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■踏切
カンカンカンカン。
警報が鳴っている。赤信号が明滅し、電車の到来を告げる。遮断機が下りて歩行者の進行を妨げる。
しかし一向に電車が来る気配はない。
右を見ても、左を見ても、赤茶けた敷石と、これまた赤茶けた単線の線路が緩くカーブを描いて続いている。
俺は家の前に立っている。もちろん自宅マンションの部屋の、鋼鉄の扉の前だ。扉を開くとすぐ目の前に踏切があった。このマンションは廊下が建物の中にあり、部屋を出ても正面には壁しかないはずだった。なのに踏切があった。
マンションの廊下は左右に伸びていて隣人の部屋の扉もある。廊下はどこまでも長く続いて果てが見えない。等間隔に鋼鉄の扉が並ぶ。そして灰色の廊下が続くだけで、階段もエレベーターも見当たらなかった。
試しに隣の部屋の扉に手をかけてみたが鍵がかかっていた。
左に数メートル進み、扉の前を通るたびにノブを握ってみた。戻って今度は右に数メートル進み、同じようにノブを握ってみた。どこも途中で回転が止まった。試しに一つ、強く扉を叩いてみた。鈍い打撃音が響いたものの、内側からの反応はなかった。俺を受け入れてくれるような扉はここにはない。
俺は俺の部屋に引き返し、ベランダから外を確かめてもよかった。しかしその時はそんな考えに至らず、ただ踏切の前に佇んでいた。
カンカンカンカン。
遮断機の向こうには何もない。本当に何もないのだ。
海が見えるでもなく、山が見えるでもなく、街もなければ平原もない。岩場もない。建物もない。天も地も絵の具で塗りつぶしたかのような真っ白な空間が広がっているだけだった。地平線はあるのかもしれないが、一律同じ色に染まっていて境目が見えない。
あそこは俺が知っていい世界ではない。
直感でそう思った。
あそこは人の領域ではなく、人が立ち入ってはいけないのだと本能が強く警鐘を鳴らしている。神とか悪魔とか精霊とか、そんな類のものが住まう場所。遥か昔、まだ幼い頃に祖父から聞いた、彼岸の話。此岸のものである俺たちが入り込んではいけない聖域、神域、世界の狭間。数多の伝説で黄泉とも魔界とも異次元とも呼ばれる場所だ。
祖父はそこを見たのだと言った。そしていずれお前たちも見るだろうと言った。
ここがその彼岸なのだろうか。自分は死んだのだろうかと頬をさすり、皮膚の下を走る血潮の温かさに安堵する。
肌を触る空気には熱もないが、冷たさもない。しかしどこか冷やかなものを感じるのは生命の気配がないからか。風もない凪の空間だ。しかし穏やかなようでいてどこか心が騒ぐ。何もないこと、何もない場所は人を落ち着かない気持ちにさせる。
それは絶え間なく鳴り響く踏切の警報のせいかもしれない。
カンカンカンカン。
電車の影も見えないのに、警報は鳴り続ける。壊れてしまったのかもしれない。当初は耳障りだと思っていたけれど、聞き続けているうちに麻痺してきた。頭の中で鳴り響く。鐘の音が体内に反響する。まるで最初から世界は鐘の音に溢れていたかのように錯覚する。人の慣れという感覚は実に便利なものだと思う。
本当に何もないのかと見回して、ふと目についた物があった。
鳥居だ。真っ白い中に真っ白い鳥居が立っていた。目を凝らして見てようやくわかる程度のものだ。自分でもよく気が付いたと思う。影がなく、距離もわからないので大きさはわからない。俺と踏切を結んだ直線上にある。もしかしたら近くにあってとても小さいのかもしれないし、遠くにあってとても大きいのかもしれない。
あれをくぐればどこかに行けるのだろうか。そう考えて、自分はどこかに行きたいのかと自問した。同時に、自分がどこから来たのかとも疑問を持つ。
――どこから。
勿論自分の部屋からだろう。背後にあるこの鋼鉄の扉。これを通ってマンションの廊下に出てきたのだ。
――何のために。
外に出るために。
――何故外に出ようと思った。
それは、と内なる自分に答えようとして言葉に詰まる。
俺は何故外に出ようと思ったのだろう。何の用があったのだろう。外に出るまでこの部屋で何をしていたのだろう。
思い出せない。数分前の自分の行動が、思考が思い出せない。
俺の名前は? 職業は? 家族は?
