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■マルボロ

 いつもの街角の煙草屋でマルボロを買った。
 顔がしわくちゃな店番のばあさまは、目の皮まで垂れていて眠っているのか起きているのかわからない。耳なんてとっくの昔に遠くなっている。何度か声をかけて、何度も「マルボロ」と繰り返してやっとばあさまは動き出した。
 すぼまった口をもごもごと動かし、ガラスケースの中から赤と白のパッケージを一個出す。
 百円玉を三枚出すと、ばあさまは釣銭と煙草をガラスケースの上に置いた。
 ばあさまはまたもごもごと喋る。「ありがとうございました言っているつもりらしいけど、全然はっきりと聞こえない。歯がなくなってるんだから、無理しないで入歯入れるといいのに。
「あんがと、ばあさま」
 釣銭をポケットに入れ、煙草のパッケージを破きながら歩き始めた。
「あ」
 煙草はマルボロじゃなかった。
 たしかにパッケージはマルボロの象徴とも言える赤と白だけど、似ても似つかないものだった。煙草の紙箱の上半分は白、下半分は赤の色紙が貼ってある。真ん中にへたくそな字で「まるぼろ」と書いてあった。夏休み明けに展示される小学生の工作みたいだった。
 ばあさま、ボケて間違えたのかね。
 それ以上ビニールを剥がすのをやめて踵を返す。ちゃんとしたものと交換してもらおう。
「待って待って待って」
 か細い声が聞こえてきた。
 周りを見回す。
 ポリバケツの上に猫が乗っかっていた。俺と目が合うとブロック塀を飛び越えていった。煙草売りのばあさまは、こっくりこっくり船を漕いでいる。
 あとは自転車を余所見運転してるおまわりさんくらいか。のろのろと和菓子屋の前を走る。そんなに饅頭がうまそうなら買えよ。
「にいやん、こっちこっち」
 声は手元から聞こえてきた。おまけに箱が動いていた。
「わしや。マルボロや」
 俺の手が動かしてるんじゃない。偽マルボロの中で何かが暴れている。
 思わず落としてしまうと、
「痛っ! 失礼やなー。物は大切に扱えよ。拾ってくれや」
 かなりうさんくさい、というか明らかにおかしい関西弁が偽マルボロの中から聞こえてくる。
 言われた通り、こわごわ拾ってこわごわビニールを剥いた。蓋を押し上げると、中から一本飛び出してきた。
「おおきに。やっとシャバに出られたわ。二十本も詰まってると狭くてかなわんわ」
 煙草が喋った。白い紙巻煙草のフィルターに、これまた子供のラクガキのような顔が書いてあった。丸書いてちょん、丸書いてちょんというあれだ。
「あの、どちらさまですか」
「マルボロや」
 紙巻煙草は自信満々に、胸じゃなくてフィルターを反らせた。本当にフィルターが反って皺ができた。
「嘘言うな! お前、どう見てもマルボロじゃないって!」
「マルボロの箱に入ってるんやから、どこからどう見てもマルボロや。ちゃうか?」
「違う」
 そう断言してやると、紙巻煙草はうな垂れた。うな垂れてまた皺ができた。
「やっぱ無理か……」
 ラクガキであるにも関わらず、紙巻煙草の目に涙が滲んだ。滲んだっつーか、ラクガキの目の下にドロップ型の絵が書き加えられただけなんだけど。
「にいやん、すまんかったな。わしのことは捨ててくれてかまへん。とっとと捨てて忘れたってや」
 そしてすごすごと元いた場所に収まっていく。白いフィルター群の中に収まると、他の紙巻煙草と見分けがつかない。よくよく目を凝らしてみれば、一本だけ震えていた。
「あのさぁ、俺でよかったら話聞くけど?」
 俺、涙には弱いんだよね。
「ほんまか?」
 ぴょこん、とまた飛び出してきた。目の下の涙はきれいに消えていた。
 だまされた……
 この野郎、と箱ごと潰したくなったけど我慢した。エセ関西弁を喋る紙巻煙草に少なからず興味があった。
 煙草はぽつぽつと話し出す。
「わしな、ほんまはマルボロじゃなくて国産煙草やねん。生まれも育ちも日本。所属はJT……日本煙草産業ですわ。もちろん、日本から出たこともありません。煙草工場で生産されて、兄弟二十本一パックに詰めこまれ、あの店に来たんですわ」
 この二十本全部が兄弟なのかよ。
「あの店にはいろんな煙草置いてあるやろ? わし、初めて自分以外の煙草を見たんや。マイルドセブンにセブンスター、キャメルにセーラム、ピースもある。国産も外国も、葉っぱだけのやつもある。だけどな、国産煙草仲間は、煙草言うたらやっぱマルボロや言いますねん。アメリカさんではマルボロが金になる時代もあった。テレビやら映画やら、かっこいい男のそばにはマルボロがある。いきつけのバーで独り、ショットグラスを傾けながらマルボロの紫煙をくゆらす……これこそ男のロマン、ハードボイルドですわ」
 煙草の口調はうっとりとしていた。ラクガキ同然な目には表情なんてなかったけど、その代わり、きらきらとした模様が効果として目の周囲に現われた。どういう仕組みになってんだろ。
「マルボロに憧れてるんですわ。自慢じゃないけど、わし、本当はマイナーな煙草やねん。きっと名前聞いたらにいやんもかっこ悪い思います。どこぞのじいさま方はまだまだ愛飲してくれてるみたいだけど、生産量は年々落ち込んでる。カタログだって載ってるのは後ろのほう、葉巻類のちょっと手前ですわ。それだけ古いんや。だけど、古くても煙草は煙草。わしもマルボロのようにかっこよく吸われたい……使いこまれたジッポーで火をつけてもらい、長い長い灰をこの身に抱えたいんですわ」
「残念ながら、俺は全然かっこよくないし、ジッポーだって持ってないぞ」
「それは一目見たらわかります。こっちも煙草人生長いんや。にいやんはどう見ても百円ライター派やね」
 ああ、はいはい。そうですよ。胸ポケットに常備してるのは緑色の百円ライターですよ。
「まあ、買うてもろた以上、文句は言えへん。こっちも覚悟決めな。にいやん、わしを吸ったってや」
 さあ、とでも言うように、フィルターの先を俺に向けてくる。
「いいんだな?」
「かまへん。ただし、一つだけ注文つけさせてや」
「何だ」
「かっこよく火をつけてや」
 道端で、しかも百円ライターでどうかっこつければいいのか。それはちょっと過ぎた注文ではなかろうか。
 それでもこの煙草に協力してやろうと思った。そうだよな。人間でもどうせなら一流になりたいと思うさ。短い煙草人生に終止符を打つのが俺でいいのかどうかも疑問ではあるが、精一杯、マルボロだと思いこんで味わってやろう。
「にいやん、ありがとな」
 俺の指に挟まれて、煙草は言った。口につけ、出来る限りかっこよく火をつけた。たまたま視線が合った、子供連れの若い主婦が変な顔をしていた。「見るんじゃありません!」とか何とか言って足早に去っていく。失礼な。
 フィルターを通して煙が肺に入ってくる。深く深く吸いこんで味わう。
 煙草はしんせいの味がした。

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