72/100
■喫水線
幼い頃は自分の周囲が全てだった。自分が知っているものは全ての人が知っていて、自分が知らないことは全ての人も知らないと思っていた。
世界は身の回りだけで完結していて、それより外に世界が存在しているなんで想像もしていなかった。これぞまさに井の中の蛙。大海を知らず、無知ゆえに己が無知を恥じることも知らない。
けれどそれはそれである意味幸せだったのかもしれない。
この世界は自分が想像しているよりも広く深い。私達が見ている世界も広大だけれど、見えないところにはもっと深い世界が広がっている。そしてそこには知らないほうが幸せであることも潜んでいる。
無知であることを恥じる必要はない。知らない方が良いならば、知らないままでいればいい。
水面下に潜む真実は全ての人に等しく知らされるものではないのだから。人も世界も平等ではないのだから。
「ここならしばらくは大丈夫」
そう言った伊佐美の顔はこれまで見たことがないくらい真剣で、そして悲しげだった。ほのかに潤んだ瞳が私を見つめている。煤で黒くなった頬を手の甲で拭うが、汚れが伸びただけで拭き取れていない。
「紗智を巻き込むつもりなんてなかった。ごめん」
私は震える手でハンカチを取り出し、彼女の顔を拭った。転校初日から全校の話題をさらった美少女。それが今や顔は煤だらけで髪には灰や埃を被っている。せっかくの綺麗な顔が汚れているのはもったいないと優しく拭いた。
薄い水色のハンカチを握る私の手の上に、伊佐美の手が重なる。添えるその手もまた、震えていた。
「私がここを出たら、あそこの裏口から逃げて」
今二人で隠れているこの体育倉庫には二つの扉があった。片方は体育館の中へ、もう片方は外に通じている。伊佐美が言っているのは外へ通じている方、私の背後の出口のことだ。
「あいつらの目的は私だから紗智までは追わないと思う。だからここから逃げて。そして家に帰って、今日の事は忘れて」
お願いとうつむいて、ハンカチを持つ私の手を両手で握る。細い手のどこにそんな力があるのだろうと思うような強い力で、震えながらも握り締める。うつむく頭の下には黒い金属の塊が転がっていた。本物の拳銃だ。今は上の部分が開いた状態となっている。
「あなたが傷付いたら、私――」
その声も震えているように聞こえたのは気のせいだろうか。銃の上に水滴が落ちたように見えるのは気のせいだろうか。
「伊佐美」
その髪に触れようと、空いている方の手を伸ばす。毛先が少し縮れている。飛んできた火花に焼かれてしまったのか。
「もう、ここにはいられないや」
唐突に顔を上げた伊佐美はいつもの笑顔だった。
「こうなることは遅かれ早かれわかっていたんだよね。やっぱり友達なんて作らなきゃよかった」
必要以上に明るい声は鼻声で、無理していることが明らかだった。
思うより早く手が出た。一瞬の風を切る音と殴打の鋭い音、この手の鈍い痛み。気付けばそこには茫然と左頬を抑える伊佐美の姿があった。
「出会わなきゃ良かったなんてあるわけないじゃない!」
馬鹿、という言葉は掠れて出てこなかった。罵りたくて仕方ないのに、それ以上言葉が続かなかった。
私にはずっと友達らしい友達がいなかった。いじめられていたなんてことはないし、誰とも話せないなんてこともなかった。けれど入学時のスタートで失敗した私は、既に形成された仲良しグループにも入れず、どうにも馴染めない学校生活を送っていた。
登校も下校も一人。お昼のお弁当は屋上で一人で食べた。元々集団で行動するのは苦手だったけれど、それでも時折寂しさを感じなかったわけではない。
そんな灰色の高校生活に現れたのがこの竹井伊佐美だった。
「伊佐美がいなかったらつまらない高校生活だったと思う。伊佐美がいなかったらみんなのいいところ知らなかったと思う。伊佐美がいたから、友達っていいなって思えた」
堰を切った想いが言葉となって溢れ出す。こんなに話したことないんじゃないかと思うくらい、私の気持ちは止まらなかった。半年という期間は短いけれど、でも伊佐美は言葉では言い尽くせないほど沢山の物を私に与えてくれた。温かな気持ちを教えてくれた。
「伊佐美にたくさん助けてもらった。大切な物たくさん教えてもらった。だから、その分私も伊佐美の役に立ちたい。伊佐美を助けたい」
気が付けば伊佐美の顔も見えないほど視界が滲み、しゃくり上げていた。
「お願い。私は伊佐美が好き。伊佐美が大切。だから教えて。本当のあなたを教えて」
私が知っている伊佐美は本当の伊佐美じゃないのかもしれない。薄々そんな気はしていた。時折遠くを見る目は無表情で、私には想像つかない世界を見ているのだと思っていた。
いつか遠くに行ってしまう。私を置いて知らないところに行ってしまう。そんな予感もあった。
彼女の抱える闇はどれだけ大きい物なのだろう。知りたいと思ったけれど、どうしても聞けなかった。聞いたらもう友達でいられなくなるかもしれない。そのことだけが怖かった。
「ごめん。本当に、ごめん。これは私の問題だから、誰も巻き込みたくなかった」
涙を拭い、伊佐美は正面から私の顔を見据える。
「紗智、ごめん。巻き込まれた紗智には知る権利はあると思う。でも全部は話せないの。全部話したら紗智まで狙われることになる。ううん、もう手遅れかもしれないけれど、でも、全部は教えられない。それでもいい?」
