参考→塩素
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■クレヨン
クレヨンを買った。十二色入りのやつだ。
ちょっと古いのか、箱が少し色あせていた。蓋に描かれたヒヨコの色が白になっていた。でも、近所の文房具屋にはこれしかなかった。
店番のおばさんが、すまなそうに謝って値引きしてくれた。
ギンガムチェックの紙袋を握り締めて道を歩く。
いい天気ではなかった。冬がまた戻ってきたかのような、冷たい風の日だ。
上着の前を合わせ、片手をポケットに突っ込んだ。
途中、黄色い帽子の小学生たちとすれ違った。僕の腰くらいまでしかないような、小さなこどもたちだった。
真新しい帽子が視界の下を泳ぐ。
小学生たちの集団が十戒のように割れて、僕を取り囲み、過ぎるとまた元の集団に戻った。
ランドセルが甲羅のようだった。まだ背中の重みに慣れていないのか、よたよたと歩いていく。
彼らは寒さという言葉を知らないようだった。
歩いていたのが段々と小走りになり、ついには追いかけっこになった。
大きな声で遊びの相談をながら、彼らは遠ざかっていった。
こどもたちの笑い声につられて、僕も微笑んだ。
クレヨンはもう古い、と言っていたのは誰だっただろう。
知り合いの保母か、画材屋に勤める友人か。
手が汚れるクレヨンは歓迎されないらしい。油性だから一度服につくとなかなか落ちないし、床に書かれたら掃除が大変なのだそうだ。
今はこれだよ、と見せられたのは、鉛筆の芯をそのまま太くしたようなものだった。
クーピーという、その新しい画材はクレヨンの代わりに、そして色鉛筆の代わりに幼稚園や小学校で使われているという。クレヨンと色鉛筆の合いの子のようなものだった。
でも、僕はクレヨンがいいと思うんだ。
家に帰ると、塩素がお出迎えしてくれた。
玄関を開ける音を聞きつけ、リビングから走ってきた。
まだ幼い塩素は走ることを覚えたばかり。今にも転ばないかとハラハラさせる。
座って靴を脱ぐ僕の横に、ちょこんと座る。
いつもの「おかえりなさい」はなかった。
留守番させられたのがよほどイヤだったのか、目にもわかる拗ね方をしていた。頬を膨らませて僕の顔を見ない。
それでも出迎えてくれるのが嬉しい。
傍らに置いた紙袋を差し出した。
小さな手で紙袋をびりびりと破く。中から出てきたヒヨコの箱に、ふくれ面がとけてなくなった。
そっと蓋を開けると、クレヨンが並んでいる。同じ形で、でも色んな色で。
いいの?
問う瞳に優しくうなずきかける。
和室の襖を張り替えた。模様も何もない、真っ白な襖になった。
その白いキャンバスに、塩素は赤のクレヨンで丸を描いた。頭くらいの、ちょっとした大きさの丸だった。
少しいびつな丸が気に食わなかったのか、その横にもう一つ、丸を描いた。丸が二つになった。丸の中にもう一つ、丸を描いた。
丸を描くのに飽きたら、今度は三角を描いた。
塩素画伯のキャンバスはなおも変化を続ける。
思いつく限りの好きなものを描いていた。おひさま、イルカ、イチゴケーキ、チョコ味のアイスクリームに赤い三輪車、駄菓子屋で売っている五円の形のチョコレート。
赤や青や緑の線の中に猫の絵があった。塩素と中がいい近所のミケだった。
立ち上がってオレンジ色の丸を描いた。その中に四本線を引く。
何かと聞くと、僕を指差して、更に線を付け加える。一番長い線は半円になった。
塩素の絵の通りに笑う。
塩素も笑った。
クレヨンで汚れた手に、温かな色が見えた。
インターホンが鳴った。
塩素を和室に残して玄関に出る。そこには一人の少年と、その母親がいた。
幼稚園で塩素と同じ、年中組の少年だった。後ろ手に何かを持ち、居心地悪そうにもぞもぞとしている。
塩素を呼んだ。緑色のクレヨンを握り締めたまま走ってきた塩素は、少年を見ると僕の後ろに隠れた。
少年がぶっきらぼうに箱を差し出した。新幹線の絵のクレヨンだった。
お前の全部折っちゃったから、やる。
塩素は首を振る。少年が差し出す。塩素は受け取らない。それを何度か繰り返して、少年は箱を塩素の前に置いた。
塩素は箱を取り、少年に差し出した。少年は動かない。
やる、とだけ言った。
塩素は、今度は空いている手を差し出した。少年がその手を握ると、塩素は精一杯の力で引っ張った。
一緒に遊ぼう。
少年と塩素が和室に消えて行った。
おかしく思うほどに腰が低い母親が、およそ考えられるだけの母としての謝罪の言葉を述べる。
親からの謝罪などなくとも、二人が仲直りすればそれでいい。何が悪かったのか、本人がわかればそれでいい。
そう言っても気が済まないのか、母親が白いビニール袋を差し出してきた。
そっと中を覗くと、甘い香りが鼻をくすぐった。
襖にあった絵を思い出してくすりと笑う。
つやつやとした真っ赤な苺だった。