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■メモリーカード

 口述筆記再開。
 タイムスタンプ。九月十四日、午前二時三十七分。
 数分前までのデータはノイズが多くて聞き取れないだろう。改めて現状を口述記録する。
 数分前、正確には二十分十二秒前まで追われていた。相手は私よりも背が高い男だ。歳の頃は三十ほどだろうか。東洋人は若く見えるからもう少し上かもしれない。白いワイシャツに濃い灰色のスラックスという実に冴えない風貌だが、身のこなしは素人ではなかった。完全にチューンナップされた私にぴったりとついてきたのだ。VCのエージェントと推察する。
 男の武器は不明。前述のような服装であるため装備を隠すような場所もない。体内に各種装備を格納できるボーグである可能性も考えたが、機械化特有の微小電流は感じられない。有機素材のみで構成された新型の噂は聞いたが、この極東の島にそれだけの技術者がいるとの報告はない。身体改造を施していない、生身の人間であるようだ。
 なのに奴は掌を開くだけで光る弾を射出する。幸いにして射撃だけは苦手であるらしく、一発もまともに当たることはなかったが、掠めるだけで電撃流に似た痺れを感じた。
 そして機動力が人間のそれではない。生身の人間であの俊足ならば、公式大会では世界新だろう。足にロケットでも仕込んでるのではないかと思うくらい早い。この私ですら振り切るのに精一杯だ。
 とにかく奴は素手ながら不可思議な力を操って私を追い、一旦は追い詰めた。それをどうにか振り切り、現在は雑居ビル群の谷間にいる。ゴミ箱とゴミ箱の間にて潜伏中。極東はいまだ廃棄物処理が自動化されていない。不衛生なことに生ゴミもそのまま廃棄しているようだ。私の臭覚センサーは異常な値を示している。
 欧米先進国ならば路上にゴミ箱なぞ存在しない。全て廃棄したその場で処理し、ペレット化する。嵩も減るし悪臭も消える。収集も楽になる。極東はなぜこの技術を導入しないのだろうか。
 しかしながら、今はそれに助けられている。野良猫ですら顔を背けるような場所だ。奴が生身の人間であるならば、ここには近付かないだろう。こんな時はつくづく、自分に嗅覚がなくてよかったと思う。毒ガスの危険については、常に周囲の空気の状態をモニタリング、分析しておけばいいだけのこと。臭いなどという物から解放されないフレッシュ――生身――の連中にはつくづく同情する。
 目標データの確保は完了した。途中、メモリカードをVCのエージェントに奪われ破壊されたが、それまでの間にバックアップは終わっている。主要データ群はこの私の頭の中だ。あとは本部に帰還するだけだ。最悪、頭部が無事であればいい。たとえ体を破壊されようとも頭だけでも極東支部に辿り着けば、本部に送り返してくれるだろう。
 本部帰還要請、特Sクラス設定。擬似脳波署名。
 ノイズチェック。オールクリア。キーロック。暗号化。
 これでいい。万が一頭部のみとなった場合、支部が回収すれば厳重な保護の上、本部に送られる。それ以外の者が手に入れたとしても、暗号化と鍵により中身、及び私の身元確認は不可能だ。たとえS級のハッカーが出張ったとしても、完全解析までには至らないはずだ。
 心臓機関部のノイズ除去、冷却完了。
 人間でいうところの息がつくというやつだ。まだまだ緊張を解くことはできないが、少しはマシになった。オーバーヒート寸前だった頭が冷えたところで私は改めて全身をチェックする。
 膝に若干の損傷があるものの、動作に支障ない。かなり酷使したはずなのだが、全部位が無事で済んでいることが信じられない。技術部の連中、思っていたよりも腕をあげたようだ。前回の腕など簡単に折れてしまったというのに、まったく、勤勉な奴らの技術の進歩は目覚しい。これまでの運動経験は帰還後にレポートとして提出しておこう。技術部の連中へのいい土産になる。
 本体に対して、外装はひどいものだった。黒いスーツの背中は大きく裂け、スラックスもあちこち引き千切れている。おまけにゴミ溜めに浸かって、たっぷり悪臭を染み込ませてしまった。都市迷彩機能は一切期待できない。このまま往来を歩けば何事かと思われるだろう。我々の仕事は目立つことではない。人目に付く前に、正確には日の出を迎える前に、支部オフィスに飛び込む必要がある。
 私は頭上に顔を向けた。目を開き、ビルとビルの隙間から空を見る。ここは極東と言えど、そこそこの人口を誇る都会でもある。この街にも本当の夜はない。本来は漆黒であるはずの空は、ネオンの光で濃い灰色をしていた。