空っぽだった。眼前に広がる風景のように記憶は空白で、背中の扉の中の様子すら思い出せなかった。
愕然とした。体から力が抜け、その場に膝を着く。震える掌を見つめる。それはよく知っている俺の手だった。皺の走り方まで覚えている。もしもここに鏡があったのなら、冷めた目で無愛想な顔の男が映るだろう。なのに己の名前は一文字たりとも出てこなかった。
俺は誰だ?
カンカンカンカン。
揺さぶられる。魂が、存在が、鐘の音に揺さぶられる。しっかり地に足が付いているはずなのにおぼつかない。ひどい眩暈だ。耳をぶち抜けばこの眩暈は収まるだろうかという凶暴な衝動が頭をもたげる。
電車は来ない。
遮断機は上がらない。
彼岸には誰もいない。
マンションにも誰もいない。
世界は俺と踏切だけで構成されている。こっちの世界もあっちの世界も知ったものか。世界を構築するのは有機物と無機物。生物と非生物。精神を持つものと持たざるもの。では魂は? 魂はあらゆるものに宿るのか?
難しいことはわからない。わからないものは壊してしまえばいい。
そうだ、音源を断ち切ればこの音もやむだろう。踏切だって来ない電車を待ち続けるのも退屈なはずだ。俺の手でどうにかしてやればこいつもここから解放される。
膝をついたまま見上げた赤信号は、一つ目の妖怪のように見えた。視線はまっすぐに、足元に跪く俺などいないかのような顔をしている。顔面が全て目だから表情などわからない。こんなつまらない仕事に従事しながら顔色一つ変えず、喜怒哀楽も表さずに突っ立っている。こいつはずっとここで警報を鳴らし続けていたのだろうか。
黒と黄色の鉄の体は、長年風雨にさらされていたのか、錆が浮いていた。空すら真っ白で雲も見えないこの世界にも雨は降るのか。
「やめろよ」
声は掠れていた。
「無駄なことはもうやめろ」
返事など毛頭期待していない。こいつは無機物で、生物である俺とは違う存在だから。頭でわかってはいたが、俺の中の衝動は言わずにいられなかった。
カンカンカンカン。
白い世界に響く音。
無駄打ちされるだけの警鐘。誰に危険を伝えているのか。
俺に伝えているのか? 自分のこともわからないこの俺に。
――名前は。
名前だけでも思い出したい。たとえこの世界に俺の名を呼ぶものがいないとしても、自己の証明として持っておきたい。
「――」
口を開いてみた。踏切に自己紹介するつもりで声を出そうとして詰まる。
名前。名前だ。俺の名前。生まれた時に親が命名してくれたのだろう、無二の名前。存在に刻まれた俺としての名。誰にも使わせない、たった一つの俺の物。
「あ――」
胸いっぱいに息を溜め、吐く。肺の底に燻ぶる衝動の火を消す。落ち着こう。走り出しそうな感情に任せると自滅してしまうだろう。
目を閉じる。暗い目蓋の裏にフラクタルな残像が広がる。その不安を誘う映像を見つめたまま、体内を走査するかのようにイメージする。俺の名前は体の中のどこかにあるはずだ。魂に刻まれているのかもしれないし、心臓の蓋の裏に隠されているのかもしれない。隅々まで探せ。
脳内にもう一人の俺の姿を作り出す。必要以上に栄養を摂らないがために痩せた体、他者への関心を示さない乾いた瞳に、表情を表さない無愛想な顔。イメージの中に作り上げた俺に、これまたイメージの中のマンションの扉を開けさせる。そこは踏切の向こうと同じ何もない空間、ではない。俺の住処だ。そこに何年も住んでいた。これからも住んでいく。
ドアノブを握り、右に捻る。抵抗なくあっさりと扉は開く。
まずは玄関。玄関ホールというほどのものはない。単身者用の半畳ほどのたたきがあり、二、三足のスニーカーが並んでいる。靴にこだわりはないので、これだけで事が足りた。革靴も一応持っていないこともないが、どこに仕舞ったか忘れた。
申し訳程度の玄関を上がるとすぐ廊下だ。一直線の廊下は部屋数が少ないためごく短い。廊下の左側は壁だけ。右側には台所と風呂、便所の扉が並ぶ。料理はしないから台所はほとんど使わない。食料庫にはインスタント食品が詰め込まれ、冷蔵庫はジュースばかりが並ぶ。入居当時は最新設備と謳われたオール電化の台所は、出番のないまま俺の退去を待っている。
