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■釣りをする人

 釣り人の朝は早い。
 喜助は夜明け前の一番鳥が鳴く頃には支度を整えている。
 昨夜つくっておいた握り飯を弁当に持ち、道具を携えて家を出た。もちろん、家族を起こさないよう、静かに静かに戸を開けた。
 竹からつくった釣り竿がびよんびよんとしなる。細い細い竹だけど、これが意外に折れにくい。あの時も折れなかった。

 月一巡り前の釣りでは、喜助の針に大物が食いついた。水面に浮かんだ大きな影に、周りにいた釣り人も目を見張った。
 主と言われそうなほどの大物だった。さすがに力が強い。
 喜助は必死に竿にしがみつき、ありったけの力で引っ張った。引っ張って、引っ張られて。
 踏ん張る足がずるずると何度となく前進した。喜助が引っ張られると、水辺のぬかるみに二筋の小さな溝ができた。土に足が埋まってしまう。その度にまた少しずつ後ろに下がった。浅いぬかるみに滑り、足を取られると、また水のほうに引きずられる。何度も何度も繰り返した。
 長く長く時間が流れる。たった数分が何時間にも感じられる。喜助は主と戦っていた。釣り人としての意地とプライドが、今まで以上の力を引き出す。真っ赤な額に血管が浮いている。今にも切れるんじゃないかとばかりに膨れ上がっていた。
 見物していた同好の士は応援の声をかけてくれたが、いつの間にやら勝手に賭けを始めていた。
「キスケさに五十」
「いや、おらは主だな。二十で」
 そんな声は喜助には届いていない。無我夢中で竿を引くばかりだ。
 大きくしなる細い竹はとても頼りない。限界まで伸び切った糸が食い込み、竿がきりきりと悲鳴を上げる。噛み締めた喜助の奥歯もぎりぎりと鳴る。
 しっかりとつかんでいるはずの手は汗ばみ、滑り止めの布がだんだんと役割を果たさなくなってくる。根が深い畑の雑草を抜くほうがはるかに楽だ。
 糸の先、水に潜り込んでいるあたりを見つめる。その下では黒い影が激しく抵抗している。水面を叩き、荒れに荒れていた。反対側から糸を引き、喜助を引きずり込もうとしている。跳ねた水が地面に小さく溜まっていた。
 だが、確実に両者の距離は縮まっていた。

 あの主は強かった。これまでで一番ではないだろうか。あれだけの大物がいるとは知らなかったし、まさか自分のに引っかかるとも思わなかった。
 思い出しながら、喜助は軽い足取りで淵へ向かった。日の出が近く、空がだんだんと白んでくる。山の稜線がくっきりと曲線を描く。
 淵は山の中にある。山の中に作られた古いダムが淵だった。誰が呼び始めたかは知らないが、ともかくここは昔から淵と呼ばれている。喜助が幼い頃から淵は淵だった。新月の翌朝は男衆が集まり、釣りをするのが村の慣習だった。
 作りかけのまま放置された道をしばらく進み、微妙に植生が変わったところで山に入る。もう何人も通っているせいで自然とできた道を登る。熊避けの鈴を鳴らしながら、今年はとびきり成長した藪に分け入る。
 藪だけではない。木々の成長も著しい。鮮やかな黄緑の葉をつけた若枝が四方八方に伸ばている。枝先には知らない花を咲かせていた。ねじれた白い花弁を持つ、掌ほどもある花だ。知らない蔦がそこに絡まっていた。やたらとごつごつとした、どす黒い蔦だった。
 竿が枝に絡まぬよう気をつけなければいけない。好き放題成長した木に絡めとられては大変だ。ねじれた花はバネのように固く、ちょっとやそっとでは外れそうにない。おまけに蔦はトゲだらけだ。
 喜助は慎重に、しかしはやる心を押さえ切れず、早足で山を登った。
 村の男衆はこの釣りが大好きだった。たとえ途中がこんな道であろうとも、釣りの楽しさを考えれば苦ではない。
 一際濃い藪を分けると、急に視界が開けた。
 淵に到着したのだ。山間の小さなダムが喜助を迎える。朝の光が水面にきらきらと反射した。
 今日は水が綺麗だ。うっすらと深い緑色の水底に沈んでしまった屋根が見えた。こんな日はアタリをつけやすくていい。
 他の釣り人はすでに到着していた。もちろん、前回も見た顔ばかりである。だがまだ釣り糸を垂れておらず、何やら水辺に固まっていた。
「みんな何してるだ?」
「おお、キスケさ。ちょうどよかった」
 男衆は喜助のほうに背を向け、何かを取り囲んでいるようだった。村長がその中から手招いている。喜助は竿を置いてみんなのほうに呼ばれて行く。
「キスケさ、前にでかいの釣ったべ? あれのことなんだ」
「あれは拓をとって、はぁ、放してやったべや」
 そう、喜助は主に勝ったのである。
 何度目か、引き寄せられた喜助が再び後ろへ下がった時、相手の力が一瞬、ゆるんだ。それを見逃すはずがない。ぎりぎりいっぱいまで筋肉を張り詰め、渾身の力で釣り竿を引いた。
 地上に身を投げ出された主は想像以上に大きく、想像以上にたくましい身体をしていた。太い尾はびちびちとひとしきり跳ねた後、観念しておとなしくなった。つまり、負けを見とめたということになる。
 狭い村だ。噂はあっと言う間に広がる。力比べに勝った喜助は、それからしばらくの間、村中の人気者となった。子供も大人も羨望の目を向ける。慣習である淵での釣りで、そのような快挙を成した例は初めてなのだ。
 記念にとった拓本は今、村唯一の寺に納めてある。大きすぎて、手持ちの紙では尾の部分までしか入らなかった。
「その拓を返せと言うだ。この人が」
 村長は男衆の中を指した。喜助は中を覗く。
「はあ……まんずこれは」
 ナマズのような細いヒゲのじいさまがいた。白い眉毛はふさふさと長く、目を覆い隠さんばかりだ。小柄な身体で、腰が曲がっている。全身をつやのない鱗が覆っていた。ぬらぬらと粘り気のある液体をかぶっている。腰のあたりで組んでいる手の下から長い尾が出ていた。これもまた鱗に覆われ、その先にはところどころ傷ついたひれがくっついていた。
「底の人だか」

