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■砂礫王国
人が嫌いと街を出て、辿り着いた場所はとても痩せた土地だった。
街からは三十里あまりも離れ、その間にはただ荒野が広がっている。
耕したところで出て来るのは砂と石ばかり。掘っても掘っても黒い土は見えず、ずぶの素人でもまず植物は根を張れないと見当がつく。
こんな何も育たぬ土地に住む物好きなどいない。
だからこそ社会から逃げ出した僕には都合が良かった。
見渡す限り半径三十里、集落もなければ家もない。この乾いた土地は僕だけの王国だった。
山の近くに掘っ立て小屋を立て、そこを住まいとした。強い風が吹けば飛んでしまうだろうと思っていたが、案外気候は穏やかだった。気温はそう高くもなく、昼夜の変動も少ない。雨は少ないが、乾燥しすぎるということもない。これほど住みやすい気候であるにも関わらず、この地がここまで荒れ果てている理由はさっぱりわからなかった。
けれど、気候が良くても土地が悪ければ作物は実らない。
最初の数カ月は鍬を握って頑張ってみたが、やがて諦めた。無駄なことはしたくない主義。見切りをつけるなら早いほうがいい。そもそも僕は農作業がしたくてここにやってきたわけではない。人に会いたくないからやってきたのだ。
鍬を振ることをやめたらすることがなくなった。
さてどうしようと考える。
日々を思索に費やすのはいいが、こう痩せた土地では自給自足もままならない。前述の通り植物は育たないし、狩りをしようにも獣や鳥もろくにいない。トカゲはいないことはないが栄養源になるほど大きな個体はおらず、かと言って虫を食べる気にはなれなかった。
食べる物がなかった。
僕は人が嫌いだが、生きることには執着があった。どこぞの聖者のように干上がって即身仏になるなどまっぴらだ。
どうにか飯の種を探そうと山を掘った。黄金や宝石が見つかったらそれを売ればいい。売った金で食料や生活必需品を揃えればどうにか生きていけるだろう。
そう考えて、掘った。
掘って掘って、掘り続けた。
三日目までは黄金が出ればいいと思って掘った。
十日目までは宝石が出ればいいと思って掘った。
二十日目までは水晶が出ればいいと思って掘った。
こうして一ヶ月が経ったがそれらしい物は何も出なかった。出て来るのは黒い石ばかりで、光る物などまったく欠片も見当たらなかった。
掘った穴は細長い洞窟となり、ひんやりとしていて保存のための室として使えそうだった。食料はそこで冷やすことにした。
しかし人生というのは何がどう転ぶかわからない。
週に一度、行商がやってきて、僕が掘った黒い石と引き換えに食料を置いていくようになった。僕にはよくわからなかったが、この石はとても価値のあるものだと言う。こんな宝石でもなんでもない石に何の価値があるのか僕には理解できないが、世間には需要があるらしい。実に不思議なものだ。
そんな生活が数年続いた。日の出とともに起きて石を掘り、あとは日の入りまで自由時間。好きなことをして過ごす。行商がやってきたら掘った石を渡し、必要なだけの食料を受け取る。
行商は商人にしては珍しくおしゃべりではなかったので、必要最低限の会話だけで済んだ。
街にいた頃には考えられないほど気楽な生活だった。人との関わり合いがどれだけ僕の重荷となっていたのだろう。
一人はとてもいい。一人は素晴らしい。
しばらくは悠々と生活をしていた。しかし長々とそんな生活が続くとだんだん不安になってくる。人とは不思議なものだ。己の力で獲得した自由を信じられなくなるなんて。
こんなところまでやってくる行商には非常に助けられていたが、どうにも猜疑心が抜けなかった。こんなつまらない土地に、黒い石を受け取るためだけにやってくるとは胡散臭い。
世間から離れた僕は、この黒い石にどれだけの価値があり、どれだけの値で売れるのかまったく知らなかった。取引は物々交換という前時代的な方法で行われていた。僕は自分が生きるのに足る分があればよかったので、それで充分だった。
