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■オムライス
和泉平助は憂鬱だった。
中間テストが終わったのが先々週のこと。束の間の解放感を満喫し、テストの苦痛を忘れた頃にやってくるのが結果発表。とてもよく晴れたこの日、採点されたテストが一斉に返ってきた。
帰りのロングホームルームでは各自に総合成績表が配られた。平助は眉間に皺を寄せて細長い紙切れを睨む。薄目で見てみる。しかしどう見ようとも結果は覆らず、嘆息する。赤点だけはどうにか免れたものの、決していいとは言えない点数が並ぶ。
これを親に見せなければならないというのがまた気が重く、今更ながらにもっと勉強すれば良かったなどと内心で呟いてみる。
通りすがりのクラスメイトに「お前でも落ち込むことあるんだな。らしくねぇわ」などと言われ、「馬鹿野郎、俺ってばすんごい繊細なんだぞ」などと返してみる。それで幾分気は楽になった。これはまだ中間テストで、受験本番ではない。期末テストもあるからこれから挽回しようと思えばできる。
勉強するかどうかはその時の気分だけれど。
まあ今日は気晴らしに遊んで帰ろう。誰を誘おうか、たまには後ろの席のクラスメイトもいいかもしれない。
そんなことを思って気分転換とばかりに一つ伸びをして、そこでようやく背後の気配に気付いた。
とても、暗い。
暗く、深く、そして湿っぽい。
例えば朝起きたら目覚まし時計が止まっていて遅刻確定で、そんな日に限って渋滞でバスが来なくて、仕方なく途中まで走ることにしたけれどガムを踏んでしまって走りづらく、途中の家の飼い犬に吠えられ、泣きそうになりながらもようやく学校に着いたらやっぱり遅刻でおまけに財布を落としたことに気付いたというような、そんな不幸が連鎖したらこんな暗澹たるオーラが出せるかもしれない。
実際そんなことがあったら、平助は朝起きた時点で学校をサボるのだが、まあこれは仮定の話である。
背後からのドス暗くねっとりとした空気は、少しずつ平助にも纏わりついてくる。せっかく気持ちの切り替えができそうだったのに。ちらりと背後を振り返ると、机に伏せっている蒼凪壱哉がいた。これが漫画だったらどんよりとした効果線を背負っていただろう。今はその背をクラスメイトの槙野威がさすっている。
「……蒼凪の奴、どうしたんだ?」
恐る恐る槙野に聞く。槙野は察してやれと言いたげに視線を送ってきたが、平助にはわからない。何のことだと眉根を寄せて見返すと、小さな声で平助に囁いた。
「中間テスト、ほとんど赤点だったんだ。来週追試決定」
たしかに伏せる蒼凪の下敷きになっている成績表には十点とか五点とか惨憺たる数字が並んでいる。頑張ってこれだったなら、陰鬱なオーラを出してもやむを得まい。
「マジかよ。お前、見た目によらず馬鹿だったんだな」
長身に穏やかな風貌、見方を変えればヘタレとも言えるくらい優しい性格。出来た人間だと思っていたが、天は二物を与えないものらしい。これで頭が良ければ完璧超人だったのに、と思ってどこか安堵している自分に気付く。
「仕方ないだろう。毎日子育てと家事に追われてたら勉強する暇もないわな」
弁解したのは槙野だった。先程まで背中をさすっていたのに、お前それだけ撫でれば禿げるだろ、と言いたいくらい蒼凪の頭を撫でまくっている。それでされるがままの蒼凪もどうかと思うが、おそらく抵抗する気力もないのだろう。
「そうかー、蒼凪は追試かー」
これから世界が終わるかのごとく沈む蒼凪に向かって、未来は明るいとばかりに平助が大声で呟いた。するとびくりと蒼凪の肩が震え、のろのろと頭が持ち上がった。
「槙野君、今回も頼めるかな……」
大地が割れたかのような陰鬱な声だった。これまたのろのろと上がった手が槙野の袖に縋る。それに槙野はうんうんとうなずいてやり、