 喜助たち、村の人間はじいさまのような人間を「底の人」と呼んでいた。底の人は、文字通り、淵の底に住んでいる。身体が水中生活に適応しており、淵の底で魚のようにえら呼吸しながら生活している。
 彼らはかつて淵が淵になる前にあった村の末裔なのだという。もちろん、その時はごくごく普通の人間だった。土地者と違うのは出身くらいだろうか。だが、他の村の人間と親交を保つくらいには受け入れられていた。
 喜助が生まれるよりもずっと前、その村の主張などよそにして、ここにダムができることになった。村人たちの必死の抗議もむなしく、着実に建設が進み、予定よりも半年早く完成した。
 いよいよ村が水に沈むという時、底の人の祖先たちは村を離れることを良しとしなかった。この土地の外からやってきた彼らは、何年もかけて必死に開墾した土地を手放したくなかったのだ。
 それからダムに水が入れられ、何年も経った。底の人は今も水の中に住んでいる。
 喜助たち、村の人間と底の人が接触する機会は全くと言っていいほどなかった。村の人間は水中に住む彼らを恐れ、淵に近づかない。底の人もおいそれと水の中から出てくることもなかった。
 どことなく似ていることは認めても、お互いに異形の者であることに変わりはなかった。

 じいさまは男衆を分け、ずいと喜助の前に出てきた。尻尾をひきずる、ずるりという音。
「左様。おぬし、キスケさんと言ったか、うちのもんの拓を返してもらえんかね」
 湿ったような声が耳につく。長い舌を無理やり押しこめているような、そんな喋り方だった。水っぽい妙なアクセントと発音も気になる。魚と同じ、生臭い匂い。底の人と話すのは初めてではないが、やはりどうにも気持ちいいものではない。
 じいさまは、さあ、と手を出した。鋭い爪が生えた指の間には薄い膜が張っている。
 困って喜助は村長を見た。村長も困った顔をしていた。
「わしらにとって、拓というもんはとっても大事なものなんじゃ」
 じいさまは丸く濡れた目をぱちぱちと何度かしばたき、地面を指す。
「お天道さまの下におると影ができる。影は地上のもんに平等にできる。一見真っ黒で何もない。じゃが、影はおぬしらの足から生え、ずっとついてくる」
 じいさまの指につられて、喜助は下を見た。薄い影ができていた。
「身体の一部なんじゃ。おぬしらは知らんと思うが、影というのはその者の本質を映したものでもあるんじゃ。影があるからおぬしらは自分が存在していることをはっきりと自覚する。個々の独自性を保っていられるということじゃ。濃い薄いもでかい小さいも関係ない。言い換えれば、影がおぬしらの自我の一部とも言える」
 喜助には学がない。村で生まれ、村で育った。田畑を耕す百姓仕事には学問など不要、と両親は喜助を学校に行かせなかった。家が貧乏だったこともあり、喜助は幼い頃から鍬を握って生活してきた。だから、このじいさまが言っていることはちっともわからなかった。底の人は難しい話をする、とぼんやりじいさまのヒゲを見ていた。
「しかし、陸の上にいるおぬしらと違い、深い底に住むわしらには影がない」
 ほれ、とじいさまは少しだけ足を上げた。足の影が落ちていない。地面があるだけ。
「わしらは水に入る前に影を身体と統合したのよ。じゃから影がないんじゃ。影がなくても生きていけるようにしたんじゃ」
 男衆は黙ってじいさまの話を聞いている。それは関心をひかれたからではなく、喜助と同様、とにかく口を挟まなければいいということくらいしかわからなかったからだ。
「じゃが困ったことにな。おぬしがとったあの拓本」
 ぺしぺしとじいさまが喜助の腕を叩いた。喉がひきつる。鱗がまとうぬめりが気色悪く、あやうく声を出すところだった。
「困るんじゃ。真っ黒じゃろう? あれがわしらにとっての影になるんじゃ。拓をとるというのは影を引き剥がすことと同じになるんじゃ」