そう、取引がこれからもつつがなく続けば文句はない。
けれど、どうにも暗い影が胸をよぎる。必要分しか言葉を交わさないからこの行商が何を考えているのかわからない。もしかしたらこの商人はもっと黒い石を欲しがっているのかもしれない。僕一人ではこれっぽっちしか掘れないけれど、大人数でかかれば何十倍何百倍と取れるだろう。そのために僕の土地を奪おうと考えているのではないか。でなければ僕を殺そうとするのではないか。
ぐるぐると妄想ばかりが頭の中を回る。
その妄想が現実にならないようにと、僕は黒い石が取れる場所のことだけは話さなかった。話したら我が身が危ないと思っていた。
そしてその考えは概ね正解だった。
ある朝、目が覚めたら見知らぬ場所にいた。
家は僕の掘っ立て小屋だったが、窓を開けてそこに石と砂ばかりの荒野はなかった。砂だけが見えた。
扉を開けて出ると、足の下には柔らかな草が生え、僕の背丈よりも高い木が生えていた。緑の地面は豊かな水を湛えた泉をぐるりと囲んでいる。僕の家はその水辺に立っていた。家の傍らには杭が立っており、そこに茶色の牛が二頭繋がれていた。その傍らでは雄鶏と雌鶏が一羽ずつ、くちばしで地面をほじくり返している。
緑地はさほど広くなく、少し歩けば砂地となった。
目の前に丘があったので登ってみた。砂に足を取られて登りづらかったが、その頂上から眺める景色は素晴らしいものであった。ぐるり数十里には民家はおろか、植物も見当たらない。かつて住んでいた荒野以上に人の気配のない土地だった。
なるほど。ここは砂漠か。
水を飲む牛を横目に小屋に戻り、テーブルの上の皿を見て合点がいった。僕は昨晩の夕食のスープを飲みきっていなかった。そして残った分は全てテーブルの上にこぼれきっていた。
僕は商人の罠にはめられたのだろう。
商人は所詮商人。目の前に金の成る木があれば黙っていない。僕の食事に眠り薬を混ぜ、昏睡している間に小屋諸共この砂漠に移動させたのだ。それもこれも、あの黒い石を独り占めするために。
黒い石がある洞窟の場所がどうして露見したのかは見当がつく。仕事に行く僕の後をつければいいだけのことだ。
食事に眠り薬を混ぜるのも造作もない。いつも同じ行商から食料を買っていた。他に口にするとしたら井戸から汲んだ水くらいだ。あらかじめどちらかに仕込んでおけばそれでよい。小屋ごと持ち上げられても気付かないほど強力な薬だ。もしかしたら象にでも使うようなやつだったのかもしれない。ならばしてやられてと言うよりない。
簡素なベッドに腰をかけ、やれやれと息をつく。
あの行商は僕という人間を見誤っていた。僕は石を採掘するためにあそこに住んでいたのではない。黒い石は偶然の産物であり、特に独占しようという意識などなかった。ただ、僕の僕としての平穏な生活を守るために採掘場を秘密にしておかねばならかなかっただけなのだ。
望みはたった一つ。未来永劫、他人に会わずに済むこと。
行商はよくやってくれた。砂漠に囲まれたオアシスという地形、そして二頭の牛につがいの鳥というまたとない環境を与えてくれた。海底に放り込むこともできただろうに、こんな情けをかけるとは、非道な人間にも一片の良心とやらがあったようだ。
これから先、僕は牛と鳥の面倒を見ればいい。それだけで食うには事欠かなくなるはずだ。オアシスを少しだけ耕して、野菜か果物の種が風に乗ってやってくるのを待ってもいいだろう。贅沢をしなければ生きていける。そしてこの砂漠を越えて来るような物好きがいるとは考えられず、あの僕を騙した行商が罪を償うためにやってくるとも考えにくい。
真に僕一人。広い広い砂漠の中のたった一人の王国。これは最高の棲家だ。まさに僕の理想に近い。
ありがとう、行商人。
ほくそ笑み、ベッドに横になる。思い切り伸びをして、砂混じりの乾燥した空気を胸一杯に吸い込んだ。
さあ、いよいよ夢の生活が始まる。