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■合わせ鏡
ケビンとユーキの二人だけだった。広い広い宇宙空間に漂う、狭い狭い宇宙船の中で二人きりだった。
窓から見える星々は、大気圏脱出直後には物珍しく美しく見えた。だが、そんなのはものの十分も眺めていればすぐに飽きた。宇宙はどこまでも漆黒の絨毯が広がり、その上にぽつぽつと明るい物があるだけだ。古代人のように星と星とを線でつなぎ、そこにロマンを見出すほどの豊かな感受性も持ち合わせていない。あれらは全て無機物で構成された塊なのだ。
それに気付けば星空などまったく味気なく感じた。
しかし、ケビンは今再び空を見る。上も下もない空間を虚ろに眺める。
(どうしてこんなことになってしまったのだろうか)
ぐったりと操縦席に身を沈め、混沌とした思考を整理しようと目を閉じた。そこにも漆黒の闇があるだけで、散り散りになった考えはまったくまとまろうとしなかった。
ユーキは後方にある操縦席で何やらやっていたが、舌打ち一つで切り上げてケビンの隣に座った。
「駄目だ。こいつも持っていない」
日系三世のユーキは黒曜石の瞳に空と失望を映し、大きな溜息を吐いた。
「凶器は拳銃なんだろう?」
ぼんやりとしたケビンの声にユーキが首を振る。
「どの銃だ? 船内の備品には銃器なんてない。船に搭乗する時にチェックされるから私たちの私物にもない。お前だってわかってるだろう」
「銃なんてこの船に存在しない」
「そういうこと」
ただ暗いだけの空と武骨な計器だらけの船内では、ケビンの髪がとても華やかに見えた。ややくすんだ薄い金髪でもたまらなく綺麗なものに思える。
ユーキは伸ばした手でケビンの髪を梳いた。勝手に触るといつも文句を言う男も今だけはおとなしかった。
彼らの後部席には、通信係のジムが物言わぬ肉塊となってそこに掛けている。頭に一発、胸に一発。急所に空いた小さな二つの穴からは赤い筋が流れている。胸の一発だけがやけに着弾痕が大きく、きれいに貫通していた。ほぼ密着するような距離から撃たれたからだろう。即死、という言葉こそ相応しい。見開かれていた目は、ユーキの手により閉じられている。目を閉じれば凄絶な顔も穏やかになった。
「しかし、現実に殺人は起こった」
「だから探してるんだよ」
ジムだけじゃない。他のクルーも皆、もう二度と動くことはない。倉庫で、トレーニングルームで、食堂で、寝室で。狭い宇宙船の、これまた狭い部屋の中で、一人一室を占めて死んでいる。
気付けば船内に残るのはケビンとユーキの二人だけになっていた。
「正直に言っちまえよ」
「何を」
ユーキの刺のある返事にケビンは歪んだ笑みを見せる。
「お前がみんなを殺したんだろう?」
「違う」
「じゃあ、他に誰がいるんだ。俺は俺がやっていないことを一番良く知っている。船内にいるのは俺とお前だけ。簡単じゃないか」
「私はやってない!」
「しらばっくれるな!」
「お前こそ、人に罪をなすりつけるなよ!」
「俺だってやってないさ!」
二人は声を荒げる。死体を内包したカプセルは人手による操縦がないまま、何時間も飛び続けていた。同じ時間、ケビンとユーキも操縦室にいる。ぶんぶんと唸る空調がジムの腐敗臭を室内から掻き出している。それだけが救いだった。
密室で死体とともに過ごしてもうどれくらいになるのか。緊張はとっくにピークを超え、いつ狂ってもおかしくない。怒鳴りつづけるのが無意味なことだとわかっていても、ユーキはケビンを責め立てる。
「じゃあ、ジムもグレイもキャスもマイルズもトミーもみんな自殺だって言うのか? 凶器も見つからないのに!」
「誰かが殺して自殺したかもしれないだろう!」
「銃はどこにいったんだよ!」
「お前さんがどっかに隠したんだろうよ」
ケビンはユーキを、ユーキはケビンを疑っている。猜疑心の塊が二つ、互いを見張りながらも怯えている。
最初に見つかったのはジムだった。操縦室のシートの上でうたた寝していた二人の後ろで、ジムは勝手に生を終えていた。目覚めた二人は慌てて船内に放送をかけたが反応がない。各部屋に通信を入れたが返事がない。そこで初めて船内をめぐり、二人きりになってしまったことを知った。
目覚めた時にはもうすでに全てが終わっていた。
ユーキは医師免許を持っていたが検死するまでもなかった。五つの身体に十個の穴。皆、頭と胸を撃ち抜かれて逝ってしまった。仲間たちはもう二度と起き上がらない。
