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■踏切

 地下は嫌いだ。
 けれど、あいつは落ち着くと言う。
 地下に生まれたあいつは、苦労して這い出したはずの地下に戻った。
 そこから先の行方はわからない。

 横一文字に振り払った私の腕に手を添える。それだけだった。
「――ッ!?」
 激痛。
 集中力が切れ、魔術の灯火も消える。同僚の言う通り、カンテラを持ってくれば良かった。再度明かりを生成するだけの暇もなく、暗闇を切って放たれたあいつの蹴りをかわすので精一杯だった。
 かわす動きで後方へ宙返り。間合いを取り、手の中でネオンを生成する。蛍光灯の要領で光らせて手を放すと、光の玉はゆっくりと上昇する。赤橙の光がぼんやりと坑内を照らす。
「……?」
 いなかった。
 人っ子一人、姿形も失せていた。
 地面には血痕が散らばっていたが、それは私のものだった。
 手首から肘にかけて左腕の外側が大きく裂けている。右手で抑えるも、とめどなく溢れる血は止まらない。腱を切っていないのは幸いだが、この状態ではどうにも動きにくい。ひとまずの応急処置としてハンカチを巻き付けてみたが、気休めにもならなかった。
 壁に背を預ける。預けるだけだ。座ることはしない。またいつ襲撃があるかわからないし、何より汚らしい地面に腰を下ろすのが嫌だった。
 息を整えようと試みるが、耳の奥を叩く鼓動がどうにも収まらない。不規則なそれは頭が痛くなるほどに鳴り響き、時折混じる雑音は外の音かどうかすら判別が難しい。
 何故地下なんてところに下りてきてしまったのだろう。
 埃っぽく、淀んだ空気に鉄錆の臭い。這いまわる溝鼠、上から落とされた塵の山、何の死骸かわからない黒い塊。水道管から漏れた水がそこかしこに溜まり、甲高い音とともに水滴がそこに落ちる。
 華々しい都市の下に張り巡らされたこの道。生者の気配はなく、すれ違う者もなく、無機と有機が混じり合った塵溜めのようだ。
 この細い管は何のために誰が掘ったのかわからない。天井や壁には荒々しい削り跡が残っていることから、お上の仕事ではないことがわかる。よくもまあ手掘りでこれだけ掘ったものだ。私道というやつなのかもしれない。
 ただ、これと並行してサブウェイが走っていることから、テロが目的だった可能性もある。公の見解ではそうなっていた。けれど人々はまことしやかに噂する。この地下のどこかに、地上を追われた人々の都市があると。
 この国にはかつて奴隷を認めていた歴史がある。白人主義はその他の人種を劣等種と見做し、長年、劣悪な環境で労働を強いていた。それが百年以上前の解放宣言とともに法が布かれ、以降、奴隷は違法となった。しかし依然として差別は色濃く、大小問わず諍いの原因ともなっている。虐待すら日常茶飯事だ。差別、虐待、蔑視。法に守られているはずの奴隷の子孫たちは非人道的な扱いを受けている。彼らは住居を追われ貧民街に住まう。己らを優等種と勘違いした白人は玩具のように彼らを扱い、ストレスのはけ口としていたぶった。路地裏ではそんな光景は当たり前になっていたし、毎日のようにニュースで流れる殺人事件の被害者も大抵彼らだった。
 華々しい都市の裏側には必ず影がある。これが世界に名立たる大都市の実態だ。百年経っても人々の思想は変わらず、人間など大して進歩しないものだと嫌というほど教えてくれる。
 影の噂はこうだ。奴隷の子孫たちは日々のいじめというには度を超した行為に耐えられず、次々と地下に潜っていった。そして虎視眈々と地上の人々に復讐する機会を狙っている。
 百年もあったんだ。復讐するならとうに遂げているもんだ。
 そう言う人間もいたが、ならば溜めこまれた憎悪はどこで昇華しているのだろう。殺伐とした路地裏の狂気は自然とどこかに消えていくのだろうか。
 埃と臭気で目が乾く。耐えられず、両目のコンタクトレンズを外して捨てた。元々視力は悪くない。だが、色付きのコンタクトレンズを入れなければまともな日常生活など不可能だ。本来ならばこんな物使いたくないのだが、やむを得ない理由があった。
 内股に括りつけた小さな通信機を剥がし取る。電源を入れると小さな水色の画面が光り、「04:05」と文字が浮かんだ。潜り込んでからかなりの時間が経っている。
 通信波は途絶えたまま。電波が届かず、外部との連絡も取れない。
 このままではまずい。
