参考→円環都市
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■ナンバリング
円環都市にも雪は降る。
北のほうから湿り気を帯びた風が吹き込み、十五の輪を白く染め上げる。
厚い城壁の上に、これまた厚く雪が積もる。積もると上空の冷たい空気にさらされて凍ってしまう。さらにその上に雪が積もり、また凍る。この繰り返しで城壁の上には見事な白い壁ができる。こんもりとした雪の壁はちょっとした見物だった。
人々はこれを雪帽子ではなく、一種の皮肉を込めて雪冠と呼んだ。かつてこの都市では冠の高さが位の高さを示していた。だが、雪冠はその逆で、外層に行くほど高く高くなっていく。外層の者がより高い位を得られるのだ。上空から見ればさぞ美しいのだろうと都市に住む誰もが一度は思う。
だが、それは許されない。『中央』は人々に生まれた層だけで生きること強いる。服従しなければならない、絶対の掟だった。
配達員の少年が走っていた。彼の後を靴跡が追っている。真っ白な地面にぽつんぽつんと空いた穴のようだった。それもすぐに新たな雪が埋めてしまう。
いつもなら軽やかに屋根の上やバルコニーに登る彼だが、さすがに雪の日は地面を走る。白い息を吐きながら回る街はとても静かだ。賑やかなはずの市には誰もいない。ひっそりと息を潜め、空っぽのテントが少年を見送る。誰かが落とした短い鎖が雪の中にきらりと光った。
雪の降る音はとても綺麗だ。
少年は立ち止まった。
空を仰ぐ。街の底から見上げる空はどんよりと濁り、白く汚れなき結晶をふるい落とす。頬に落ちた雪の結晶は、冷たさを感じる前に溶けてなくなった。
今朝も随分と冷える。家々の煙突から立ち昇る煙が冬の厳しさを物語る。人々は家にこもり、短くも長い冬を越す。
「アル、アル」
呼ぶ声に振り返ると、街角から一人の少年が手招きをしていた。まだ母親の周りに張りついてるような、アルよりも幼い子供だった。
「マダムが呼んでる」
誰何することもなく、アルは少年についていった。マダムからの使者ならば、従わなければならないだろう。
マダムとは、この五番街だけでなく、八番環の住民全てから敬われている存在だ。長く生きているからこそ蓄えられる知識。彼女はその膨大な知識と豊かな経験から、迷う人々に助言を与えてきた。今ではマダムの言葉を託宣と呼び、崇める者もいるくらいだ。
五番街の女王でもあるマダム。何の用だろうといぶかしみながら、アルは少年とともに細い路地を小走りに駆けていった。
そう言えば、自分が生まれたのもこんな季節だったと聞いた。
粗末な木の小屋の中で母はアルを産み落とし、母親としての喜びににっこりと微笑んだと言う。あまりにも元気な声に、取り上げた産婆が驚いて落っことしそうになったと言う。
そう教えてくれた男は城壁の向こう側にいる。
気のいい男だった。今も元気でやっているだろうか。
アルは脇腹をそっとおさえた。一生消えずに残る刻印が服の下に隠れている。誰もが生まれてすぐに付けられる番号だ。押しつけられた焼きゴテの痕は、皮を剥ごうとも肉を削ろうとも消えることはなかった。もはや烙印だ。見つかれば強制送還。仕事も友人も何もかもを捨て、九番環にまた押し込められる。
人が住む場所は人が自由に決めればいいと思う。だが『中央』はそれを良しとせず、人々に番号を振り、輪の中に詰め込んでいく。そして若い番号が言うことは絶対で、従わなければ極刑を受ける。
馬鹿げている。こんな制度は崩壊してしまえばいい。
悪政だと影で罵る声は数多くあれど、誰も正面切って『中央』に歯向かおうとはしない。牙を抜かれ、爪を削られ、去勢させられた人の集団ほどよく吠えるものだ。吠えるだけで、飛びかかろうとはしない。去勢の証である番号を抱え、ただ毎日を生きていく。
つまるところ、『中央』の目論むところは成功しているのだ。
ジェイという知り合いの男はこの刻印についてそう評していた。
抱えさせられた番号を重いと感じるか、軽いと感じるか。それはその人間の生き様次第。たとえささやかであっても抵抗しようとするアルは、その辺の大人よりも随分と人間的なんだ。
そう言われてもアルは自分がそんな立派な人間だとは思っていない。自分が満足すればそれでいいわけで、体制に批判的なつもりなどない。それとも、そんな風に思うのは、ジェイの黒手袋の下にある番号を知っているからかもしれない。
ジェイは自分のことについては何も話さない。それは彼が昔語りの無意味さを一番よく知っているからだろう。
しかし、アルは昔のことを知りたいと思う。自分の知らない自分のことを知りたい。赤ん坊の頃に亡くなった母のことも、顔も知らない父のことも知りたい。父の持つ番号は九ではない。母がぽつりと漏らした呟きは今でも忘れられず、無意識にも父の姿を追う自分がいる。
