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■冬の雀
ふと吐いた息が白く曇った。ひっそりとした寒い朝。重く垂れる雲は雨を呼ぶか、それとも雪か。
季節は確実に冬に向かい、日々は灰色に沈んでいく。凛とした冷たい空気が無機色の街をより一層硬質に染める。
曇った息の向こうに笑顔が現れ、おはようと言った。走ってきたのか頬を真っ赤に染めた顔に、私もおはようと返す。
「忘れ物」
淡い緑のマフラーがふわりと私の首を包んだ。
「昨日教室に忘れていったでしょ」
毛糸のマフラーには模様もなければ名前の縫取りもない。彼が持っていることにも驚くけれど、どうして私のだとわかったのだろう。
「毎朝一緒に通ってたら覚えるよ」
それ、去年もお気に入りで使ってたでしょ。さらりと言ってのける彼の市松模様のマフラーも、去年から使っている物だ。私も覚えてるよと言いたいのをぐっとこらえる。
「ありがと」
それだけ言ってマフラーに顔を埋めた。冷えた頬に熱が戻る。
「寒くなったね」
「だね」
重い鞄を抱えて私たちは通学路を歩く。毎朝同じ時間に同じ道を通り、同じ教室に入る。放課後は部活があるから別々だったけれど、三年間、私たちは毎朝一緒だった。
「ねえ、一緒に学校行くのやめない?」
鞄の重みを確かめるように俯いて持ち手を握り直す。本当は、彼の顔を正視できないからだった。言おう言おうと思って今まで言えなかった。
「僕とは嫌?」
「ううん、そうじゃないんだけど、勘違いされるんじゃないかなって」
「今更何言ってんのさ。大丈夫。君の男らしさはみんな知ってる」
そういう問題じゃない。学校は恋に恋する思春期の乙女の固まりだ。自分がどんな風に思われているのか、考えてみたことがないらしい。私もつとめて気にしないようにしていたけれど、心ない陰口がまったく聞こえないわけではない。
毎朝一緒の通学が当たり前になりすぎていて、周りに気を使うことを忘れていた。私だって一応女の子。他の子の気持ちは嫌でもわかる。
「人は人。僕たちは僕たちさ。変なことで悩んでるなんてらしくないよ」
なのに彼が無邪気にそんなことを言えるのは、心がまだ幼いからなのか。もうそんなことも気にしないくらい大人になってしまったからなのか。
入学した頃は同じくらいの背丈だったのに、今では彼のほうが頭一つ分高い。顔はあまり変わってないけれど、声も低くなって随分男っぽくなったと思う。
私はどこか変わったのかな。
伺うように見上げた隣の顔が、何? と微笑みかけてきた。
「今日の数学のテスト、勉強してきた?」
「全然」
「あんたの『全然』は信用しないことにしてるんだよね」
苦手な数学を思うと心が重い。けれど、このテストの先にはもっと重いものが待っている。二年の後半から伸び悩んでいる数学が足を引っ張らなければいいけれど。
考えたくはない。だけど考えなければならない。中学に入った時はまだまだ先だと思っていたのに、時間なんて早いものだ。
「もう少しで受験か」
灰色の雲に包まれた空を見上げて彼が呟く。その視線の先に、幾分ふっくらとした雀がいた。この季節、つがいの雀は珍しい。近すぎず、遠すぎない。そんな距離を置いて電線の上に二羽、並んでいる。
私は女子校に、彼は男子校に進学を希望している。お互い下手をしなければ春には別々になってしまう。
彼も袖が短くなった学ランともあと半年もしないでお別れだ。
「ねえ、受験終わったらどっか遊びに行かない?」
一生離れ離れになるわけではない。同じ町に住んでいるんだから会おうと思えばいつでも会える。なのにそんな言葉が口をついて出た。
「卒業旅行ってやつ?」
「そんな大それたものじゃないよ。受験ご苦労様って感じで遊ぼ」
「それいいね。行こうよ」
追い越していく同級生と挨拶を交わし、並んで校門をくぐる。こうやって歩いていられるのもあと数ヶ月。私たちの人生はまだまだ長く、中学三年間なんてほんの一瞬にすぎないのだろう。本当に終わりがあるのかどうか、今ひとつピンと来ないけれど、きっとその時はくる。
そういえばそんな先のことを約束したことなかったな。気付いた口元が勝手に綻んだ。
「何にやついているのさ。気持ち悪い」
目ざとい男の憎まれ口には憎まれ口で返す。割って入った予鈴の音に、二人慌てて昇降口に駆け込んだ。スニーカーを脱ぐのに手間取ってる彼を置いて、私は全力で廊下を走る。ずるいと言う声が背にかかっても知らない振り。
今日も、一日が始まる。