 腰のホルダーから注射器を取り出し、蓋を取るのもそこそこに乱暴に太腿に突き立てた。カシュッと空気が抜ける音とともに液体が動脈に注入される。蛍光色のアンプルが体を駆け巡り、早鐘を打つ心臓が次第に治まっていく。
 これで三度目の注入となる。残りは一本。これが切れる頃がリミットだ。それまでには何が何でも地上に戻らねばならない。
 現在地を見失い、ネオンの下で広げた地図はもはや意味を成さない。通信機のナビも使えない。途中までは道を覚えようとしてきたが、あいつの襲撃でわからなくなってしまった。無我夢中で駆け抜けて辿り着いたここが、地下の表層なのか深層なのかも定かでない。
 自分の勘を信じて進むよりほかない。
 けれどその道のりはどれだけ絶望的であろうか。蜘蛛の巣のように張り巡らされたこの穴倉、不案内な場所で己の力だけで出口へと辿り着くことなどできるのだろうか。
 拳で軽く壁を打つ。赤錆色の岩壁は固いだけ。音が響くこともなく、ただ自分の手を傷めただけだった。
 この壁を穿ち、穴を開ければそこには鉄道が走っている。いつぞやの作戦会議中に見た地図ではそうなっていた。そこに出て、線路を辿ればいつしか駅に着くだろう。できれば毎朝使う十八番街の駅に出てほしい。そうすれば後は地上に出て愛しの我が家に帰るだけ。簡単な話だ。
 しかしその実に簡単な話が難しい。手ぶら同然の私にはこの壁を砕くことは不可能に近い。手持ちの道具はナイフが一振りと、弾が切れた愛銃のみ。もう少しもろい壁なら素手でも掘れたかもしれないが、鉄でも含んでいるのか壁はどこまでも強固で、掻いても生爪が剥がれるのが落ちだ。
 岩壁の組成を解析し、分解するという力技もなくはないが、人一人通り抜けるほどの穴を作れるほどの体力はない。
 結局、既存の道を孤独に進むしかないのだろう。
 耳を澄ませば路面を走る音が微かに聞こえてくる気がする。つい数時間前まで利用していたかもしれない路線だ。小奇麗な背広を着て、数年来の相棒である良い艶の革鞄を下げ、暇潰しに買ったタブロイドを読んでいた。その時はまさかこんなところで泥まみれになろうとは想像だにしていなかった。
 日常を取り戻すためにも、私は進むしかない。
 右を見て、左を見る。一寸先は闇。ネオンの光はそう遠くまで照らせるはずもなく、薄らとしたグラデーションで闇の中へ滲んで消えている。だが、右手にも左手にも、道の奥にうっすらと小さな明かりが灯っているのが見えた。非常灯か、何者かの住処の灯火か。不審なことこの上ないが、何もない暗がりをただ歩き回るより適当な目印を目指した方がよいだろう。それがたとえ罠であったとしても、だ。罠であるのならば強行突破すればいい。罠は人がかけるもの。少なくともそこからどこか人の気配がある場所へ出られるはずだ。
 もう一度通信機を見直す。時間切れまでを逆算し、そして意を決して踏み出す。その時だった。
 声が聞こえた。耳を澄まさなければならないようなひそやかな声ではない。電話でもしているかのようにはっきりと耳元で聞こえた。
『お前は鼠か?』
 動き出そうとしていた体が止まった。肩の筋肉が緊張に強張る。
声の主は壁の向こうにいる。直感でそう思った。毎日聞いていた声に聴き間違いなどあるはずもなく、小さくあいつの名をつぶやく。
 壁は厚く、到底人の声なんて通しそうにない。なのに聞こえてくるとはどういうことだろう。耳の中の通信機は切ってあるし、あいつも魔術を使うという話は聞いたことがない。
『俺を追ってきたんだろう? 馬鹿な連中だ。ここは俺の庭同然。間抜けな地上の生物に捕まえられるはずもない。くだらない意地で人の庭に踏み込んで荒らすような真似はしないでもらいたい。これ以上俺に構うな』
「構うもんか」
 次々と捲し立てられる言葉。返せたのはやっと一言だけだった。
「私は一刻も早くここを出る。こんな穴倉は御免だ」
 知らず喉は震えていた。怖いのかと心の中で自問するが、内なる自分は答えてくれない。何が怖いというのだろう。あいつか、暗黒の迷路か、こうしている間にも過ぎゆく時間か。
 今更何を恐れているのか。今の部門に配属になってから覚悟していたはずだ。体内に時限爆弾を仕掛けられた我々はもはや人間ではなく、交通局の狗だ。市民の安全を守るという名目で、危険な任務に突っ込まれる毎日。交通局が何故命を張らねばならないのか。疑問は抱けど問うことは許されていなかった。所詮下っ端の我々は、問える立場にないからだ。
 部長は言っていた。この仕事は常に片足を棺桶に突っ込んでいると。