母星へ通信を送ろうと言い出したのもユーキだった。しかし、通信係がいない今、母星に送れたのは電報のような文章のかけらだけだった。無事受信されるのか、一抹の不安が残る。
「どこに隠す。このつるりとしたスーツのどこに隠すと言うんだ!」
上下が繋がったベージュのスーツには着脱用のチャックの他に穴らしい穴がない。身体にフィットするよう、個人個人のサイズを測って作ったオーダーメイドの一品だ。光沢のあるスーツは下着の線すら見えそうだ。
「隠そうと思えば隠せるんじゃないのか。女ってそういう生物だからな」
「ケビン!」
ケビンの頬に平手が飛んだ。わななく唇を噛んだユーキがケビンを睨む。
「私は冗談が嫌いだ」
わかっている。ケビンがなぜ下卑た冗談を言うのか。ユーキがなぜその冗談をたしなめたのか。
ユーキは再びシートに座る。肩を落とし、手で顔を覆った。
「こんなはずではなかった」
「ああ、こんなはずじゃなかった」
希望を載せた探査船はたった一日でその荷を絶望へと変えた。数日後か数年後かわからないが、彼らは希望の代わりに新エネルギーを載せて帰還する予定だったのだ。こんな暗い絶望ではない。死に瀕した惑星を救う数少ない道は今絶たれた。
「なあ、ケビン」
ユーキが再び彼に問う。
「お前は本当に自分じゃないと言い張るんだな」
弛緩した空気にピンと張り詰めたものが戻る。
「俺じゃない。こいつにかけて誓う」
ケビンはスーツの胸元からロザリオを引っ張り出した。傷だらけの銀の十字架は、ケビンの武骨な手の中で光る。
「犯人は誰なんだ。犯人はいるのか。何が目的なんだ」
「ジムに聞いてみろよ。絶対目撃しているからな」
後部席を指差す。抵抗もせぬままに撃ち殺された男の死体がある。
「私の祖母の国には死人に口無しという言葉がある」
ユーキはケビンの面白くもない冗談に、とうに飽きていた。磨り減った神経に障るからできるだけ関わりたくない。目の下に暗い影を落とすケビンの横顔をぼんやりと眺める。急にこの男が探索隊に志願したことを不思議に思った。それまで町の整備工だった男だ。宇宙に関心があったわけでも、特別な技術があったわけでもない。かと言って過去に素晴らしい研究をしたような気配もない。大学はおろか、高校すら満足に出ていない凡夫にすぎないのだ。
ケビンはケビンで、ユーキが探索隊に参加していることに違和感を覚えている。やっと研修医から一人前の医者になれた女だ。有名な医大を卒業しているらしいが、そんなものに興味がないケビンにはいまひとつピンとこない。男に負けじと頑張っているところは認めるが、それが過ぎるあまりにチームから孤立していた。
「そうだ」
突然ユーキが声を上げた。
「みんなに直接聞けばいいんだ」
「みんなって誰だよ。頭おかしくなったのか?」
「私はいたって正常だ。みんなはみんな。クルーに聞けばいい」
「クルーは、俺たち二人を除いて全員死んでいる」
「だから、死人に聞くんだ」
今度こそ、本当に頭がおかしくなったのだと思った。なまじっか頭がいいばかりに、自分より先に壊れてしまったのだと思った。ケビンは驚くよりも腹立つよりも、ユーキの愚かさに呆れかえった。
どうやって、と尋ねるより早くユーキは勝手に説明する。
「私の祖母の国には合わせ鏡の伝説がある。いや、伝説と言うよりは噂だな。深夜二時、合わせ鏡の中を覗くと死者が映っているんだ。そしてそいつらに話しかけると死の国に連れ去られてしまう」
「連れ去られたら元も子もない」
「どっちにしろ、このままでは死んでしまうんだ。どうせ死ぬならすっきりと謎が解けてから死んだほうがいい」
変な女、とケビンは胸の中でつぶやいた。
ともあれ、ユーキは思い立ったらすぐに実行に移した。立ち上がり、ジムの死体の脇を抜け、操縦室から出て行く。ケビンはユーキの妄言を信じるどころか、心の底から馬鹿にしていた。大学出のエリート女医が、最後に頼ったのは迷信だったのだ。嘲るような笑みが知らず顔に出る。神も悪魔も信じない、二つの眼で見える物が全てだと言い切った女だ。カトリックのケビンを笑った女だ。男には、ユーキがガキにしか思えなかった。
星々は冷ややかにケビンを見下ろす。かつて母星で見上げていた星の瞬きが懐かしい。黒いビロードに散りばめた豆電球にはまったく魅力を感じない。ジュニアスクールの理科の実験だ。
