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「水瀬君は何のために学校に来てるの?」
 ある日の放課後のことだ。終業のチャイムと共に起きた俺の傍らには学級委員長がいた。何の用、と聞く間もなく、吐いてきたのが前述の台詞。
「ねえ、どうしてよ。勉強しないなら家にいても同じじゃないの?」
 どうしてよ、と聞かれても。どう答えたものかとあくびを噛み殺す。
 数学も現国も世界史も化学も、授業は全て睡眠学習。朝は遅刻することもなく学校に来て机に突っ伏し、夕方になったら起きて帰る。毎日それの繰り返し。春に買った教科書はいまだ折り目がつくこともなく新品同様で、委員長はそんな俺を親不孝と罵る。生真面目が具現化したような彼女は、どうしても俺のような存在が許せないらしい。
 さて、どうしてと問われたら答えてやるのが筋というもの。素直に答えてやったら、委員長はこめかみを揉みながら教室から出て行った。
「あれじゃしばらく風当たり厳しいよ」
 傍らで見ていた幼馴染の和田が愉快そうに笑った。教室に吹き込む秋風に、ポニーテールに結い上げた髪が揺れる。
「他人事じゃないぞ。お前にだって原因はあるんだからな」
 国語の成績は壊滅的でもちゃんと連帯責任という言葉を知っていた彼女もまた、こめかみを揉むような仕草をして教室から出ていった。俺は鞄を引っつかんで後を追う。どうせ行き先は同じだ。
 追いついて、その背中を軽く叩く。
「ん? 行くの?」
「たりめーだ」
 和田は満足げに微笑むと、感心感心、などと言って俺の頭を撫でてきた。背伸びをしないで手が届くか届かないかくらいの身長差。小学生の頃は同じくらいの背丈だったのに、随分と差がついてしまった。
 北校舎の片隅にある教室、そこが俺たちの活動場所だ。建付けの悪い引き戸を開けると、油の匂いが鼻についた。
「おう、水瀬。勝手に借りてるぞ」
 迎えてくれたのは間島先生だった。俺のイーゼルの前に立ち、五十号のキャンバスに立ち向かっている。“俺の”と言ったけれど、先生が使っているイーゼルは厳密には俺の物ではない。ここの共有物なのだが、俺が使っていることが多いから"俺の”と呼ばれているだけだ。
 先生は製作中はエプロンに腕カバーという姿だ。教壇の先生を知っているとその格好は異様に見えるだろうが、付き合いが長くなればなるほど、こちらの姿のほうに慣れてくる。そしてむしろこっちの先生のほうが自然なのだとわかってくる。
 間島先生は慣れた様子でこの美術室にいるが、実は美術教師ではない。そしてこの美術部の顧問でもない。本業は物理教師。放課後にこうして絵を描いているのは完全な趣味だった。
 先生はペインティングナイフでキャンバスに色を重ねていた。目にも鮮やかな朱色。絵の下地と言えど、その色は毒々しい。
「その色、やめたほうがいいんじゃないですか?」
「そうか? 悪くないとは思うんだが」
 お世辞にも先生の絵はうまいとは言えなかった。そして色のセンスも。仕上がった作品を見れば誰もが絶句する。芸術的という言葉はとても便利で、まさにこの先生のためにできた言葉だろう。芸術には意外性や衝撃も必要だ。
 和田は自分のイーゼルを出してきた。俺は部室から石膏のカエサル像とクロッキー帳を出す。眉間に皺を刻んだカエサルはいつも何に悩んでいるのだろうと思うが、世界史も投げ出している俺には知る由もない。
 クロッキー帳と見比べながら、昨日と同じ場所、同じ角度で石膏像を置く。昨日の部活で大半は描けたが、どうにも納得できず、今日も同じ物に取り組むことにした。
 俺が律儀に学校に来ている理由はここにあった。
 美術部に所属していた和田が俺を勧誘して半年。最初こそ軽い気持ちでやっていたが、徐々にその面白さに取りつかれていった。予想以上に絵にのめりこんでしまった俺は、今は毎日作品制作のためだけに学校に通っている。真っ白なキャンバスに向き合うのは、そのまま自分の心に向き合っているのと同じだ。感情を筆に載せ、思いを描いていく。それがたまらなく楽しかった。
「康介。緩んでるよ」
 和田が俺の左手を取った。手首から手の甲までを覆っている包帯が緩み、たわんでいた。
「巻き直してあげるよ」
「あ、わりぃな」
 和田は結び目をほどき、器用に包帯を巻き取っていく。
「どうしたんだ? 捻挫か?」
 俺のアドバイスも聞かず、赤い絵の具を伸ばし続けている先生が聞いてきた。くすんだ赤は目には優しいけれど、どうにも不安を掻きたてられる。
「いや、大したことじゃないんです。痛いわけでもないし」
 怪我したわけではないので、と答えていた俺は、和田の動きが止まっていたことに気付かなかった。
 ふと、首筋にとげが刺さるような感覚を覚えた。実際に刺さったのではない。強烈な誰かの視線だ。俺は頭で考えるよりも先に、身体を倒していた。
 前に傾いだ後頭部のすぐ上、つまり今まで俺の頭があったところを、ブン、と風が切った。
「水瀬!」
 叫んだのは先生だ。
 身体を床に投げ出し、前転の要領で体勢を立て直す。反射的にそこまでやってから、どうして身体が勝手にそんなことをしたのかわからないでいた。
 理解したのは顔を上げてからだ。
 そこにいたのは幼馴染ではなかった。
