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■熱海
「一塚、事件よ」
「はぁ?」
突然事務所に乗り込んできた葉塚の第一声に、一塚は間の抜けた声を上げた。
徹夜での浮気調査を終え、報告書を書き、依頼者に引き渡したのが今日の昼前のこと。午後は特に仕事も入れず、のんびりと体を休めようと思った矢先のことだった。
「断る。俺は疲れているんだ」
「あら。徹夜が堪えるほどの歳だったかしら? 私の前でそんなこと言えるのかしら?」
三十路に差し掛かった女は性質が悪い。ぐいっと顔を寄せて、一塚の顎の下に人差し指を添える。うっかり動けばキスしてしまいそうな距離だが、どんなに美人でも姉相手では嫌悪感しかない。
「俺じゃなくてもいいだろ。子飼いの探偵様にやらせろよ」
「彼では駄目」
葉塚は勝手にコーヒーを入れて勝手に飲む。それもブラックで。腰に手を当ててぐいっと一息で。熱くないのかと呆れて見ていると、今度は来客用のソファにどっかりと座った。タイトスカートから伸びる均整の取れた足を組む。
「壊れちゃったから修理中」
「……あっそ」
直接会ったことはないが、葉塚の話を聞いている限りではその“子飼いの探偵様”は随分とこき使われているらしい。
話によると、一日に三件担当させることもあるようだ。それだけ酷使していたら壊れもするだろう。一日に三回も死体を見せられたら、それはもう頭がどこかおかしくなってもやむを得まい。見知らぬ男だが同情する。
そもそも。殺人事件が一日に三件という東京の現状が異常だ。いつの間にそんな犯罪都市に変貌してしまったのだろうか。
「報酬、出るよ」
そう言われ、一塚は顎に手を添えて考える。
金は欲しい。社会に出るにあたり勤め人という選択肢を捨てた以上、先立つ物はいつでも歓迎する。しかし今は休みたい気持ちも強い。ひたすらに眠い。しかし金も欲しい。
この俺が金に執着するなんて。
今の自分をかつての友人が見たら何というだろう。
「……話を聞くだけ、なら」
揺らぐ心でどうにか精一杯の妥協点を絞り出した。受けるか受けないかはそれから決めてもいい。興味をそそる事件ならば乗り出せばいいし、そうでなければ引っ込めばいいことだ。
葉塚が持ちこむのは、人死にが出ているような碌でもない事件ばかりだ。捜査一課の刑事なのだから当たり前ではあるが。
探偵の仕事は殺人事件の解決だと誰が決めた?
話を聞く気になった一塚に満足げな笑みを見せ、葉塚は足を組み直した。ハイヒールの尖った先端が一塚を睨む。
「場所は?」
「熱海」
「はぁ? 東京じゃないのか?」
警視庁勤務の葉塚の管轄からは外れているはずだが、その理由は言わなかった。
「……被害者は?」
「この女。人に言えないけれど世間的には必要なお仕事をしていたとのこと」
手帳の間から一枚の写真を出して見せてきた。どれどれと一塚は覗き込む。いつの写真なのか、日に焼けて色が少し変わっている。どこかの城を背景に三人の女が写っており、葉塚はその内、真ん中の一人を指差した。
「人の美醜というものは口に出すのを憚るものだが、その」
一塚にしては今一つ歯切れが悪い。
「ブスだな」
「ええ、ブスよ」
遠慮がちな弟に対し、姉は容赦ない。おそらく本人を目の前にしても言い捨てるだろう。
下膨れの頬に一重で細い目。顎の線には吹き出物。額はごく狭く、くっきり書きすぎた眉は不自然。被害者の顔はある意味、奇跡の産物だった。これを褒めろと言われても言葉が出なくて困る。遺伝子の悪戯にしても実に容赦極まりない。
この容姿ではこれまで苦労しただろう。人様から指差されて笑われるような人生。挙句辿り着いたのが性風俗でも不思議ではない。
一塚は「かわいそうに」と呟いてみたが、心の底から出た言葉ではなかった。
「これで客がつくとか疑わしいレベル」
葉塚はこっちがお店用ともう一枚写真を出してきた。並べて思わず見比べてしまう。お店用という写真では、二回りも輪郭が細く、肌も色白、目はパッチリな美人が微笑んでいる。辛うじて修正されていないのは鼻くらいだった。
「詐欺だな」
「詐欺よね」
過剰に修正された写真を見て指名して、出てきた実物がこれだったらまず金返せと言うだろう。これを良しとするのは余程の物好きに違いない。
一塚には女で遊ぶ趣味はないが、それでも無いと言い切れる。
「なるほど、デリヘルでこいつが来たから刺したのか。その気持ちはわかる」
「違うわよ」
即答だった。清々しいまでに。
そして事件の顛末を語り始めようとした葉塚を、一塚は手で制する。
「熱海でブスが殺されて、ときたら探偵の仕事ではない。これを事件にするのは警察の仕事だ。俺は手伝わない」
「どういうことよ」
不服そうな葉塚に、一塚はタブレットコンピュータを投げて寄越した。その液晶画面には検索サイトが表示されている。
「熱海、殺人事件で調べりゃわかる」
そして椅子に深々と座り直し、目を閉じた。