットから小さな銀色の物を出した。わたしが持っているのと同じハーモニカだ。だけどちょっとだけくすんでいて、きらきらとは光っていなかった。
ぷーと鬼さんがハーモニカを吹いた。
「吹いちゃダメだよ! ママとパパに怒られちゃう!」
慌てて鬼さんの腕に取りつく。がっしりとした腕は丸太みたいで、鬼さんがちょっと上げると簡単にわたしが持ち上がる。
「大丈夫だって」
鬼さんがまたぷーと吹く。
背筋がぞくぞくした。首の後ろがなんだかかゆくなった。
わたしのなんか比べ物にならないほど澄んだ音。空間に広がっていくような音じゃない。一直線の上をまっすぐ通っていくような、迷いのない音だった。かといって、硬質の冷たい音でもない。春の風のようなぬくもりを感じる。
鬼さんが大きく息を吸い込んだ。胸とお腹にめいっぱい空気を入れて、限界までいっぱいになったところで止める。大きな体がもう一回り大きくなったような気がした。Tシャツの上からでもわかる厚い胸板がパンパンになっている。
ハーモニカから流れ出てきたのは、美しいメロディだった。
美しいとしか言えない。音楽の授業中にテープで聴いたものとは何倍も違う。先生の演奏とも全然違う。本当に、目の前に白くて小さな花が見えた。あまりにものすばらしさに、一瞬その曲が何だかわからなかった。
ゆったりと途切れなく続くエーデルワイス。
わたしの頭の中は真っ白。混じりけのない透き通った旋律に、息をすることも忘れて聞き惚れていた。
最後の音が綺麗な余韻を残し、鬼さんが口を離した。
「すごい! すごいすごい!!」
わたしは興奮しちゃって、夢中になって手を叩いていた。
「かっこいい! きれい! 最高!」
どうにも言葉が貧弱だけど、精一杯のほめ言葉。小さなわたしからの賛辞に大きな鬼さんは照れてるのか、頭に手をつっこんで角のあたりをかいた。
「あまりほめるなよ。慣れてねぇんだ」
「だって本当にすごかったんだもん! あんなにきれいなエーデルワイス、初めて聴いた!」
本当に、心からそう思う。
もう、鬼さんの顔はこわくなかった。あんなに優しくハーモニカを吹ける人は、こわい人なんかじゃない。
「ねえ、わたしもそんなふうに吹けるかな?」
いつの間にか布団をのけて、ベッドの上に正座していた。身を乗り出して尋ねるわたしの頭を、鬼さんは大きな手でくしゃくしゃとなでた。ごつごつした手はパパよりも大きくて、パパよりも固い。
「嬢ちゃんの練習次第だな。俺だって練習したんだぞ。一朝一夕で吹けるようになるもんか」
「じゃあ、教えて! 明日のテスト、どうしてもうまく吹きたいの!」
「今夜一晩じゃ無理だぞ」
鬼さんは困ったような、半分からかうような、そんな変な顔をしていた。
「無理でもいい! できるところまでやりたい」
「明日遅刻するから子供は早く寝なさい」
すました顔でそんなことも言う。ちょっといじわるなのかもしれない。
「ママみたいなこと言わないで。お願いだから!」
「俺のしごきに耐えられるかな?」
にやりと笑った鬼さんに、わたしはにやりと笑い返してやった。
「ミサ! もう七時半よ、起きてらっしゃい!」
一階からママの大声が聞こえる。そんなに怒鳴ってたらまたしわが増えるよ。ぼんやりと毎朝のように考えていることを今朝も考える。もう七時半か。起きないと遅刻しちゃうな。
七時半、七時半と頭の中で三回繰り返す。七時半。それはつまり、
「朝!」
がばりとベッドから起き上がる。
あたりをきょろきょろと見まわす。そこにあるのはいつものわたしの部屋。カーテン越しにスズメの鳴き声が聞こえる朝の部屋だ。
「鬼さん?」
ついでに呼んでみる。でも、誰からも返事はない。返事をしてくれる人もいない。
あんな大きな体だもん。こんな狭い部屋に隠れるところなんてないよね。昨日の夜、練習に付き合ってくれたはずの人は、あとかたもなく消えていた。
夢だったのかな。
鬼さんのステキなハーモニカの音も夢だったのかな。
「ミサ!」
ママの大声に渋々ベッドから起き上がった。大きく大きくのびをする。
と。
ハーモニカが転がり落ちた。
わたしの体温ですっかりあったかくなっていたそれを拾い上げる。
でも、それはわたしのじゃなかった。
わたしのはまだ新品で、傷一つなくピカピカ光ってる。だけどこれは細かい傷がいっぱい。すっかり銀色がくすんでいて、きらきら光らない。
自然と笑っちゃうのは、嬉しい証拠なのかも。
急いで支度して一階に降りる。朝ご飯の用意をしていたママが、
「音楽のテスト、大丈夫なの?」
と聞いてきた。見れば、テーブルの上はベーコンエッグにポテトサラダ、五目ご飯にワカメのお味噌汁、いつもはないデザートがリンゴ、とわたしの好きな物ばかりだった。
リンゴを一個口に入れ、
「うん大丈夫。今日はうまくいくような気がするんだ!」
ブイサインでママに答えた。