「いいよ。意地悪で内緒にしているわけじゃないなら」
伊佐美は簡潔に教えてくれた。自分たちはとある組織に追われているのだと。双子の勇も親代わりの樫屋先生も一緒。三人で日本を転々とする逃亡生活がずっと続いているのだと。大抵は三ヶ月程度で見つかってしまうのだけれど、今回は珍しく半年もいられたこと。そろそろまた場所を変えるつもりだったこと。
どんな組織かということだけは教えてくれなかった。だけど、たった三人のために軍隊が襲撃してくるんだから、尋常な組織ではないであろうことはわかる。
陰謀とか謀略なんて言葉が頭の中を巡る。平凡な女子高生にすぎない私には途方もない話で、まるでフィクションみたいだと思った。
「じゃあ、もしかして」
「うん。こんなことがなくてももう少しでお別れのつもりだったんだ。ちょうど高志の任期も切れるし、都合で転校ってことになってた」
親代わりの樫屋先生を、伊佐美は名前で呼んでいる。その樫屋先生は入院中の化学教師の代わりで、着任の時から半年で去ることは告げられていた。
「最後まで平和で、何事もなくお別れしたかったな。終わり良ければ全て良し。立つ鳥跡を濁さずってしたかった」
微笑む彼女の目尻には涙が浮かぶ。伊佐美は言う。望んでいたのはこんな荒々しい結末ではなかった。ごく平凡で、誰の記憶にも残らないような別れだったと。
しかし現実は非情だった。伊佐美の言う組織とやらは彼女たちの尻尾を掴み、学校を襲撃するという最悪の方法を取った。そしてその運命の日は今日だった。
急に恐ろしくなってきた。この体育倉庫の中は静かだけれど、外ではどれだけの被害が出ているのだろう。屋上でホバリングするヘリと、そこから縄伝いに降りてくる無数の兵士の姿が忘れられない。倉庫に逃げ込む前には爆発音や銃声も聞こえてきた。学校は一瞬で暴力の渦に巻き込まれた。残っていた先生や生徒はみんな無事に逃げられたのだろうか。
「私達が捕まるか、あいつらを壊滅寸前まで追い込むかしないと終わらないと思う」
「逃げようよ。伊佐美だけじゃ勝てないよ」
すがる私に伊佐美は頭を横に振る。
「それでは駄目。徹底的に潰して戦力を削がないとまたすぐに追って来る。これまでもそうしてきたの。私達の平穏のために」
そっと私の身体を離し、伊佐美は積み重なるマットの下に手を入れた。探るように床に腹ばいになり、何かを見つけて腕を引く。その手には銀色の箱の柄が握られていた。ジュラルミン製というやつだと思う。実に重そうなケースだった。
銀に光る蓋を開けた。その中には細長い部品が収まっている。それが何の部品なのか見当も付かず見ていると、伊佐美が慣れた手付きで手早く組み立てる。そしてあっという間に映画でよく見るライフルの形になった。
こんな物、いつの間に用意していたのだろう。この事態を想定していたのかと思うと、親友に空恐ろしい物を感じた。
「大丈夫だよ。私には勇も高志もいるから」
そしてこれも、と言いたげに組み立てたライフルの銃身を撫でる。小柄な伊佐美が抱えるには少々大きすぎてバランスが悪い。ましてやセーラー服にライフルという組み合わせはどこか異質で、現実味がなかった。悪い夢でも見ているようだ。
たしかに拳銃を持ち歩いている女子高生なんて普通ではない。ましてやそれを使いこなし、訓練されているであろう兵士を撃ち抜けるのだから、常軌を逸していると言っても過言ではない。
それでも私は伊佐美を信じようと思った。半年の間ずっと隣で見てきた笑顔を、私が信じなければ誰が信じるのだろう。
「また、会えるよね」
「約束する」
引き寄せられる。私を抱き締める伊佐美の手はもう震えていなかった。
「私、行くよ。行って、必ず勝って戻ってくる。そしたらちゃんとお別れの言葉、言うから」
伊佐美の腕はとても華奢で、どうしてライフルなんて重い物を抱えられるのか不思議だった。構えたら簡単に折れてしまいそうだ。だけどその腕が私を抱きすくめ、必ず帰ってくると約束している。私もまた、彼女の背に腕を回す。
「待ってるから」
離れがたい気持ちに鞭を打ち、私は体を離す。指を絡ませて握り、それを最後とした。
伊佐美は手にした拳銃の柄から弾倉を抜き出し、新しい物と入れ替える。小さな手で上部を引いてスライドさせる。ああ、こんなシーンも映画で見たことあるなと思った。
右手に拳銃を握り、左脇にライフルを抱える。
そして伊佐美は扉を開けた。暴力的なまでの銃声と爆発音、誰かの怒号、上空にいるのであろうヘリのローター音。そして業火が爆ぜる音。まるで戦場のようだった。私は本物の戦場を知らないけれど、戦場だと思った。
燃え上がる炎に向かい、伊佐美の長い髪がシルエットになって翻った。あまりにも様になりすぎていて、一枚の芸術写真のようだった。跪く私の前に現れた、炎と戦いの女神。
そして彼女は微かな声でこう呟いたのだ。
「大好きだよ、紗智」
再び扉が閉められ、倉庫内に静寂が戻った。が、間を置かずに鋼鉄製の扉に何かがぶつかってきた。貫通こそしないものの、硬く尖った物が幾つか扉を穿つ。ここはもはや学校ではなく戦場で、この場所の安全は保障されない。
その音に弾かれるように立ち上がり、歯を食いしばって裏口の扉を開けにかかった。溢れる涙もそのままに。
願わくばあの美しい友人と再び会えますように。
そしてこれまで信じたことがないものに初めて祈った。
神様、あの子を守ってください。