冬の寒さが身に染みる。腹に抱えた番号が痒い。
一際大きな木の爆ぜる音がアルを正気に戻した。
マダムは暖炉の前の特別にあしらえた一人掛けのソファに深く深く身を沈めている。火の温もりが部屋を包み、厳しい冬を一時忘れさせてくれる。マダムの身の回りの世話をするべスが暖炉にさらに木をくべた。
マグカップの中の甘いジンジャーミルクをすすり、アルは息をつく。
「突然呼び出してすまんね」
マダムはひざ掛けの裾を伸ばしながらそう言った。
「いえ、いいんです。帰るところだったから」
暖炉の前、マダムの足元で膝を伸ばし、足を投げ出した格好で、アルはマダムを見上げた。傍らに置いた帆布の配達鞄は薄っぺらで、ひっくり返してもアルのメモ帳くらいしか出てこない。
「ジェイは元気かい」
「ええ、元気ですよ。あいつは殺したってピンピンしてます」
「ほっほ。その通りだねぇ」
マダムがさも愉快そうに笑う。
「あの子と初めて会った時からそうなのよ。傷だらけの身体を引きずっていながら、口だけは達者ときた」
へえ、とアルは口の中で呟いた。珍しい話に興味が注がれる。
いつの間にか住みついた番外の男は自然と街に受け入れられていた。ジェイは決して知り合いが少ないほうではないのだが、不思議と彼の過去を知っている者はいなかった。
「ジェイの昔のことなんて初めて聞いた。その話、もっと詳しく聞きたいな」
「それはできないねぇ。私は昔語りをするためにお前さんを呼んだのではないのよ」
マダムが部屋の隅にあるベッドを指差した。
「あれをジェイのところまで届けてもらおうと思ってね」
簡素な木のベッドにはこんもりと毛布が盛られていた。いくら冬とは言え、この部屋では逆に暑かろう。
「あれは?」
「自分の目で確かめておいで」
ジンジャーミルクを飲み干し、カップをべスに返した。そばかす顔のベスはにっこりと微笑むと、カップとともに部屋から出て行った。
アルはベッドにそっと近づく。一抱えもある毛布の塊はベッドの上に鎮座していた。この家にあるありったけの毛布を集めて丸めたようにしか見えない。
思い切って毛布を一枚剥いだ。その下にも毛布があった。アルは困惑してマダムを振り返った。マダムはこちらに向かってうなずいてみせる。それをまだ剥がしてもいいという合図と受け取り、アルは本格的に毛布を剥がしにかかった。
一枚、二枚、三枚、四枚。
中に何かが包まれているらしい。塊が小さくなっていくにつれ、中の物の形が明確になっていく。その輪郭は、まるで、
「人間だ」
呟いた。不意に出た言葉に、人の輪郭がびくりと震えた。
最後の一枚を剥がす必要はなかった。毛布が勝手にめくれ上がり、中から小さな目がこちらを覗いている。まだ幼い翡翠の瞳にアルの顔が映る。
手を差し伸べた。
怯えた瞳がまた毛布の中に潜り込む。
「何もしないよ。君の顔を見せて」
差し伸べた手をそのままに、優しく声をかける。しかし、かたくなな瞳がこちらを見つめるばかりで、毛布の中から出てくる気配はない。
「マダム」
また困った顔でマダムに助けを求める。
「許しておあげ。その子はここにくるまで大変な目にあってきたの」
マダムが肘掛けの上のベルを鳴らした。澄んだ小さな音が部屋に響く。長く長く残った音が消える頃、ベスが顔を出した。
「何のご用でしょう」
くすんだ白のエプロンを畳みながらベスがやってきた。白い頬が上気している。水仕事でもしていたのか、それとも外に出ていたのか。ともあれ、ベスは呼び鈴の音をいち早く聞きつけて駆けつけた。歳で腰が立たないマダムにとって、ベスは手であり足である。それではただの召使だと心無い人は言う。だが、ベスは自らマダムの世話を買って出た娘であり、マダムを実の母親のように思っている。だから、この二人の関係は一見女主人と小間使いであるが、背後にはそんな言葉には収まり切らない、深い深い心の交流がある。
マダムはベッドを指差した。ソファの傍らに立ったベスは一つうなずき、なおも困惑顔のアルのところで膝をついた。彼女らの間に言葉はいらない。
ベスは毛布の中に手を差し入れ、優しい声で中の者をなだめる。
「私です。大丈夫ですよ。この少年はマダムのお客様です。あなたを捕まえにきたのではありません」
毛布の中でベスは背をさすっているらしい。手が動くたびに毛布の上部にできた盛り上がりが移動する。まるでこぶが動いているようだとアルは思った。
「それとも、またお腹空きましたか。だったら温かいミルクを入れましょう」
柔らかな声と暖かな言葉。母親とはこういうものなのだろうか。ぼんやりとも思い出せない母の顔と温もりが急に恋しく、切なくなる。