「うむ。今回は弁当と夕飯三日分で手を打ってやろう」
そんな条件を出した。三本立てた指は迷いなくまっすぐで、眼鏡がキラリと光る。学級委員長、槙野威。その察しの良さとどんな時でも揺らぐことのない自信に、絶大な信頼を置く者は少なくない。
その堂々たる風体に、「いつもすみません」としなだれて蒼凪はおいおいと泣き出す。
何だろう、この光景は。
そして何故クラスのみんなはこの情けない姿をスルーしているのだろう。
周りを見渡せば、クラスメイトはそれぞれ自分のグループで話している。こちらには完全に無関心で、ごくごく平和な日常の光景だった。
担任の阿久津など、二人を一瞥すると、「槙野、助けてやれよ」とだけ言ってとっとと教室から出て行ってしまった。
「弁当と夕飯って何なの?」
平助は全力でツッコみたいのを我慢して槙野に聞いた。すると槙野は蒼凪の頭を軽く叩き、
「こいつんちで勉強合宿。前の定期テストん時もやったんだよ」
「何それ楽しそう! 俺も行きたい!」
「悪いがそれは断る。遊びじゃねぇんだよ」
にわかにテンションが上がった平助の頭を槙野は片手で押さえつけた。身長の優位性は槙野に軍配が上がる。悲しいかな、平助は高校生男子の平均を遥かに下回るような背丈だった。槙野とは常に見上げるような身長差だが、押さえつけられると更に屈辱が増す。睨みつけながらぐぬぬと頭を持ち上げるが、意外と槙野は力があった。涼しい顔して平助を押さえている。
ちなみに今は座っているからわかりづらいが、蒼凪はその槙野よりも背が高く、二人並んでいると平助のコンプレックスを刺激しまくる。
そんな平助に、いつの間にか泣き止んでいた蒼凪が実に申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんね、和泉君。うちの子、和泉君見たら泣いちゃうかも」
うちの子とは、蒼凪が養子にしているという女の子のことだ。実際に会ったことはないが、非常におとなしくて人見知りが激しいと聞いている。
それに対し、平助は頭を金髪に染め、耳にはピアス、制服は着崩している。どこからどう見ても軽薄で、初対面ではヤンキーと勘違いしても仕方ない。そんな男に気の弱い女子が会ったらどうなるか。想像に難くない。
「こんなやかましい金髪見たら即泣くな」
槙野がうなずいて同意し、蒼凪はまだ手を合わせている。
「なんだそれ。別にいじめたりしねぇよ。そういうことしないってお前らもわかってんだろ」
「だったら髪を黒に戻してきちんとした身なりをするんだな」
淡々とした槙野の口調がまた癪に障るが、それは事実なので反論できない。人は見た目が九割とはよく言ったものだ。
平助を押さえつけるのに飽きたのか、槙野はあっさりと手を離して蒼凪から回答用紙をまとめて受取った。パラパラとめくって目を通す。散々な結果など他人に見られたくないものだが、抵抗もしない辺り、蒼凪の槙野への信頼は絶大らしい。勉強面においても常に学年上位をキープしている男なのだから当然と言えば当然だろう。
「今夜から行くわ」
「うん、オムライス作って待ってる」
「……カップルの会話にしか聞こえねぇぞ」
「んなわけないだろ。男同士で気色悪い」
「だったらよく考えながら今の会話もう一度してみろ」
口をへの字に曲げる槙野に反論し、「付き合ってられんわ」と平助は荷物をまとめる。
「追試終わったら俺とも遊べよ」
早速対策を練り始めた二人に言い残す。
「……怖くないようにしとくからよ」
口を尖らせてそっぽを向いた平助に、蒼凪の表情が明るく変わる。
「和泉君の分もオムライス作って待ってるよ」
鼻を慣らし平助は走って教室を出て行った。それを見て槙野の眼鏡が光ったが、それには平助も蒼凪も気付かなかった。