 GPS信号受信。現在位置把握。
 衛星からの信号はやや弱化している。この島に来てからその状態が続いている。衛星通信だけではない。通信機能そのものが弱化している。通信品質がことごとく悪く、最悪の場合途切れることすらある。盗聴電波、ジャミング、ハッキングの可能性も考慮して走査したが、それと思しき痕跡はなかった。セキュリティランク特Sクラスのユニットを搭載しているはずなのに、何故適切な通信を確保できないのか。
 上空を何かが覆っているのか、何処からか妨害電波が出ているのか。原因についてはこの身体では分析不能。GPS機能の運用について問題はないが、気になる現象ではあるので心に留めておく。詳しい分析を専門機関へ依頼要請を推奨。
 地図機能オープン。現在位置、及びオフィス位置の照合。
 経路探索開始。完了。
 支部オフィスまではまだ少し距離があるが、エージェントに見つからなければ、シハツとやらの前には辿り着けそうだ。支部長が言っていた。極東の連中はシハツ後に増える、と。そしてシハツは概ね日の出少し前のことであるらしい。
 気象サーバアクセス。日の出時刻照会。
 時間はまだ大丈夫なようだ。早いところこのゴミ溜まりから脱出したい。
 私は周囲を目視で探査する。いまのところ、人の姿は見当たらない。赤外線視野に切り替えるがこの谷間にはさほど明かりがないため、辺りは暗く沈んでいる。
 これなら戦術用の策敵装置もつけておけばよかった。諜報任務には大仰な装備だが、あんな戦闘員が相手ではそれでも足りないくらいだ。我々の見通しが甘すぎた。この極東にあれだけの手練がいるとは予想していなかった。本来ならば、戦闘員一、諜報員一のツーマンセルで臨むべきだ。
 報告レポートに上記事項を追加。以降の極東における作戦行動への提言とする。
 いや、VC――ファイヴクランズ――に手を出すべきではない。この国を裏で牛耳っているのは伊達ではない。日本という極東の小さな島国と侮っていては勝ち目はない。
 生憎私には解析に優れた装備は組み込まれていない。だからあのVCのエージェントが使った不可解な技がなんであるか分析することはできない。だが、あれが我々の常識を超えていることだけはわかる。
 もう一度忠告する。奴等に手を出すな。
 この島の眠れる龍を起こすな。
 このし――


「見事なお手並みで」
 男が拍手する。歳の頃は四十かそこら。火のない煙草を銜え、伸び放題の無精髭が男を野暮ったく見せる。くたびれた灰色の背広が実に冴えない。
「るせー。こっちだって好きでやってんじゃねぇよ」
 対して悪態をつくのはまだ二十代と思しき青年だ。小柄な体躯に幼さの残る顔で、下手すると十代にも見える。シャツにカーゴパンツ、キャップといったラフな服装で、首にヘッドフォンをぶら下げている。
 空にはまだ夜が残る。あと数分もしないうちに朝日が昇り、この辺りの陰鬱な空気も一掃されるだろう。それまでには全てなかったことにしなければならない。路上にしゃがみこんでいる青年は、暗い手元をペンライトで照らした。
 そこには鳶色の髪に青い瞳の男の顔。目を見開いたまま沈黙している。襤褸切れとなった背広を着たまま、アスファルトの上に横たわっている。口は固く結ばれ、手を近付けても呼吸の気配はない。
 ただ他の死人と違うのは、男の顔からは血の気が引いていないということだ。薄い唇にもやや皺のある頬にも朱の色が残っている。瞳からは光が消えているが、今にも動き出しそうだ。
「欧州の技術ってのはすごいもんだね。まるで本物みたいだ」
「たりめーだ。人を騙すためにできてやがるんだからな」
 感心して見下ろしてくる男を、青年は一睨みした。しかし悪意のある眼差しにも男は動じない。
「で、首尾のほうは?」
「デリート完了。ウィルスも流して根幹からぐっちゃぐちゃにしてやった。メモリ修復なんて絶対無理だね」
「相変わらずえげつないことするねぇ」
「どうも」
 気のない礼を言い、青年は見開いたままの男の目の上に左手をかざした。
「舞篝、戻れ」
 男の右耳から煙が立ち昇った。近くに寄らなければ見えるか見えないかの細長い煙だ。紅色の霞は青年の左手首を二周して消えた。
「精霊をそんな風に使うのは君だけだよ」
 それを見て、男は煙草に火をつけた。紫煙が立ち昇る。
 青年は確認するかのように左手首をつかんで握った。そしてカーゴパンツの尻からカードサイズの音楽プレイヤーを取り出した。それの液晶画面は本来ならば再生中の曲名を表示するはずなのだが、今は無数の数字の羅列が勢いよく流れている。不可視の存在が彼の体内に戻り、成果を手持ちの小型コンピュータに流し込んでいるのだ。
