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■名前

 うっすらと青みを増してきた空の下、雑居ビルと雑居ビルの間の路地は野良猫の姿ひとつないほど閑散としていた。建物は軒並みシャッターを下ろして静まり返っている。ひっそりと佇む自動販売機の蛍光灯が明滅を繰り返し、忘れられた立て看板が横倒しになっていた。もの寂しい街の空気は果てが見えない荒野に似ている。たった一晩で世界から生物が消失したように錯覚する。
 だが世界から人は消えていない。黒い影がひとつと小柄な白い影がふたつ、それぞれわずかに距離を置いて立っていた。親しくはないが、見知らぬわけでもない、心と同じだけの距離。
 黒い影は物々しい装備に身を包んだ男だ。防弾ジャケットに厚手の軍用ズボン。かなりいかついブーツを履き、肘と膝にはプロテクターを付けている。特殊部隊よろしくヘルメットもあったのだろうが、男が頭につけているのはゴーグルとインカムだけだ。そのインカムも今は沈黙している。ちょうど心臓の上にある通信機には穴が空いていた。
 対してふたつの白い影は驚くほど軽装だった。かなり歳も若い。黒いズボンの裾には泥が跳ね、無地の半袖シャツもよくわからない染みだらけだが、破れてはいない。むき出しの腕は血管がくっきりわかるくらい白かった。そして腰には不釣合いなくらい大きなナイフの鞘がぶら下げられている。
 今、男は二人に呼び掛けようと口を開いたものの、何と呼んでいいかわからず、そのままの姿勢で固まってしまった。表情が無い二対の瞳がこちらを見ている。何か言い出さなければ気まずい。
「名前あんのか」
 困った挙句にそう聞いた。
「ST-90a」
 と少女が、
「ST-90b」
 と少年が答えた。
「俺が聞いてんのは識別番号じゃない。個人名とか呼び名とかあだ名のほうだ。一個くらいあんだろ」
 頭をかきながら聞き直す。これまで走り通しだったせいか、伸びかけの髪は乾いた汗ですっかりしなやかを失って硬くなっていた。手ぐしも通らない。早く落ち着いて風呂にでも入りたいところだ。
「ない。我々の呼称はそれだけだ」
「あっそ」
 少女の答えはあまりにも素っ気ない。かわいくねぇ奴らだ、と男はもう一度二人を見た。
 男女の双生児はあまり顔が似ないというが、二人はとてもよく似ている。区別するのは髪が長いか短いか、その一点だけ。背丈も体形もまったく同じだった。見た目は十歳ほど。だが人工的に造られた二人の実年齢はもっと幼いはずだ。あの施設にいた子供たちはみな見た目は思春期の少年少女だったが、最年長でも五歳になっていなかった。
 双子は肉が付いていない細い手足をぶら下げて突っ立っている。ただの立位に見えるが、全身にほんのわずかに緊張を行き渡らせた、いつでも飛び出していける体勢であると男は知っている。弛緩しているように見える姿こそが最も危険なのだ。構えがない自然な姿勢は、あらゆる状況に対処できる。
 追っ手は巻いた。あとは回収の車を待つばかりだ。だが双子は気を緩めない。彼らはそう訓練されていた。それはつまり男のことも警戒しているということだが。
 馬鹿みたいに大きい拳銃をホルスターに収め、グローブを脱いだ。奇跡的にポケットから飛び出さなかった煙草を出してくわえる。
「名前が無いって言うなら、悪いが勝手に付けさせてもらうわ」
 煙草に火を点け、大きな染みが描かれたコンクリート壁にもたれかかる。立ち上る細長い紫煙に目を細め、男は黎明の空を見上げた。
「あのくそったれな『守護局』から出た以上、これからお前ら二人は人間だ。兵器じゃない。人間はそれぞれ名前を持っているもんだ」
 開きかけた少女の唇に人差し指を当て、黙らせる。
「いずれ必要になるもんなんだから、今つけてやる。俺が直々につけてやるんだ。文句言うんじゃないぞ」
 じゃあ、と男が続けようとしたところで路地に車が入ってきた。男は双子の肩を抱いて路肩に引き寄せるが、銀色のセダンは通り過ぎずに彼らの目の前に止まった。
 国産の高級車だ。フロントからリアまで、ガラスには全て黒のミラーフィルムが張ってあり、中の様子は全く見えない。男はゆっくりとホルスターに手を伸ばす。三人の目の前で音もなく運転席の窓が細く開いた。
「乗れ」
 運転手は黒いサングラスの若い青年だ。それを見て、ホルスターに伸ばした手を下ろした。
「何だ、お前か」
 見知った顔に警戒を解き、男は後部座席の扉を開いた。顎で双子に乗れと指示する。二人が乗ったのを確認すると、自分は助手席に回って乗った。国産でもさすが高級車である。動いたこともわからないくらい滑らかに発進した。
「お前が来るとは思わなかったわ」
「俺だって迎えに行くのが貴様だとわかっていたらやめていたぞ」
「そんなつれないこと言うなよ」
 愛想の欠片もない運転手の言葉を笑い飛ばし、男はようやくジャケットの襟を緩めた。ゴーグルとインカムも外して足元に投げ出す。運転手は車が汚れると愚痴をこぼし、男は自分の物じゃないくせに何を言う、と言い返す。憎まれ口の応酬であるものの、本気で食って掛かるほど二人は子供ではなかった。
 車はやがてバイパスに入り、通勤ラッシュ前の静かな広い道を走っていく。
「そいつらが件の生物兵器か」
 双子は後部座席に礼儀正しく座り、悪態を付き合う二人を交互に見ていた。その様子は警戒してというよりは不可解な物を観察しているに近い。
「そ。あの『守護局』の隠し玉だ」
「こんなガキが?」
「ああ。こいつら見た目通りだと思ってっと痛い目見るぞ」
 言いながら男は前髪をかきあげた。こめかみのあたりに短く赤い線が走っている。こめかみだけではない。すでに固まり始めた血があちこちに線のように描かれている。
「これ、こいつらにやられたんだ。ナイフ捌きがおっそろしいほど早いんだ。俺だから良かったものの、並の兵士じゃ一撃で心臓やられてるぜ」
「ほう、お前に一発くれてやるとは、なかなか将来有望じゃないか」
「まったくだ」
 男は苦々しげに言葉を吐きつつ、煙草のフィルターを強く噛んだ。
「それで、このガキ共の名前は?」
 運転手はバックミラー越しに双子を見る。黒目がちな瞳と目が合うが、何か言うでもなく、ただこちらを見ているだけだ。
「無い。これからつける」
「ならば、お前が名付け親ってことになるな」
「やめてくれ。親だなんて気色悪い」
 またも吐き捨てるように言い、男は灰皿に乱暴に煙草を押し込んだ。シートに深く身を沈める。背中を包み込むような高級車の座り心地に急激に眠気が襲ってくる。
「そう、親なんて碌なもんじゃねぇよ」
 誰に言うでもなく呟いて、男は意識を手放した。

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