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■ガムテープ
鼻歌を歌いながら、男はガムテープを巻いていく。それはそれは天気のいい日に主婦が真っ白なシーツを干すような、そんな上機嫌な鼻歌で。
武骨な手がガムテープを切る。貼る。細い隙間には細く裂いたガムテープをあてがう。
白濁した右目には濁った世界も映らない。幸せな右目。
遠くまで見通せる左目は濁った世界しか映らない。不幸な左目。
だけど男は今は幸せだった。
ガムテープでそれを巻きながら、素晴らしい機会を下さった神に祈りすら捧げた。生まれたその瞬間からこれっぽっちも信じていなかった神に。
めぐり合い。それを運命ととるか。それともただの偶然ととるか。男は前者と信じた。相手も前者と信じた。しかし、お互いに一致したのはそれだけだ。後は続く不幸の下り坂。
だけど今日ばかりは男も上機嫌だった。三本目の新しいガムテープの袋を破りながら、男は鼻歌を続ける。同じフレーズを何度も何度も繰り返す。終わりを知らない曲だけど、終わりなんてこないほうが良かった。
新品のガムテープの始まりを見つけ、爪で剥がす。気持ちのいい音を立ててテープが剥がれていく。先を二センチ剥がしたら、手を持ち替えて一気に引っ張る。この時の音がまたいい。
男はガムテープを巻いていく。丁寧に、丁寧に。綻びが出ないように丁寧に。
右目が見えなくなったのは何年前のことだったか。随分と昔の話だ。忘れてしまいそうなくらい昔のこと。
あれも今日のような日だった。今日のようにガムテープで巻いていた。
男は右目を覆う眼帯を押さえた。思い出そうとすると右目が疼く。鈍い痛みが鼻歌を止めた。
考えるのはやめにした。考えないでただひたすらガムテープを巻こう。
鼻歌。
曲名も知らない歌を延々と歌う。
考えないのはいいことだ。頭を悩まさなければ人は幸せになれる。
見えないのもいいことだ。余計な物を見なければ頭を悩まさないで済む。
だから男は右目が見えないことを不幸だとは考えていなかったし、無心にガムテープを巻くことも幸せだと思っていた。
三本目が終わる。固くて丸い芯にへばりついた終端を丁寧に剥がし、特に力をこめて貼りつけた。貼りつけたけど、粘着部には薄く剥がれた芯がくっついていて、結局だらりと垂れ下がった。
しょうがないことだ。新しいガムテープを出して上から貼ればそれでいい。
ベルトに挿したナイフを抜いた。これも無心になって砥いだ自慢のナイフだ。大きなナイフ。使い込んだナイフ。刃が光を受けて輝くところなど、何にも増して美しい。だから男はナイフを外で抜くことはなかった。こんなに美しい刃物、誰が狙うともしれない。
ナイフでガムテープの芯を刻んだ。丸い表面に刃を立て、微妙に角度をつけてスライスしていった。切れ味抜群のナイフにより、固い芯は薄い一枚の紙切れとなっていく。昨日テレビで観た大根の桂剥きを同じになった。切り終えて、薄い薄い紙切れが積もると、今度は紙を束にしてさらに切った。細く細く、シュレッダーで切るよりも細く。これも昨日テレビで観た。刺身のつまの作り方。
刻み終え、紙くずと成り果てたガムテープの芯をそれにまぶした。特に意味のある行動ではない。男は何となく、そうしてみたかった。
もう動かないと思っていたそれがもそりと動いた。
男は笑った。嬉しかった。予想外のことが起きるととても嬉しい。空に向かって叫びたくなる。
ガムテープでぐるぐる巻きになったそれは鈍く動く。否。鈍くしか動けない。四肢をガムテープで固められ、動こうにも動けないのだ。くぐもった声が何かを叫んだ。叫びになる前に、口であろう部分を男は手で押さえてみる。くぐもった音がさらにくぐもる。声にもならずに封じられる。
唯一、ガムテープで覆われずに残っていた鼻。白く、高く、尖っていて実に形のいい鼻。穴の形までもが美しい。かつては愛しいと思った鼻。今も愛しいと思っている鼻。
だから残した。
男は四本目のガムテープを引き裂いた。親指大くらいの大きさにしたそれで鼻腔を塞いでいく。行き所のない空気がガムテープを膨らませた。男はそれを見てさらに笑った。
丁寧に、丁寧に、湿布を貼るように丁寧に、小鼻をガムテープで覆った。鼻の頭をガムテープで覆った。鼻筋をガムテープで覆った。
かつて男が愛した女は、それも一方的に愛した女はこれでまったく見えなくなった。
男はガムテープを巻いていく。鼻歌を歌いながら、シーツでも干すように。