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※『90:イトーヨーカドー』を読んでからのほうがいいかもしれません。
■でんせん
「好きな言葉は?」
「一網打尽」
「変わったなぁ、お前」
そう言って笑うかつての友人に苦笑を返す。
「こんな仕事してたらこうなっちまうよ」
友人は笑うと目元に皺が寄る。その顔は以前と変わらない。こいつが見ている俺の顔は変わっただろうか。
十年ぶりの再会だった。
卒業以来、まったく連絡も取らず、会うこともなかった。けれど、名前を聞くまでもなくあいつだとわかった。しっかり大人の顔になっていたが、意志の強そうな眉毛と少年の頃の面影は残っていた。
映画が好きで引きこもり寸前の俺と、野球部主将で人望があった真波。あの年の春に同じクラスにならなければ、一生接点はなかったと思う。
「引きこもり、やめたんだな」
「誰に聞いたんだよ、その話」
「同窓会で噂に聞いた」
「……マジで誰だよ、言いふらしたの」
地面に横たわる真波の傍らに、防護衣の医務班の男が跪いている。その装備が化学テロ用であることは誰もが知っていた。男は俺に向かって首を横に振った。防護マスクで表情は見えないが、その意図するところは充分に伝わった。
男の背後には武装した静馬が無言で佇んでいた。
「お前がこんな立派な仕事をしてるって知ったらみんな驚くぞ」
真波の身体には青いブルーシートが被せてあった。その下がどうなっているかは想像もしたくなかった。こんな状況にあっても泣き喚かないのは、野球部でしごきを受けた経験があるからだろうか。真波は本当に強い男だと思う。
「皮肉だよ。自衛隊もロクに務められなかったのに、こんな世の中になって初めて人の役に立ってるんだ」
こんな仕事。こんな世の中。巻き込まれてしまった真波。彼が何をしたというのだろう。当たり前のように家族のために働いていただけじゃないか。
真波は泣いてもいい。叫んでもいい。彼にはその資格がある。もはや彼には未来はなく、絶望しかないはずだ。
その当の本人は笑っているのに、俺はこらえるのに精一杯だった。どうしても声が震える。見えないように隠した手は、爪が食い込むくらい握り込んでいた。
「映画好きだったよなぁ、お前」
真波はまっすぐに上空を見ている。崩れた天井から真っ青な空が覗いていた。
静かだ。
作戦が終わった後はいつもそうだ。奴らはピクリとも動かなくなり、隊員も撤退し、何もなくなる。そして静寂だけがそこに残る。
こんな風景を何度見てきたことだろう。
スクリーンの中では何百回も見た。そして現実でも何度となく見た。映画ではお馴染みの風景なのに、現実では一向に慣れなかった。慣れたくもなかった。
空を見ていた真波が俺に顔を向けた。高校の頃は坊主だった頭は、長めのスポーツ刈りになっていた。顔に増えた皺は苦労の跡か、笑い皺か。
横を向く。一涙が一筋、こめかみの血を洗い流して落ちる。
「三潮。お前は生きろ」
真波の掠れ声が胸に詰まる。
「おう」
口を歪ませて、辛うじてそれだけ答えた。
あの時、前に座っていた真波が話しかけてこなければ、俺の高校生活はつまらないものだっただろう。誰とも喋らない空気のような存在として終わっていたのだろう。
真波の存在にどれだけ救われていたのか、気付いたのは卒業式の時だった。
「真波」
「ん?」
「ありがとう」
絞り出すような声が聞こえていたかどうか。
また会いたいと思っていた。礼を言いたいと思い続けていた。けれど引きこもりの俺はかつてのクラスメイトの誰の連絡先も知らず、真波に礼を言う機会を逸していた。
それがこんな形で叶えられるとは、随分とひどい運命もあったもんだ。
幾多の理不尽を見た。かつて人であったものが人を襲い、失われてはいけないものが失われていく様を見た。どうして世界はこんな風に変わってしまったのか。無神論のはずなのに、俺は神を怨んだ。これは天罰なのかと、何に対する罰なのかと、問い詰めたくてたまらない。でも神はいない。俺と、俺以外の人々の怒りと慟哭を受け止めるべき存在はない。
やりようのない思いは任務にぶつけるしかなかった。不眠不休で、終わりの見えない戦いに挑んだ。その結果、多少は誰かを救えたかもしれない。作戦後に礼を言われることもあり、それだけが俺の慰みになっていた。
真波が咳き込んだ。肺に血が入ったのだろう。血の混じった吐瀉物を吐き出し、苦しげに細い呼吸を続けている。ブルーシートに覆われた胸が大きく上下する。顔は土気色を通り越して蒼白になっていた。
「最期はせめて人として……」
「わかっている」
彼の最後の願いは俺の願いでもあった。
かつて受けた恩をここで返そう。真波の人としての尊厳は俺が守る。
「……ありがとう」
それに何と応えたか、覚えていない。
静馬に頷きかけ、俺は背を向けてその場から立ち去った。一歩、また一歩と遠ざかる。撤退準備をしていた隊員達が取り巻いていたが、薄汚れたパーカーの袖で顔を拭う俺に、誰も声をかけてこなかった。
最期だというのに、友人の手も握れないことに胸が締め付けられる。
真波も見上げた空を仰ぐ。今日はとてもいい天気で、そしてとても静かだ。
ずっと背後で乾いた銃声が一発だけ聞こえた。