 精霊と呼ばれる使役存在と、コンピュータ。片方は超自然的存在であり、もう片方は科学技術の成果である。親和性などありえない二つを併せて使いこなす精霊使いなど、それまでの世代には存在しなかった。
 青年は精霊でコンピュータに接続する方法を独自に編み出し、利用していた。邪道と上の世代から叱責されることもしばしばあるが、青年はそんな言葉など意に介さない。
「俺は使える物を使うだけだ。その手段がクリーンだろうがダーティだろうが気にしない」
 無表情に画面を見詰める。溢れる文字の中には横たわる男の身元に関する情報も含まれているだろう。詳しい解析は帰ってからだ。暗号化されている場合は、一族に関する情報だけを抜いて解読屋に回してやればいい。
「後は細かく刻んで硫酸にでもつけて、ジャンクにすりゃ完璧だ。こいつをぶっ壊すのはあんたの役目だ」
「まったく念のいったことで。物理的に壊すだけじゃ駄目なのかい」
 人間は脳を潰されれば全てを失う。それと同様に、頭脳回路やハードディスクを潰してしまえばいいのではないだろうか。わざわざ人工頭脳に侵入してデータをクラックする意味がわからない。
 まったくの素人である男を、青年は鼻で笑った。
「駄目だね。どんなに破壊しても復活させるリペイラーがいる。データそのものを徹底的に破壊しておかないと安心できない」
 一度壊したものを修復する技術など、男の想像が追いつかない。一度駄目になった物は駄目という考え自体が旧世代なのだろうか。
 青年が足元の人間もどきを爪先で小突く。早くこいつを持っていけ、と急かす。男は気だるそうに首を回した。
「お兄さん、こいつと追いかけっこして疲れてるんですけどね」
「お兄さんじゃなくてオジサンの間違いだろ。早くしろ」
 やれやれと男が息をつき、煙草を地面に捨てて踏み消した。「出ておいで」疲れた声でそう呼びかけると、男の背後の影がせり上がってくる。鼻をつく生臭いにおい。耳を打つ水音。まるで影が沼だったかのように、水滴を滴らせてそれが姿を現した。
 全身が黒い河童である。頭の皿から足の水かきまで、全てが墨一色だ。鋭い爪や背中の甲羅から滴っている雫も黒い。河童は身を震わせて水滴を飛ばすと、黒い瞳で主を見上げた。男の腰の高さまでしかないので、天を見上げるようにしないと顔が見えない。
「はいはい。水虎ちゃん、これをあそこの車まで運んでね」
 男は実に気のない口調で命じた。河童は一つ頷くと、横たわる人間もどきに手をかけ、軽々と頭の上に担ぎ上げた。重たそうな素振りも見せずにひょこひょこと歩いていく。濡れた足跡が河童の後を追いかけていく。
 そして近くに停めてあった銀色のセダンのトランクルームのドアを開くと、そこに担いでいた荷物を放り込んだ。
「河童って力持ちだよね」
 一仕事終えた河童は、車の傍から主と青年を見ている。次の命令を待っているのだ。
「君んところの子と違ってそれしか取柄ないの」
 男が手真似で呼ぶ。河童は男の元まで戻ると、足元の影に飛び込んで消えた。影に一瞬波紋ができるが、すぐに固いアスファルトに戻った。
 青年と男はセダンに乗り込む。ハンドルを握るのは男のほうだ。慣れた手さばきで狭い路地から広い道路に出る。早くも朝日がビルの谷間から覗いていた。徹夜明けの目に朝の光は眩しすぎる。男はダッシュボードからサングラスを取り出して掛けた。
「しかし何故ご老体はいつも君を指名するんだろうね。手駒としては壱哉君のほうが動かしやすいだろうに」
 男が青年に問いかける。助手席の青年はシートを倒して横になっていた。
「あの馬鹿にこんな仕事させられるかよ」キャップを顔の上に置いて、既に寝る体勢に入っている。「あいつは裏の仕事をするには綺麗すぎる」
 ふと青年が思い浮かべたのは、従弟の純粋な笑顔だった。彼を信じきっている素直な瞳。あの顔をまともに見られたことなど片手ほどもない。
「じゃあ僕はどうなんだい」
「あんたは心の底まで下衆だから問題ない」
「ひどい言われようだね」
 男は苦笑し、また煙草を銜えて火をつけた。窓を開け、白煙を外に流す。
「これからも信頼しているよ、百瀬君」
「うるさい。寝かせろ」
 百瀬と呼ばれた青年は目を閉じる。一晩中神経を張り詰めていたからか、すぐに弛緩した寝息が聞こえてきた。
「僕のことも信じてくれて光栄だよ」
 その姿を横目で見て、男は聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

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