 いや、姿はたしかに和田だった。地味で評判の悪い制服に身を包み、前髪を赤いピンで留めている。幼い頃から知っているし、毎日顔を突き合わせている少女だ。
 しかし、こいつはこんなに冷酷な顔をするような奴だったか。
 口元に笑みを張りつかせてはいるが、細めた目は笑っていない。笑うと垂れる眉尻はピクリとも動かない。
「あら、惜しかったわね」
 和田の声でそいつが言った。
 目を疑う。
 手には死神が持っているかのような大鎌。光沢のない黒い柄を握るのは和田の華奢な手だ。けれど刃は人間の胴なら易々とぶった切ることができそうなくらいでかい。鏡のように磨き上げられた半月状の刃に、顔色の悪い俺の顔が映っていた。
 和田があれを俺の頭の上で振り抜いた。一歩間違っていたら首が飛んでいた。そのことに気付いたら血の気が引いた。
「おとなしく狩られておけば苦しまなくて済んだのに」
 知らない。俺はこんな和田は知らない。
「ど、どうしてこんな……」
「どうして? 簡単じゃない」和田が俺の手の甲を指した。「あなたが獣だからよ」
 俺の左手、崩れた包帯の中に青痣が覗く。この青痣、今朝まではただのみみず腫れだった。朝起きたら手の甲全体が引っかかれたように赤く腫れていた。こんな怪我をした覚えはなく、不可解だったが、そこにあるのは事実だった。全く痛くはなかったが、どうにも見栄えが悪かったので、ひとまずの処置として包帯で隠して登校しただけだ。
 そのただのひっかき傷はいつの間にか青痣となり、どす黒く濁った内出血が明確に三つの数字を示していた。
 “6”の数字が三つ、並んでいる。
「それは獲物の証。狩猟者たる私たちの、ね」
 和田の瞳が金色に変色していた。油絵具で表現することが難しいような、鮮烈で威圧感のある金だ。爛々と光る瞳孔は猫のように細まり、俺の姿を映す。
 制服の背中が盛り上がる。彼女の背の中で窮屈そうにしている何かがもぞもぞと動き、時を待つことなく、内側から服を破った。
 俺は悲鳴すら忘れていた。
「だから」彼女は大鎌を振りかざす。背には、両手を広げたよりも大きい真っ白な翼。「狩られちゃいなさい」
 死を直感する。逃げられないと悟ったのか、身体が動かない。細かく震える歯の根が合わない。腰が抜けてしまった。まるで蛇に睨まれた蛙だ。図体は和田よりもでかいのに、男の癖に土壇場でこれとは情けないのに、恐怖に竦み上がった本能が身体を縛り付けている。
 ああ、と和田をふり仰ぐ。冷やかな瞳が俺を見下ろしている。なんて悪い冗談だ。死神なんだか天使なんだかよくわからないものになってしまった幼馴染に殺される。
 目を閉じた。
 和田が誰かを殺す姿なんて見たくなかった。その誰かが自分であろうとも、彼女が凶器を振り抜く様を最後まで見届ける勇気はなかった。
 最期の最期まで、和田には俺の幼馴染でいてほしかった。おっちょこちょいだけど、優しい幼馴染。俺に絵を教えてくれた幼馴染。
「水瀬!」
 再び先生の声が聞こえた。それとともに走り寄ろうとする足音もする。目を開けるつもりはなかった。恐怖に縮みあがった声帯は乾ききって声が出ない。駄目だよ先生、と意識の片隅が諦めを吐き出した。
 空を切る鎌の音がとてもとても長く聞こえた。最期に聞く音がこんな無粋な音だなんて、神様も随分とひどい運命を定めたものだ。
 しかし。
 その音が最期ではなかった。
 長い長い一瞬の終わりに聞こえてきたのは、鋼と鋼がぶつかる音だった。
「獣ごときが……!」
 そして苦渋に満ちた醜い和田の声。それもまた俺が知らない彼女の醜悪な声だった。身体に痛みがないことに気付き、何事かとそろそろと片目を開ける。
 俺の前には紺色の背中があった。腰の辺りで緩くエプロンの紐を結ぶのがこの人の癖であることを知っている。目の前にいたはずの和田の姿を隠している。その背中が振り返らずに言った。
「水瀬、逃げろ!」
 間島先生だった。先生が細長い物で鎌と競り合っている。かなりの力で押されているのか、踏ん張る膝が震えていた。
「水瀬、早く!」
 呆然としていた俺を叱咤する。声に急かされ、慌てて立ち上がった。戸口で一度振り向き、
「先生は!?」
「行け! 俺もすぐに行く!」
 和田はその翼で飛んでいた。弾かれたように飛び上がって距離を置くと、天井近くから次々と鎌を振り下ろし、先生の首を狙う。半月の刃で薙ぎ、突き、叩く。だが、先生は変幻自在の攻撃にも動じない。唸る半月の刃を、手にした槍の穂先でそらし、なおかつ牽制する余裕すらある。
 そう、先生の手には槍があった。見たことのないような複雑な意匠が施された赤い槍。形状は薙刀に近いけれど、刃はもっと小さくてもっと真っ直ぐだ。柄も穂先も全て一色に染まっている。それは先生がさっきまで塗りたくっていた絵具と同じ色だった。
 繰り出される突きは神速かと思えるほどに早かった。打ち合わされる音が音楽のようにも聞こえる。鋼と鋼の輪舞。実に透明度の高い音に一瞬状況を忘れ、耳を奪われる。
「水瀬!」
 幾度目かになる叱咤に我を取り戻し、俺は美術室から逃げ出した。
 そして長い長い放課後が幕を開けた。

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