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■壊れた時計
「いい夫婦ってなんでしょうね」
ある晴れた秋の日のことだった。徐々に寒さが忍び寄り、冬の気配を感じ始める頃だったと思う。
そんなことを唐突に言い出した彼女は読んでいた文庫本から顔を上げ、持参した水筒から温かい紅茶を啜った。
「この本、テーマが夫婦なんです。ごく平凡に出会い、ごく平凡に結婚し、ごく平凡に家庭を築き、やがて子供達も一人立ちして夫婦だけの静かな生活がやってくる。ドラマチックな展開もなければロマンティックなエピソードもない。淡々としているけれど、じんわりと行間から二人の愛情が滲み出てくる。そんな作品のようです」
「平凡は悪いことかな」
「いいえ。劇的なだけが人生ではありませんから」
うららかな秋の公園は人々の憩いの場だった。僕達のようにベンチに座って日向ぼっこしている大人もいれば、芝生で子犬のようにはしゃぐ子供達もいる。
穏やかな太陽の光が世界に満ちる。絵に描いたような平和な光景に、知らず口元が綻ぶ。
ふと散歩している老夫婦の姿が目についた。車椅子のお婆さんと、それを押すお爺さんだった。二人とも朗らかな笑みを浮かべ、仲睦まじく何事かを語り合っている。
僕は彼女の肩をつつき、つついた指でそちらを指した。
「ああいうのがいい夫婦って言うんじゃないかな」
「そうかもしれませんね」
そしてどことなく寂しげに彼女は微笑んだ。その目尻にできた笑い皺に心を掴まれる。
あれから何年が経ったのだろう。僕は時の経過が体感できない。日々めくられていくカレンダーだけが僕に時が過ぎることを教えてくれる。
歳を聞かれても咄嗟には出てこない。身体はそれだけの歳月を経たという感覚を持たず、まだ若いままでいる。
「僕は平凡な人生を望んでいた。ごく普通に大学を出て、ごく普通に就職して、ごく普通に結婚して、家庭を築くつもりだった。君が読んでいるその物語のようにね」
お爺さんは赤く染まった紅葉の葉を拾い、お婆さんの掌にそっと載せる。しわくちゃの両手に載せたその葉っぱを見つめる目は柔和で、もちろん歳相応のそれだった。
「いまだにどう言っていいかわからないよ。こんな人生になるなんて想像だにしていなかった。人生設計は全て崩れたし、まともな社会生活も送れない。一人で生きることはできず、誰かに頼るしかない人生になるなんて」
そんな人間はただの欠陥品ではないのだろうか。喉元までせり上がった言葉を無理に飲み込む。
「運が悪かっただけですよ。先生も言っていたじゃないですか。原因はわからない。誰にでも突発的に起こりうる病気だと」
幾度も聞かされてきた言葉は僕を一時慰めても、事実は覆せない。僕の手に重なる彼女の手は出会った時よりも皺が増えた。共に歩んできたはずの手の張りは、到底同級生のそれには見えない。
「時々ひどい罪悪感に苛まれるんだ。僕は君の時間を奪ってしまったのではないか。僕ではなく、もっと相応しい別の男がいたのではないか、と」
人の心臓が一生涯に打つ心拍数は決まっているという。これが早ければ寿命は短いし、遅ければ逆に長くなる。そして僕の鼓動はとても遅い。彼女のそれの倍以上の時間をかけて全身に血を送る。
左手につけた形見の時計の針は出鱈目な時間を指している。僕が身に付けているかぎり、これは正しい時を指すことはない。
正しい時を刻めないのなら止めたままでもいいと思ったのだが、とにかく動かしておいたほうが時計のためにもいいのだそうだ。動きを止めたら死んだものと同然と教えてくれた人は言った。
「君は君の道を歩んでも良かったんだよ」
「いいえ、これでいいんです。私が決めたことですから」
お爺さんが押す車椅子は油が足りないのか、時折軋んだ音を上げる。老夫婦は緩やかに散歩道を進んでいく。紅葉の絨毯は二人の行く道を鮮やかな色彩に染め上げる。これまでの二人の道のりはどのような彩りであったのだろうか。それは他人である僕には知る由もない。
「私が一人で決めたんです。あなたの指図は受けません」
そう言って頬を染める顔は、初めて出会ったあの時と変わらない。僕のこの病気と同じで、彼女の赤面症もいつまで経っても治りそうにない。
進む時の拍は違えどこうして共にいることに違いはなく、僕達はこれからも手を取って歩んでゆく。
正しい時刻を知らない腕時計をつけた左手で、彼女の右手をとって。