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■階段
階段の十二段目に縄が張られていた。それはもう、極太の麻縄が。
私はそれを見て、頭を抱えた。
一目で嫌がらせとわかる。
最上階の四階には特別教室が並んでいる。一番奥が図工室、その隣が家庭科室、さらに隣が理科室で、一番奥が音楽室といった具合だ。普通のクラスルームはない。
そしてこの五時間目、四階で授業があるのは五年二組の図工、ただ一つ。
職員室から一番近い東階段を上がってくる教師は私一人。
そもそも、五年二組は問題児だらけで、ベテラン教師ですら手を焼くようなクラスだ。
近頃流行りの学級崩壊とやらならまだマシだと思えるくらい。
何が困るって、こうやって担任を罠にかけることだ。
着任早々のご挨拶もすごいものだった。
ドアに挟んである黒板消しを見つけ、避けてみたらそれは囮。黒板消しが落ちるのをスイッチとして、顔面にドッヂボールが飛んできた。よろけて思わず触れた傘立てには弱い電流が走っていた。
まったく、小学生とは思えないほど手の込んだトラップである。
かわいい教え子なんてドラマの世界にしかいないのね。
穏やかで優しい先生を目指していた私の理想は脆くも崩れ、それから毎日のように怒鳴っている。
一見大人しくて聞き分けの良いこどもというのは仮の姿。
クラスの団結力はおそろしいほど強く、それでいて全員が悪戯大好きときた。おそらく他のクラスよりも勉強はできるのだろうが、悪知恵ばかり働く。
その仲の良さを別の方へと向ければいいのに、この春着任したばかりの私、三科晴美は溜息をつく毎日を送っている。
で、問題は目の前にある麻縄である。
踊り場への最後の段、ちょうど脛のあたりの高さに張ってある。
こんなに判りやすく縄が張ってあるということは、二次トラップがあるということだ。縄をまたいだらバケツの水が降ってくるとか、BB弾が飛んでくるとか。
付き合いが半年にも及べば悪ガキどもの手口にも慣れてくる。
油断はできない。
二次トラップのことを考えると、わざとこの縄に引っかかったほうがいいのだろうか。こんなものにも引っかかる間抜けな三科先生を演じたほうが良いのだろうか。
つまらないと思われるか、罠の仕掛けがいがあると思われるか。
二次トラップがあることを予測すれば、悪ガキどもは前者のように考えるだろう。そしてこれ以降、単純な罠を張るようになるかもしれない。
いやいや。
私がこう考えているところまで予測しているかもしれない。
相手を子供と考えるのがまず間違いだろう。クラス三十八人の中には、あの梁瀬もいるのだ。
梁瀬は悪ガキどもの中でも一番質の悪い少年だ。弁護士の息子でIQがとんでもなく高く、本当ならばこんな公立小学校にいるのがおかしいような子供だった。傘立てに電流、というトラップもこいつが考えた。頭がいいだけに、やけに大人を斜めに見ている節がある。全然子供らしくない。
もう、あいつの小馬鹿にしたような目を思い出しても頭にくる。
どうせ私は三流私大出身ですよ。
麻縄を睨みつける。どこからか梁瀬の笑い声が聞こえてくるようだった。
振り向いてみた。
何人かが頭を引っ込めるのが見えた。階段の手すりから顔を覗かせて、私の一挙一動を見守っているらしい。
まったく、チャイム通りに教室にいたためしなどない。
もう予鈴も鳴り、私も早く図工室に行かないといけない。だが、しかし。
大人の余裕で引っかかってやるべきなのか。
大人の理性で引っかからないべきなのか。
私にもっと時間をくれ。考える時間をくれ。こんな、目には子供だましと思えるようなトラップに引っかかってやるのが、教師としての努めなのだろうか。
子供はのびのびと成長していくべきです。それを陰から支えるのが教育者なのですよ。
そう教えてくれた児童教育論の長谷川先生、私はどうしたらいいのでしょうか。卵から孵化したてのひよこ教師には、今のこどもたちは重荷です。
本鈴が鳴った。
もう悩んでいられない。
図工の教科書と出席簿とノートを胸に抱き、ぎゅっと目をつぶった。
何が来ても大丈夫。あいつらはひどい怪我をするような悪戯はしなかったじゃないか。
覚悟の一歩を踏み出す。
十二段目に足をつける。脛に、ちくちくする極太の麻縄が当たった。
そのままゆっくりと体重を前へ移動する。
ピンと張った縄を引っ張って、引っ張って、不意に途中で抵抗が消えた。糸がぷつんと切れたような、そんな感触だった。
何だと思う間もなく、けたたましいベルの音が全館に鳴り響いた。
あまりの騒々しさに耳を塞ぐ。教科書や出席簿がバサバサと落ちる音も聞こえなかった。
そうか、非常ベルに繋げていたのか!
振り向いてキッと睨むと、耳を塞ぎながら図工室へと走るこどもたちの姿が見えた。
どこからか、教頭先生がわめく声が聞こえる。サンダルで歩くバタバタという音も。禿面に青筋を立てる教頭先生の姿が思い浮かんだ。もう、何度も見た姿だった。
またお説教だよ。
階段でしゃがみこんだまま、とてもとても、泣きたくなった。