中に強く引き込まれた毛布がゆるゆると緩んでいく。
「かわいいお顔だけでも出しなさい。ここにいるのはみんなあなたの味方ですよ」
毛布とともに緩んでいく警戒心。子守唄のようなベスの声に誘われ、ついに頭が毛布から出た。
仮面のような無表情が綺麗だと思った。
アルは息を飲んだ。アルよりも幼い子供の顔がそこにあった。利発そうな広い額に薄い金髪がかかり、握れば折れてしまいそうな華奢な首が鎖骨の浮き出た身体へと続いている。滑らかな白い肌と翡翠の瞳はビスクドールのようだ。美少女という言葉こそ相応しい。
少女は身体を毛布で包んだままベッドの上にうずくまり、ベスとアルを見ている。豊かな金髪から見え隠れする首から、細い身体が窺い知れる。小柄で痩身の美少女だ。しかし、間違っても健康的な痩せ方ではない。満足な物を食べていない痩せ方だ。アルはそんな子供たちをごまんと見てきた。九番環の貧民窟などそんな子供で溢れかえっていたのだ。
それでも、痩せぎすの身体であっても少女は美しいと思う。
しばらく我を忘れて少女を見ていたアルは、はっと己の職務を思い出した。
「この子を届けるのか!」
少女が再び怯えた目を向ける。アルは思わず声を荒げてしまったことを後悔し、ごめん、と少女に小声で言った。
「僕は配達屋だ。手紙や荷物を運ぶのが仕事ですよ。だけど、この子は人間だ。人間を物のように配達するなんてできないよ」
「じゃあ、配達屋のアルではなく、お前さん個人へのお願いとしよう。それだといいだろう?」
マダムは動じることもない。重く垂れ下がったまぶたで開いているのかどうかわからない目がこちらを向いているだけだ。深く刻まれたしわで表情が読み取りにくい。
「そう、だけど」
「だけど、何だい?」
「どうしてジェイのところなんですか。あいつは自分のことだけで精一杯で、他の人間を省みる余裕なんてありません。ましてや、こんな子供なんて面倒くさがるだけです」
「ジェイでなくては駄目なんだよ」
ベスが少女を抱きかかえた。腕の中で少女は震え、ベスの服にしっかとしがみついている。アルを手まねで呼ぶと、ベスは少女を包む毛布を引き下げた。
白い雪の肌の上には、幾つもの痛々しい傷がのさばっていた。刃物の切り傷、焼きゴテによる火傷、殴られたと思しき青あざ。中には数字のようなものを刻んだ痕もあった。だが、役人によってつけられた番号でないことは一目瞭然だった。おびただしい傷の数々をまともに見ていられず、アルは顔を背ける。
「見たかい。これほどの傷を治せるのはジェイしかいないんだよ。お前さんも身を持って知っているだろう?」
また、腹の番号が痒い。
「それにこの子はわけありでね。お前さんだから言うけど、番号がないんだよ」
「番号がない?」
それはありえない。円環都市で生まれた人間は誰しもが番号を負う。一生消えない刻印を身体に抱えて生きていくのだ。たとえ子を産み落とした母親が拒否して逃げ出そうとも、憲兵がすぐに追いついて焼きゴテを押しつける。奴等ときたら、それこそ『中央』の狗だ。どこでもかぎつけてくる。
「ないんだよ。念入りに全身を調べたけど、どこかのろくでなしが勝手につけた物ではない、正式の番号はどこにもないのさ」
番号がない。
腹の番号が痒い。墨で書き加えられて『8』になった番号がうずく。
「本当に?」
「本当だよ。そんなに疑うんだったらお前さんの二つの眼で確認すればいい」
目の前にさらされた白い肌が急に高貴な物に感じ、アルは焦った。
「いいよ、しないよ。マダムの言葉だったら信じます」
番号がない。
その言葉が示すところがよくわからない。うまく逃れたからないのか、それとも円環の外から来たからないのか。どちらも馬鹿げた想像のように思えてならない。口で言うのは簡単だが、どちらも実際にやろうとすれば並大抵でない苦難が待ち受け、挙句『中央』に潰されるという運命が待っている。
ふと、以前ジェイの家で見た円環都市のホログラフィを思い出す。輪の『中央』は一番だっただろうか。それとも、永遠の欠番とされている零番だっただろうか。
「アル、手伝ってくれるね?」
マダムは誰かに命令することはない。何かしてもらいたければ誰かにお願いし、手伝ってもらう。決して強制することなど、ない。
「いいですよ。ジェイのところまで送ればいいんだね。その代わり、配達料はいただきますから」
「おや、仕事にするのはいやじゃなかったのかい」
アルはマダムににっこりと微笑みかける。
「配達料はジンジャーミルクをカップに二つ。僕とこの子の分です」
こっそりと脇腹をかきながら、アルは配達料の支払いを要求する。マダムはそれに柔らかな笑い声で応えた。