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■パステルエナメル

 平筆が号数違いで三本。黒コンテ四箱。キャンバスナイフ一本。オイル持てるだけ。カドミウムレッド三本、何でもいいからブラック四本、アイボリーホワイト二十本、ジョーンブリヤン十四本。
「二十本?」
 思わず声に出してしまう。私が返したメモを畳んで胸ポケットに入れながら部長さんは苦笑した。
「中里だよ」
 蝉が鳴いている。ここ最近特にうるさくなった。一斉に地上にあがってきたのかもしれない。騒がしく自らの存在を誇示し、短く定められた命を精一杯燃やしている。地上を謳歌しているというよりは、必死に生きようとしているように見えた。
 照りつける日差しは驚くほど攻撃的で、むき出しの腕をじりじりと焼いていく。半袖の跡が白く残るのが嫌で私はシャツの袖をまくった。蚊に食われた跡が呪術の刻印のように見えた。
 屋根もない停留所で私と部長さんはバスを待つ。だけど入部したて一年生の私と、三年生の部長さんではなかなか会話も続かず、二、三言、言葉を交わしては沈黙が降りるを繰り返していた。高校がある小高い丘を降り、隣町までいかないと画材屋はない。それまで間が持ちそうにない。
「部長、中里さんは何に突き動かされているんですか」
「さあねぇ」
 これといって気の利いた話題もなく、どうしても話は我らが孤高の天才のことになってしまう。その人は今も美術室でひとり、筆を振るっているはずだった。
「前はあんな奴じゃなかったんだよ。普通に絵を描いて学生向けのそこそこの賞をもらって、そしてまた絵を描く。本当にどこにでもいる普通の奴だったんだ。下の絵って見たことある?」
 うなずく。それはある時は写実的であったり印象的であったり抽象的であったりと画風は様々で、だけどたったひとつ言えるのはどれもこれも素晴らしく、人の心を捉えて離さない絵だったということだ。
「すごいと思いました。一部分しか見てませんけど、全身総毛立ちました」
 部長さんもうなずいた。
「俺もそう思う。絵としてはあれでもう十分だし、前はあの段階で完成だったんだ」
「どうしてあんなに素晴らしいものを中里さんは塗り潰しててしまうんですか」
 わからない、と部長さんは首を振る。
 中里さんの下絵は万人が認めるほどに素晴らしい。表面的な技巧はもちろん、そこに込められた想いとでも言うのだろうか、あらゆる人間の精神的営みが危ういバランスで同居し、絶妙に一枚に収まっている。まさに芸術という言葉が相応しく、その辺の美術家や批評家が見たら裸足で逃げ出してしまうのではないかと思う。
 だけどそれはあくまで下絵。中里さんはその絵をいつも一色に塗り潰してしまう。アイボリーホワイトとジョーンブリヤンを配合した色、パステルエナメルで一色に。才能がな私なんかはもったいないと思ってしまうけど、こうしないと中里さんは決して「できた」とは言わなかった。厚く厚く絵具を重ねて塗りこめて、やっと完成する。
「あいつの考えていることは俺にはもうわからん。だけど、ああしないとあいつの中で絵として昇華されないんだろう」
 アイボリーホワイト二十本、全部使ってできるパステルエナメル。塗り重ねる色はいつもこれと決まっていた。準備室に並ぶ何枚ものキャンバスは、大きさこそ違えど全てのっぺりとしたパステルエナメルのパネルと化していた。
 今、中里さんは百号のキャンバスに挑んでいる。一心不乱に描いているその肩越しから見えた、絵巻物のように壮大で鮮やかで物語に満ち溢れたあの絵も一色に染めてしまうのだろう。百号は大きすぎて、おそらく二十本程度じゃ足りない。
 気になって何でこの色なのか聞いたことがある。すでに半分塗り潰されたキャンバスの前で、「白じゃ綺麗過ぎるから」と哀しげな笑顔とともに答えが返ってきたのを覚えている。
「なあ、聞いた? 中里、美大に行かないんだと」
 嘘、と思わず声が出た。
「ご家族は反対してないって聞きましたし、美術の先生だって推薦書を書くって言ってるんですよ」
「それでも本人が希望してないんだからしかたないよ」
 聞くと、東京のごく普通の大学のごく普通の学部。無難すぎて今ひとつ冴えない進路だった。
「じゃあ、あの百号が」
「うん、もしかするとあいつの最後の作品になるかもな」
 陽炎の向こうにゆらゆらと緑色の車体が見える。坂をバスが上ってくる。紺の帽子に水色のシャツの運転手。どこまでも高い青い空に真っ白な雲。濃緑の葉に、蝉が張り付く焦げ茶の木の幹。春先にクリーム色に塗り替えられた校舎。バス停の赤い円盤。世界はこんなに色に満ちている。似ているようでもよくよく見れば二つと同じ色はない。時を経ればそれだけ色は変わる。それぞれが個性を放ち、世界を彩っている。
 だけど中里さんは全てをパステルエナメルに塗り潰す。まるでそれが原初であるともいうように、まるでそこに何もなかったかのように、覆い尽くす。あとに残るのはいつも、絞り尽くされて空になったチューブだけだった。

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