 聞こえてきたのは死の足音ではなく、嘲るような笑い声だった。もちろん私のものではない。もしかしたらあいつは私の死神なのだろうか。
『職務放棄か。真面目だったお前にそれができるのか?』
「放棄ではない。元より仕事などなかった」
 そう、無かったのだ。あいつを組織に戻すのは私の義務ではないし、そんな任務もなかった。逃亡したところで、二日もすれば時限爆弾が発動して死に至る。必要最低限のアンプルしか持たせてもらえなかったから、局を離れて生き延びることは不可能だった。あいつは追わなくてもいい駒だった。
 そしてあいつが逃亡してから既に半月が経過していた。
『ならば何故下りてきた』
 黙る。
『人扱いされない我々の仲間になりたかったのか?』
 答えない。
『オッドアイの悪魔め。その仕事は人でなししかできないもんな』
 左が赤で、右が金。これは先天性のもので、この身のルーツが人ならざる者である証だった。
 差別を受けるのは奴隷の末裔だけではない。《魔女》の子供も同じだった。特に私は腹から生まれた子ではなかったからなおのことひどい。人と同じ生活は許されず、教育を受けることも仕事をすることもかなわない。人間でない者から生まれた人間は鬼子だ。人間扱いしてはいけない。人間から生まれなかった子供を人間として認める法律がないからだ。
 この国が優しいのは「人間様」を相手にした時だけ。それ以外の者には容赦なく、ただ道を歩いているだけでも侮蔑の視線が常に付きまとう。
 まともな生活をしたかったら国や大企業に頭を垂れるしかなかった。へつらえば市民権が貰えたし、仕事も貰えた。その代わり、保険として時限爆弾を仕掛けられる。人ではない犬には首輪を嵌めなければならないから。
 私たちは、ただの駒。走狗。組織の捨て駒でペットで玩具。忠犬であることを求められるが、命の価値は実に安い。
『……俺が何故生きているか聞かないのか?』
「聞く必要はない。手段はともあれ、お前は生きていた。その事実だけで充分だ」
 予感はしていた。あいつが簡単にくたばるはずはないと。ふてぶてしく、しぶとく、そして狡猾な相棒が衝動だけで逃げるはずはないと。だからだろうか、似た人間を地下鉄ホームで見たと聞いたとき、思わず居室を飛び出してしまったのは。
「戻らないのか」
『戻れるものか。今となっちゃ俺は裏切り者で処分対象だ。名簿からも抹消され、社会的存在は消されてしまった』
 低い低い声が耳朶に流れる。地を這うような声。
『それに、ここが俺の故郷だ』
 どことなく寂しげで、だけど懐かしむような。かける言葉も見つからず、私はただ黙っていた。あいつには帰る場所がある。そんなことが羨ましく思えた。
『行けよ。ここは見逃してやる。とっととおうちに帰ってケツまくってベッドで震えてろ』
 唾棄する音がしばしの沈黙を破る。
『俺はもうお前に会うつもりはない。上に戻るつもりもない。だがな、この地下で再びお前に見えたその時、どうするかまでは保障しない』
「こちらこそお前の顔を見るなぞ金輪際お断りだ」
 進もうとした道の遥か先に、ほんのりと見えていた明かりが消えた。それに気付き、踵を返す。
『もう来んな』
 それで終わりだった。歩を進める己の足音だけが坑内に響く。寄り添っていたような声はもう聞こえない。いつも隣にいた声が聞こえない。
 全ての物事には始まりがあって終わりがある。道を違えた我々は二度と交わることはない。かつて同じ制服を着ていた私達。いつも何気ない話をしているようで、異端同士、互いの傷を舐めあっていたのだろう。
 それがもはや慰めの役割を果たさなくなった。光の中の闇を追う日々に摩耗し、あいつは自分を誤魔化して狗として生きることに耐えられなくなったのだ。ならばいっそと闇の中に還っていく。その思いもわからないではない。ただ、私はあいつと違い、還る場所がない。真にあいつを理解することはできないだろう。
 私は人に紛れてひっそりと生きる根無し草の鬼。たとえ表面だけの薄っぺらいものであっても、やっと掴んだよすがを離したくない。部長や課長に白い目で見られていることも知っているし、コンタクトレンズの長期着用で徐々に視力が落ちてきているのもわかっている。上司の匙加減一つ、ふとした拍子に職を追われ、荒野に放り出されないとも限らない。毎日が綱渡りで、それでも私は今の生活に固執する。
 さようなら、相棒。
 そして私は進む。あいつとは別の道、どこにあるとも知れない出口を目指して。

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