イメージの俺はそっと廊下を歩く。我が家であれど、騒がしく歩くような趣味はなかった。狭い廊下を抜けると愛しき我がリビング。世界で唯一心安らぐ場所だ。
リビングに通じる扉に手をかける。幽霊のように手が取っ手をすり抜けやしないかと一瞬迷ったが、そんな恐れもなかった。ほとんど力を入れずに扉が開いた。
暗い。ブラインドがしっかり下りているからだ。暗い中にソファが一つ。家具にこだわりは持たない主義だが、これだけはこだわった。とても座り心地がいいことを知っている。うっかりここで寝てしまっても疲れないようにしたのだ。
そのソファを越え、いつもの定位置に就く。広い机の前の椅子の上。仕事も食事も全て、一日のほとんどの時間はここで過ごす。机の上にはコンピュータのキーボード、ディスプレイが三台。傍らにはヘッドセットがかけてある。ディスプレイはどれも沈黙していた。真ん中の液晶画面を覗くが、メインモニタはノングレア加工してあるため顔は写り込まない。
スイッチはデスクの上。ボタン一つ押せば全ての電源が入るように配線してある。ミサイルの発射ボタンに見せかけたそれに指をかける。
息を一つ。ゆっくりと指に力を入れる。
ファンが回転する。ディスクが回転する。三台の黒い液晶画面全てにメーカーのロゴが出現する。連動して机周りの間接照明が灯った。コンピュータが息を吹き返す。
メーカーロゴはやがて消え、また暗い画面が戻ってくる。これまでの沈黙と異なり、左上で白いアンダーバーが点滅している。アンダーバーが消えたら次はシステムのスタート画面が表示され、そしてユーザーIDとパスワードの入力ボックスが立ち上がる。
――ユーザーID。
キーボードにかけた手が自動的に動く。魂に刻まれるまで幾度も繰り返された動作だ。意識せずとも体は勝手に動き、入力する。
――HUNDRED
そして俺は名前を取り戻す。
カンカンカンカン。
暴力的な鐘の音に顔を上げた。踏切の前だった。
自室ではない。愛用のコンピュータもなく、座り心地にこだわったソファもない。目の前には踏切があって左右に線路が伸び、その向こうには色を失った平原が広がっている。
立ち上がり、膝についた塵を払う。ここに戻ってきてしまった。けれど、それまでの漠然とした不安は消えていた。踏みしめる足の裏はたしかな地の固さを感じている。もう揺らぐことはない。眩暈を起こすほどに不安定は自分は存在しない。
強く意識すれば俺はここから去ることさえできるだろう。
眼差し遠く鳥居を見やる。周囲に溶け込んでしまったそれの下を幾人が通り、帰ってきたのだろう。
人の好い従弟の顔が思い浮かぶ。おそらく俺よりもずっと昔にここを訪れたはずの年下の青年。背は高いが線が細く、時折儚げな表情を浮かべる幸薄い男。生まれた時より重すぎる枷をつけられ、それを引きずりながら生きてきた。あいつもあそこを通ったのだろうか。あそこをくぐれば何を見て、何を理解できるのだろうか。
いつもなら好奇心が頭をもたげるのだろうが、今回ばかりはそれはなかった。好奇心は猫を殺す。ここは物見遊山で見て回るような場所ではない。本能が警鐘を鳴らし、歩を進めようにも恐れが増す。その反応は生きとし生ける者として間違いではない。ここは彼岸なのだから。
幾多の先達も、従弟も、そしてこれから来る者たちも、生と死の境である真白き地に立ち、何を悟るのだろうか。
カンカンカンカン。
右の手が熱い。焼けるというほどの熱さではないが、不自然に温かい。不意に気付いて手を持ち上げてみると、手の甲にマグマ溜まりのような真っ赤な穴が開いていた。
「ひっ」
悲鳴を飲んで退いて、背中が自室の扉にぶち当たる。強かに腰椎を打ったが、痛みに悶える余裕などなかった。
手の甲は火傷のように爛れているわけではなかった。少し離して遠目から見れば、赤い宝石のアクセサリーのように見えなくもない。熱いだけで痛くも痒くもない。
