21/100

■はさみ

 ふと我に返ればいつもいつも追われている。追われ、当てもなく走っている。焦燥感に苛まれ、さっきまで何をしていたのか、それすらも思い出せない
 止まったら一巻の終わりだ。転んだりしたら、それこそどうなるかわからない。足元と前方にありったけの注意を払い、その上で後ろを気にしながら走る。そのなんと疲れることか。
 もうどうなっても良いと自棄になり、そこの電信柱に背を預けてもいいだろう。ちらりと思いこそはすれ、私は実行できない。やはり追われることの恐怖、追ってくるものへの畏怖が先に立つ。
 追ってくるものが何であるかなぞ気にすることもやめた。ただあれは怖いという対象にすぎない。時折聞こえる、しゃきんしゃきんという音が私を駆りたてる。
 臆病な私はただ走るしかない。

*****

 実にまったく平和で平凡ですっきりとした天気の日曜だった。急かされることがないというだけで心も晴れ晴れとしている。子供と公園にでも出かけようと思うのも当然のことだろう。
 三歳になる息子と手をつなぎ、まだ掃除をしている妻に声をかける。
「じゃあ、行ってくるよ」
 騒がしい掃除機の音が止まった。妻は玄関まで出てきて、小さな水筒を息子の首にかけた。いってらっしゃい、と微笑む妻の顔。かつてはまぶしく思った笑顔も、今は心安らかにしてくれる。息子の明るい声とともに家を出た。
 歩いてたった五分の公園でも、「パパとおでかけ」には変わらなかった。いつになくはしゃぐ息子に、普段の不義理なパパを許してほしいとこっそり思う。毎日続く残業で、我が息子の顔すらろくに見られない生活。休日出勤も続き、もうへとへとに疲れていた。しかし、そんな毎日を頑張ったからこそ、息子の笑顔というご褒美が待っている。私は息子の笑顔を守るために働いているのだろう。
 公園は明るい日曜に相応しく、明るい人々が集まっていた。芝生が輝いて見える。各々その上で寝そべったりフリスビーを飛ばしたりしている。皆それぞれが落ち着いた表情で、公園での休日を満喫していた。
 小さなスニーカーを履いた息子が走っていく。私はあわてて後を追う。この子がこんなに走るようになったのはいつのことだっけ、と思い出を探る。子供が成長するのは本当に早い。妻の腕に抱かれていた子が、今では二本の足でしっかりと大地を踏みしめている。
 もっともっと大きくなれよ。パパを追い越すくらい大きくなれ。
 息子が私を呼んだ。何かを見つけたのか、芝生の真ん中にしゃがみ込んでいる。
「何があった?」
 息子の上から覗き込むと、黒い殻がもぞもぞと動いていた。大きな角を持ち、赤みを帯びた外骨格はまぶしい光を反射している。
「ああ、カブトムシだね」
「カブトムシ!」
 田舎で生まれ育った私と違い、コンクリートの中で育った幼い息子は、初めて見る本物のカブトムシに目を見張った。そっと手を出し、二つに分かれた角の先をつんと触る。小さな足が抗議するようにせわしく動いた。
「すごい、生きてる!」
「つかんでごらん」
「ちょっとこわい」
 そう言いながらも手を出す。小さな二本の指で、カブトムシの背を挟み込むように持ち上げる。だが、足を動かして身をよじるカブトムシに驚いてすぐに落とした。果敢にも息子は再び小さな虫に挑む。
 山に行ったらもっといるんだけどな。そう思って、ふと気付いた。
 どうしてここにカブトムシなんかがいるんだ。
 山でもなければ林でもなく、都会のど真ん中にある公園だ。それに、今はカブトムシの季節ではない。
「今、幸せですか?」
「うわあっ!」
 突然の声に情けない悲鳴をあげてしまった。息子とともにしゃがみこんでいた私の背後に、いつのまにか人が立っていた。それも、こんな日に似つかわしくない、真っ黒な服に身を包んだ青年だった。色白な顔には造り物のようにきれいで、そしてどことなく見覚えがあった。
「驚かせてごめんなさい。楽しそうな親子連れなので、思わず声をかけてしまいました」
 きれいな顔の青年は穏やかな笑みを浮かべる。真っ黒な手袋がカブトムシを持ち上げ、息子の腕に載せた。予想外の展開に、息子は驚き半分喜び半分、腕をよじ登って行くカブトムシを見つめた。
「今、幸せですか?」
 再び同じ問いかけ。私は笑みを返し、
「ええ、幸せですよ」
 答えた。人生の中でも最高の笑顔だった。
「いいね、実にいい」
 青年がどこからかハサミを取り出した。ほっそりとした手には大きすぎるほどの、銀色の裁ちバサミだった。
 ひどい寒気を感じる。
「その幸せ、僕が絶ち切ることができるとしても?」
 しゃきん、とハサミが鳴った。
 空が消えた。太陽も雲もなくなる。遠くに見えたビル群も消えた。夜よりも暗い闇が広がる。
 しゃきん、ともう一度ハサミが鳴った。
 目の前にいたはずの息子が、カブトムシとともに消え去った。
 しゃきん、と三回目のハサミの音。
 今度は何も消えなかった。公園だけは残っている。陰鬱な濁った緑色の芝生が地面を覆い、休日を過ごす人々の顔から顔が消えた。目も鼻も口もない、つるりとした真っ白い顔面がこちらを見ている。その音で私は思い出した。
 逃げなければ。
 ここから、あれから逃げなければ。
 青年が嗤う。
 ハサミの先端が私の額に触れた。
 背中を走る悪寒。筋肉が、神経が、脳が全力で逃げろと警鐘を鳴らす。早く、早く逃げろ。どこまでも遠くへ走れ。もうここには帰ってくるな。
 つい、と青年が寄ってきても硬直した身体は動かない。
 私の耳元に唇を寄せる。
「これは夢だよ」
 悪夢はそう囁いた。

戻る