間もなくユーキが戻ってきた。両手に二枚の鏡を抱えて。一枚はトレーニングルームにあった姿見、もう一枚は洗面所にあった鏡だ。洗面所に設えてあった鏡は、無理矢理はがして持ってきたらしい。周囲にプラスチックと塗料のカスをこびりつかせていた。裏面はさぞ悲惨な様相を呈しているのだろう。
ユーキは姿見をシートにもたれさせ、立たせようとしているがどうにもうまくいかない。背もたれの高さが思ったよりも低く、姿見の高さに合わないのだ。
「これ持ってて」
思考錯誤した挙句、姿見はケビンの手に託された。突っぱねる理由も思いつかず、ケビンは渋々鏡を持つ。滑り止め付きのグローブは、薄いガラス板を持つのにちょうど良かった。ユーキは小さなほうの鏡を下に向けて持ち、向かい合う位置に立つ。
「いい?」
「好きにしろ」
無性に煙草が欲しい。男の喉がうずく。人差し指と中指が細い紙巻を求めている。
洗面所にあった鏡がこちらを向いた。銀色の四角い枠がケビンを映す。もちろん姿見も。枠の中に映った姿見がさらに線免除の鏡を映す。鏡が鏡を映し、映された鏡がまた鏡を映す。まるで無限に続くドアのように、冷やりとした鏡の迷宮がケビンとユーキの間に作り出された。
ぽっかりと口を開けた迷宮には闇も光もない。忠実に室内を写し取っているだけだ。
「ほらみろ、何も」
と、言いかけたケビンが目を見張った。硬直した顔の血の気が引いていく。耳の奥に響く以上に大きい振動だけが、今を現実と認識させる。いったい何の音かと思えば、歯の根が合わずに鳴っていた。足元がすくわれるというのはこういうことなのか、震える足で立っている感覚がない。
ユーキはすでに言葉を失っていた。ぽかんと開けた唇は血の色が失せ、紫に変わっていた。目は鏡の中に釘付けになっている。
迷宮を遡ってくる物があった。黒い濁流という表現が一番相応しい。光をも飲み込む暗い塊が、みみずのようにうねりながら次々と鏡面世界の鏡の枠を抜け出してくる。大きさはユーキが持っている鏡をぎりぎりくぐり抜けられるくらい。しかし、流動性のある柔らかな物体には大きさという概念は似つかわしくない。腕もない。ひれもない。目もない。触角もない。黒い尾はどこまでも続く。ぞぶぞぶと見えない水を掻き分けながらやってくる。
せまりくる黒い塊から逃げよと本能が叫んだ。それは我々の手に負える相手ではない。奴が出てきたらそれは死を意味する。
ユーキの喉がひきつったような音を上げた。悲鳴をあげたくても声が出なかった。ケビンは聖書の文句を口の中で唱える。神よ、我を救い給え。
塊を退ける方法はわかっていた。簡単なことだ。鏡を背けてしまえばいい。だが、別の何かに支配された筋肉は、指先一つ動かすことを許さない。辛うじて自由になるのは頭から上だけ。ケビンとユーキは自らの望むところでなく、黒い塊の進む道を映し続ける。
ついに、その物体は出口へと辿りついた。鏡面が波打った。姿見からずぶりと黒い頭を突き出し、もたげる。そこで塊の進行は止まった。
と、耳をつんざく甲高い音が操縦室に響いた。コンソールパネルに設えられた液晶モニターの表面にひびが入る。目を閉じ、歯を食いしばる。身体を動かすことのできない二人は耳を塞ぐこともできず、耐えるしかなかった。
鼓膜が破れるか、というところで音が止んだ。耳の中の残響音がリーンと鳴っていたが、もう痛くはなかった。
そろそろと目を開ける。
黒い物体の表面が波打っていた。水というよりはゼリーに近いだろう。頂点と思しき場所を中心として、水よりも濃度の濃い波紋が広がっている。中心が突出し、へこみ、また突出する。それを何度も繰り返し、物体はぶよぶよと動いていた。
中央から細長い枝のようなものが生えてきた。ゼリーをかきわけるようにして生えてきた枝もまた特定の形を持たず、くねくねと触手のように動いた。やがて枝の先端が膨らんできた。マッチ棒のような頭が形成されると、今度はさらに細い枝が二本分かれた。
人だ。
ケビンは息を飲んだ。
黒い物体の先端が人の形に変化している。滑らかだったマッチ棒の表面に突起ができて鼻になった。窪みは目と口に変わり、先端が裂けたと思ったら細かい頭髪になった。二本の枝は腕になり、さらに先が分かれて手となった。腰から下は黒い塊と接合したままだ。半蛇の黒い化物にも見える。
目玉のない眼窩がゆっくりと開いた。表情のない虚ろなその顔は、ジムのものだった。
『暗い』
