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■デルタ
「聞いてくださいよ一ノ瀬さん」
「何でしょうか武本さん」
「俺、もうあいつが好きで好きでたまんないんすよ」
切ない声でそう言って、亮ちゃんは煙を吐いた。だらりとベランダの手すりから下がった指先に灯る赤い光。煙草から薄い紫煙が上がる。
「じゃあ言っちゃえばいいじゃない」
ベランダの、隣の部屋との仕切り越しから覗いた顔が「はあ?」と眉を寄せた・
「できたらこんな相談してないよ」
「そうだよね。亮ちゃんへタレだもんね」
「おいおい、またストレートにぐっさり言うねお姉さん。もうちょっとオブラートにくるんでくれよ。繊細だとかガラスのハートだとか」
「そんな気の利いた女じゃないの。ごめんね」
ひらひらと宙を掻く手が見える。お隣さんはいつもこんな具合に悩んでいる。悩んではベランダ越しに人を呼び出し、だらだらと愚痴を垂れるのだ。私はいつも片手にビール。残念ながら、他人様の身を焦がすほどの恋の悩みに素面で付き合えるほど、優しい性格ではない。そして結果、隣の部屋同士、ベランダにもたれて語り合う男女という謎の絵ができあがる。同じマンションで、しかもお隣さんだからできることだが、外から見たらかなり奇妙な光景には違いない。
「なこちゃんはどうなんだよ。かれこれ十年近く実らずの恋なんじゃないの?」
痛いところを突いてくる。しかもわかってやってるんだからタチが悪い。
「ほっとけ。私の勝手だ」
言ってぐいっとビール……じゃなくて発泡酒をあおる。軽い喉越し。この程度じゃ酔わないとわかりつつもビールには手が出ない。いつの世も学生は貧乏なのだ。「飲む?」とまだ空けてない一本を亮ちゃんに差し出すと、「それじゃ遠慮なく」と受け取ってプルタブを起こした。
「ねーねー、告白しないのー?」
「してるよ! 何度もしてるってば! 年一回は必ず言ってるよ!」
思わず振り上げた爪先が、転がしてある空き缶を蹴飛ばす。
「なんでそれでダメなのかなー。なこちゃん、こーんないい子なのに、あいつも見る目ないね」
亮ちゃんは手を伸ばし、私の頭をぽんぽんと優しく撫でる。大きな手からほんのりと漂う煙草の香りがとても大人っぽい。いつもは子供みたいな男なのに、こんな時だけは年齢相応の二十三歳に見えた。
「だったらあんたがもらってくれよ」
「それは無理。俺もあいつ一筋だから」
じゃあ最初から言うなよ、と私は溜息をつく。そしてますます、こんなデリカシーのない男にあいつは渡せない、と心に誓う。何しろ亮ちゃんとは年季が違う。気付けば二桁に差し掛かっていた。
だけどその亮ちゃんも並半端な覚悟じゃないというのはわかっている。私たちより二年早く大学に入学した亮ちゃん。本当ならとっくに卒業して社会人デビューしているはずなのに、私たちと同じ三年生をやっている。それもこれも、愛の力。
「実るはずもない恋で二留するなんてバカじゃないの?」
「そんなのやってみないとわかんねーよ。ふとした瞬間にくらりと落ちるかもしれないもんな」
そうして夜の更けるままに二人でぐだぐだ話していたら上から声が降ってきた。
「亮ちゃんも美奈子も何してんのー?」
件の青年がベランダから身を乗り出して、ひょこっと顔を見せる。この時間だとバイト帰りでシャワーを浴びた直後かな。ほんのり頬が上気していた。いつもはワックスで固めている髪は生乾きで、前髪が下りている。中学の時からほとんど変わらない幼さの残る顔。さすがに声は低く変わったけど、無邪気さと明るさは変わっていない。この歳でかわいい男なんてそうそう存在しないでしょう。
私と亮ちゃんは真っ赤な顔を見合わせる。お互い頬が緩んでいるのはばっちりわかっていたけど、どうにも元の顔には戻らない。にやけた面のまま二人とも上の階を見上げた。
「青山ー、愛してるよー」
「私も私もー」
へらへらと手を振る私たち。酒の力って偉大だと思う。
「二人とも何言ってんの! もう、近所迷惑だよ!」
そう言う青山は、しかし顔が真っ赤になっていた。私たちと違って酒も入っていないのに。冗談とも本気とも取れる言葉で戸惑わせるのは少しかわいそうかもしれない。だけど私たちの想いは止まらないし、誰にも止められない。想うだけなら自由だ。
そして私はほんのちょっとだけ、三人のこういう関係も悪くないかなと思っていた。