 喜助たちが大人になるよりもっと前から釣りは行われていた。釣りは底の人と地上の人の交流のために行われたのが最初だった。
 地上の人は底の人がいつか襲ってくるのではないかと怯え、また底の人は地上の人が襲ってくるのではないかと恐れていた。地上に住む親が、淵に行くと化物に引きずりこまれる、と子供に教えるくらい、両者は互いを嫌悪していた。
 そんな折に現われたのが一人の学者先生だった。
 国から山林の調査に来たという学者先生は、初めて底の人を見た時、たいそう驚いた。しかし、よくよく見れば姿形はわれわれ人間に似ている。はてどうしたことだと首をひねる学者先生。何度か通って底の人と仲良くなってみた。底の人は奇妙な外見はしているものの、これといって恐ろしいことはしてこない。むしろ友好的なくらいだった。
 淵のそばで学者先生は何時間も底の人と話した。地上の人が珍しくて、入れ替わり立ち替わり、水面に顔を出す底の人とたくさん話した。そしてついに彼らが元は同じ地上の人間だったと聞き出したのである。
 学者先生は慌てて村に帰り、集会所に村人を集めてこう言った。
「たとえ住む環境が違っても、同じ土地にいる以上住み分けは必要です。もちろん、そのためには仲良くしなければなりません。友好の証として何か、彼らに送ったらいかがでしょう」
 偉い学者先生にそう言われ、村人たちは渋々底の人と仲良くすることにした。そのためには、とまず淵に物を沈めることを始めた。
 木箱に手紙と果物やら野菜やらを詰め、麻縄を結わえた。長く長く残った縄の片一方を持ち、そっと淵に沈める。淵の中から縄が引かれたら、底の人が受け取ったという合図になる。  これが釣りの始まりだ。
 合図として縄を引いていたのが、いつの間にやら引き合いとなった。縄が紐になり、紐が縄となり。地上の人と底の人との糸引き遊び、つまり力比べに発展したのである。
 先端に重しと札をつけた糸をたらしておく。すると、暇な底の人が寄ってきて糸を引く。糸を引っぱりながらくくりつけてある札を取ろうと解きはじめる。手応えがあったら地上の人は糸を引っぱりかえし、札を取られまいとする。
 札が取られたら負け。札を守ったら勝ち。
 単純な約束事だが、これがなかなか難しい。血の気の多い若い男衆は皆この遊びに夢中になり、新月の翌朝は必ず釣りに行く。また、底の人たちもこの遊びに夢中になるらしく、必ず引っかかってくれた。

 それでも底の人が地上まで上がってくるということは稀にしかない。ましてや全身を地面の上に横たえるなど、喜助が覚えている限りではあったためしがない。
「キスケさん。うちの若いもん、自分の一部がなくなって困ってるんじゃ。気が狂ったように暴れておる。おぬしは残念かもしれんが、命にも関わる一大事じゃて、拓を返してもらえんか」
「んだ。この人の言う通りだ。返してやってもいいべよ」
 輪の中から一人、男が言った。
「村長もそう思うべ?」
 同い年の権三だった。
「記念に拓を取ろうと言い出したのはお前だべや」
 悪びれた様子もない親友に喜助は思わず文句を言う。
「んじゃ、キスケは底の人が死んでもいいだか?」
「いんや、それは……」
 大物釣りのキスケと言われ、天狗のように鼻を高くしていた喜助だ。せっかくの証拠が無くなってしまうのが惜しく、口ごもる。
「お前はそんな薄情な奴だったか」
 権三に周りの男衆も同意し始めた。
「んだ。返してやれ」
「そんなもんで一人死んじまうのは後味悪いべ」
「おっかあ泣いちまうんじゃねぇか」
 周囲が一斉に騒ぎ立てる。底の人の代表であるじいさまは魚のような目で喜助を見つめている。
 また困った顔で村長を見ると、やっぱり困った顔でこちらを見ていた。
「わかったわかった。返してやればいいんだべ?」
 やれやれと溜息混じりに答えると、歓声があがった。
 喜助がいる水辺と、そして水の底から。

 翌日早朝。
 野良仕事へ行く準備をしていた喜助は、家の外から物音を聞いた。
 そっと木戸を開けてみる。
 そこには、木箱が置いてあった。ふたを持ち上げる。ふたの下から新鮮な魚が何匹も顔を覗かせた。
 ふと気付くと、木箱からまっすぐ一本の線が続いている。山へ行く道の上に、ぬらぬらと光る液体が線を描いて残っていた。

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