地の底から響くような低い声。しかしながら、よく知った音を持つ声。
『寒い。見えない。ここはどこだ。俺はどうなったんだ』
黒い腕が何かを求めて宙をさまよう。空をつかんでは離し、かぶりをあちらこちらに動かす。
『誰か、誰かいないのか。独りにしないでくれ』
「ジム、聞こえるか。私だ。ユーキだ」
ジムの姿をした何かを真正面に据えたユーキが震えた声で言った。ジムの姿をした物が声にわずかに反応し、動いた。
『誰だ。今、俺を呼んだのか』
「そうだ。呼んだ。私が呼んだ。覚えているか」
『ああ、聞こえない。音は聞こえるが、何を言っているのかわからない』
ケビンは震えていた。胸のロザリオを想像上の手で握り締め、絶えず主への祈りを続けていた。
「ユーキだ。お前と同じ探索隊のユーキだ」
『聞きたい。他の人間の声が聞きたい。孤独は嫌だ』
口はぱくぱくと動いているが、その中に穴はなかった。音を出すべき咽喉が存在しないのだ。人の姿を模しただけの化物は、行動もやはり人を真似るだけだ。喋るふりをして口を動かし、息を吸うふりをして小鼻を膨らます。本当に人間が必要としている器官はない。鼻の穴も耳の穴もないし、目玉もない。
『どうして俺がこんな目に遭わなければならないんだ。憎い。あいつが憎い』
「あいつ?」
いぶかしむ声。
『許さない。俺を拒否したあいつを、許さない』
「あいつって、誰なんだ」
ケビンが尋ねるようにユーキを見た。緊張した面持ちで、それでもリラックスしようと努めているのか、ユーキは肩をすくめた。
「知らない」
『どこだ、どこにいる』
ジムの恨みごとは続く。低音が内臓をつかんで揺さぶっている。空っぽの胃にたとえようもない不快感を覚え、ケビンはえづいた。
『光だ。俺に光をよこせ!』
ジムの目にあたる窪みに変化が起こった。滑らかながらも黒かった表面が白く濁ってくる。じわりと内部から白濁液がにじみ、丸く形作っていく。はじめこそ対流している様子が見えた白濁液は濃度を増し、そのまま凝固した。ちょうど、ガラス玉を二つはめ込んだような具合だ。
顔面に張りついた、飾りでしかなかったまぶたが閉じた。次に開いた時には、窪みはすっかりなくなっていた。真っ白だったガラス玉の中には黒い斑点が浮いている。
ぎょろりと二つの玉が動いた。
目だ。化物はジムの姿に目玉を与えた。
『見える。見えるぞ』
黒い顔に笑顔を浮かべ、一際目立つ白い目をきょろきょろ動かしている。
『ここは船内だ。俺の仕事場だ』
ユーキの手が鏡を落とした。何よりも丈夫に作られている船室の床に当たって砕ける。
「消えて」
ヒステリックなガラスの破砕音にまぎれてユーキが呟いた。砕け散った欠片がブーツに刺さるのも構わない。
しかし残念ながら彼女の望みは叶わず、合わせ鏡が消えてもなお、ジムと化物はそこに存在した。鏡の迷宮もまたしかり。ケビンの持つ姿見の中にはどこまでも続く回廊が映りこんでいた。
身体に当たった鏡の欠片に反応し、ユーキのほうを向いた。巨大な根に生えたジムが見下ろしている。
『ユーキ』
名前を言う声には感情がこもっていなかった。
『そこにいたんだ』
ジムの唇がにやりと歪んだ。同時に、みるみるうちにジムの腰から下が横一線に裂けていった。すうっと入ったラインから上下に割れる。ユーキには、大蛇が大口を開いたように見えた。
『さよなら』
見た光景は真っ黒い世界だった。
そこから先のユーキの記憶はない。すっぽりと頭から化物に飲みこまれ、次に化物が口を開いた時にはもうその姿はなかった。
「ユーキ?」
ケビンには、ユーキが一瞬で消えたようにしか見えなかった。黒い塊の陰になったかと思ったら、次には姿を消していた。
「おい、ユー」
ケビンの呼びかけはそこで切れた。がらりと姿見が床に落ちる。丈夫な枠に収まっていた姿見は割れることなく、天井を映している。もっとも、鏡面の半分以上は黒い化物の身体で占められていた。
化物はしばらくジムの頭を左右に振っていた。人間らしく周囲を見渡しているつもりなのだ。しかし誰もいないことを知るとジムの身体をつけたまま、姿見の中に戻って行く。ずるりと元の鏡面世界に吸い込まれて行く。
ジムの笑い声だけが残響音として残る。耳につく粘性の笑い声はやがてべちゃべちゃという音に変わり、化物が身体表面を波立たせる音に溶けこんでいった。
鏡の迷宮はもうない。姿見の中に映った天井の一角に消え失せる。
そして、誰もいなくなった。