31/100
■ベンディングマシーン
私たちに見えている世界が、世界の全てだと思ったら大間違いだ。人類はもう地球上に足を踏み入れていない場所はないと豪語しているが、それは実に無知で、厚顔で、猿山の大将同然の言い分だ。私たちが知らない世界などいつどこにでも存在しているというのに。
別れ話をするつもりだったのだと思う。私たちはいつもの駅前の自動販売機の前で待ち合わせ、とりあえずどこかのカフェにでも入る予定だった。
ゼミが延びて三十分も遅刻してしまった私はまず謝罪の言葉を述べるべきだったのだと思う。しかし何より先に口をついて出たのは、
「何してんの?」
という半分呆れに近い一言だった。何しろ彼は腹ばいになり、自動販売機の下を覗き込んでいたのだ。
「いや、その」
言い訳くらいすればいいものを、それだけで黙ってしまう。よりによってこんなに帰宅客が多い時間にそんな真似しなくてもと思う。ああ、周りの視線が痛い。私は羞恥に耐えられず彼の腕を引っ張るが、
「今いいところなんだってば」
跳ね退けられてしまった。
「お金でも落としたの?」
「まあ似たようなもん」
ニヤニヤとした笑みを浮かべつつ、機械と地面の隙間の闇を凝視している。
「そんなことして面白いことでもあるの?」
「ここにあるよ。パラダイスだ」
いよいよ頭がおかしくなってしまったか。前々から変な奴だったけど、ついにここまできてしまったのね。その頃はまだその程度の軽い気持ちだった。むしろどうすれば彼が立ち上がってくれるのか、考えるだけのまともな神経をしていた。
「お前も見てみる?」
小さく悲鳴を上げる。ズボンの裾を引っ張られて尻餅ついてしまった。通り過ぎて行ったカップルがこちらを見てクスクス笑っていた。いい赤っ恥だ。もう知り合いに見られないことだけを願う。
自動販売機と地面の間に小さな手が見えた。低い位置からだからこそ見えたのだろう。浅黒い骨太の、しかし相当に小さな手が覗いていた。甲は毛むくじゃらで、男のものだとわかる。「ひっ」と喉の奥が引き攣ったような音を出した。手のさらに奥に光る二つの目が見えたような気がしたからだ。
「お。やっぱお前にも見えた?」
「あれ何よ」
私の声はわずかに上擦っていたと思う。恥とか常識とかそんなもの忘れてしまうくらい、奇妙としか言いようのない様だった。
「よーく覗いてみろよ。夢の楽園なんだ」
今思えばやめておいたほうが良かった。とうに気持ちが冷めている男など放置してさっさと家に帰っていれば、私は幸せで無知なままでいられたのに。
わずか数センチの間隙には闇が淀んでいた。先ほど見えた手もなく、闇は僅かに差し込んでくる光すら吸い込んでいる。
「何も見えないよ」
「よく目を凝らして」
目を細めて暗闇を凝視する。本当に何も見えない、と言いかけた時だった。すうっと音がして脈拍が止まったような錯覚を覚えた。空気が凍り付き、全てが無の時間に回帰した。闇の中から突如カブトムシの幼虫のようなものが涌いて出てきたのだ。
「誕生だ。ヨウセイだよ」
ヨウセイという字が幼性と漢字に変換されるまで少々時間がかかった。言われてみればそれは幼虫などではなく、胚から生物としての形を成し始めた人間の胎児だった。いやらしいことにそいつらは幼い状態であるにも関わらず目が開いていた。細長い瞳孔の金色の目が爛々と輝いている。
生理的嫌悪が込み上げた私は立ち上がろうとしたが、彼にものすごい力で頭を押さえ付けられ叶わない。視線逸らすこともままならず、やむなくそれを見続ける羽目となる。
間もなくそいつらはブルブルと震え始めた。隙間にみっちりと詰まった生白い胎児たちの振動はかなり激しいものなのに、自動販売機は微動だにしなかった。ジュースを冷やすモーターの低い唸り声だけが雑踏に混じる。
ここまでですらだいぶおかしなことを言っていると自覚している。これ以上言い進めれば確実に神経症を疑われ、その手の専門家を受診すべきだとありがたい助言ももらえるだろう。私自身ですら、それが幻覚であれば良かったと、いや、幻覚だったと信じたいのだから。