何だろうとかざして眺めていたら、マグマが膨れて持ち上がった。
そして。
ソレは俺の手から分離した。ぼとりと零れ落ち、半固体のスライムのように丸まる。
「え?」
手の甲は何もなかったかのように、元の武骨な男の手に戻っている。ほとんど外に出ない、やけに白く不健康な肌が骨と筋とを覆っている。
手から滑り落ちた赤いスライムは、少し震えたかと思うとそのまま踏切のほうへと転がっていった。人が走るのと同じか、それよりも少し早いくらいだろうか。遮断機をくぐり、線路を渡り、鳥居を目指しているのかのように一直線に進んでいく。
「おい、待て」
ソレが何なのか知らなかった。けれど、俺の一部であることは間違いないと確信めいたものがあった。
「待てってば」
ソレを追って、俺は無意識のうちに遮断機をくぐり、電車が来ない単線の線路を渡り。
一点の曇りもない白い地面に。
足を。
やっと捕まえた赤いスライムはスライムではなかった。手の中には燃えるように赤く、小さな毛の塊があった。
踏切の警報は、いつの間にかやんでいた。
***
「モモちゃん?」
「名前で呼べ、馬鹿野郎」
青い空を背景に、従弟がこちらを覗きこんでいた。逆光の顔に不安げな表情が浮かぶ。優男は目尻に涙すら浮かべていた。
「良かった、死んじゃったかと思った」
「誰のせいだ、馬鹿」
体は地面に横たわっていた。節くれ立った木の根や、頭を出した岩肌が背に当たって痛い。空を仰ぎ見たまま溜息をつく。どのくらい気絶していたのか見当もつかない。ただ、全てが終わったらしいことだけは従弟の様子でわかった。
「モモちゃんのおかげで終わったよ。全部消した」
「それが一番だ。ロクでもねぇもんはなくなっちまったほうがいい」
上半身を起こそうとすると、従弟が手を貸してくれた。背中どころか首も頭も痛い。出血していないところは幸いだが、あちこち打っているようだ。明日以降、全身ひどい青痣まみれとなりそうだ。
眼前には何もなかった。山のすそ野のご神木と呼ばれた大樹。そこにあったはずの巨木はきれいになくなり、大量の灰だけが積もっていた。それも折からの風で少しずつ飛ばされていく。
「これで清々したな」
「うん。村の人たちも解放されると思う」
神木に生贄を捧げる。科学技術が発達した現代では信じられないだろうが、山奥の村にはそんな忌まわしい因習が残っていた。しかし、その捧げる相手がいなければ続けることもできないだろう。
人間は弱い。容赦なく天災を下す神だの鬼だのに媚びを売らなければ種を繋ぐことができないほどに弱い。だからやむを得なかったのだ。彼らは生き残るため、最小限の犠牲を払って最大限の恩恵を受けていた。
しかし、俺からすればそれは愚行にしか思えない。こんな鄙びた村にこだわらず、土地を捨ててもっと便利なところに移住すれば良かったのだ。そうすれば悲しみの連鎖なんて簡単に断ち切ることができた。誰も犠牲になる必要はなかった。
――わかっている。
村人はこの村を捨てることなどできない。生まれ故郷には特別強い思い入れを持つ。日本人らしい感情だ。
「めんどくせぇよな」
「何が?」
「ド田舎」
従弟は苦笑するばかりで返事はしなかった。ド田舎代表とも言える従弟は立場上、肯定も否定も難しかった。
「終わったなら帰るか」
よっこらしょ、と立ち上がる。爺臭いことこの上ないが、掛け声をかけなければならないほどに、身体は痛めつけられていた。立ちくらみを起こした俺を、慌てて従弟が支える。肩を借りるが、俺と従弟とでは身長差がありすぎて逆に歩きづらい。肩は諦めて腕を借りる。
その俺の肩に小さな影が現れ、俺の頬をくすぐった。
「これ」
従弟はバツの悪そうな顔でその影を示す。
「うん、わかってる」
小さな影はふさふさの赤い毛を持つ鼠だった。俺は赤い鼠を掌に載せ、頭の上に載せる。これまで見えなかった姿を今こうして見ているのも妙な気分だ。生まれた時から一緒にいたのに、一度も見たことがなかったから。
「こいつとの付き合いは長いからな」
そしておそらく、これからまたかなり長い付き合いになるだろう。