震える胎児たちは目の前で融合を始めた。皮膚と皮膚が癒着し、片側がもう片側をずるりと取り込むと大きさが倍になった。それを何度も何度も繰り返し、やがて胎児は十数体あたりにまで減った。生白かった表皮はテラテラとした飴色に変化している。
「さあ、孵化するぞ」
嬉しそうに言う彼に泣きながら懇願したかった。こんな気色の悪いものは見たくない。何でも言うこと聞くからこれだけはやめて、と。私と別れたくないと話していた、と友人から聞いていた。だからこんなことをするのだろうか。恐怖とかトラウマとかそんな言葉では収まらないものを私の心に植え付け、見えない首輪で縛りつけるつもりなのか。
飴色の背が割れた。どんな化け物が出てくるのかと思えば褐色の小さな人間が姿を見せた。絵本でよくみる小人ではない。縮尺を縮めただけで頭手足の比率は変わっていない。不思議なことに彼らは一様に同じ顔の男性であり、すでに服を着込んでいた。量販店で売っているような吊り下げの安い背広に赤いネクタイをしている。大きく伸びをして襟を正し、誕生の喜びに小さな雄叫びをあげ、互い互いを祝福している。奇妙な小さい社会がそこにあった。
地面から箱が迫り出した。黒い箱は机のようでもあり鉄塊のようでもあった。背広の小人たちはどこからともなく身の丈あまりのハンマーを取り出し、懸命に箱を打ち据えた。壊れもしなければへこみもしない箱を音もなく叩き続ける。どうやらそれが仕事であるらしい。餅をつくようにひとしきり叩くと彼らはハンマーを投げ出し汗を拭った。労働時間はあっさりと終わった。
小人は箱に腰掛け、互いに肩をを叩き合う。ハンマーの代わりに手に握っていたのはこれまた黒い中ジョッキだ。それをうまそうに煽り、労働者最高の一時を噛み締める。どこにでもある当たり前の風景であるだけに一際グロテスクだ。人とは違う組成の物が人の姿を模して人と同じ生活を擬似展開している。醜悪と言わずに何と言おうか。知らず込み上げてきた鳴咽を堪えるのに精一杯だった。
彼は自動販売機下の住民がいたくお気に召したようで、そんな私の気も知らずに少年の目で観察を続けている。
何人かの小人は箱の上に立ち上がり、地面に向かって飛び込んだ。その時脳裏に浮かんだのは柘榴のごとく赤い肉を曝した頭蓋だったが、私の予測を大幅に裏切り、小人は飛び込みの姿勢のまま黒い大地に吸い込まれた。地面は水面に変わっていた。背広のままゆうゆうと水をかき、ぐるぐると辺りを泳ぎ回る。なぜか水しぶきは上がらなかった。
「来るぞ」
小さく彼が呟く。その頃にはもう私の脳はショート寸前でいつ電源が落ちてもおかしくなかった。
小人たちがあらかた飛び込んだ後に変化が起きた。巨大な、そう彼らのサイズからすればぐんと巨大な顎が現れたのだ。ギザギザの歯を持ち、一見鮫のようにも見えるが鰭や目、鼻はない。強靭な顎だけを持つずん胴な生物だった。そいつはぱっくりと顎を開き、下顎を地面、いや水面に潜らせたまますごい勢いで周囲を回遊しだした。当然濡れた赤い口腔が小人たちを飲み込み、咀嚼する。それまで無音だったのに、骨を噛み砕く音だけは小さいながらもはっきりと聞こえた。小人たちが顎に吸い込まれていく。捕食されていく。彼らは逃げ惑うそぶりすら見せない。
全ての小人を食すると大顎はひとつ大きなゲップをして動きを止めた。鮫の色をした皮膚と真っ赤な口がじんわりと黒く染まっていく。見ればわずかに表皮が発光していた。
「すごいよ。完全な食物連鎖だ。あの光は電気エネルギーになって自動販売機の中を巡るんだ。で、残った体とジュースを買った十円玉とが融合してまた胎児になるんだよ。エネルギーの流れがこの中だけで完結している。素晴らしいよね」
吐き気しかしなかった。喜々として話す彼には嫌悪しかない。何がしたいの、何をさせたいの、と強く責めても良かった。もしもそれだけの真っ当な神経が残っていたのなら。私をおかしくしたいという願望があるのなら、もうとっくにかなっている。神経が焼き切れる音がした。もう二度と繋がらないだろうな、と遠退く意識のどこがそっと呟いた。