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■煙

 三角屋根から細長い筒が生えていて、そこから一筋の煙が立ち上る。
 それをぼんやりと見上げながらマイルドセブンに火をつけた。煙突の煙よりも薄くて細い煙がゆらりと揺れる。
 桜の木の下のベンチには落ち葉が積もっていた。枯れ葉を除け、一人、腰掛ける。丸めた背中に憂いを載せて。
 秋の空は高く、青い。煙はどこまでも真っ直ぐに上っていく。不思議なことに感慨のようなものは湧いてこなかった。あまりにも突然のことに神経が麻痺してるんだなと思ったところで、煙草の灰が地面に落ちた。
「おひとりですか」
 黒い背広の男だった。胸元にはこの火葬場の札をつけている。棺を炉に入れてくれた男だ。顔に似合わぬ若い声が、この施設の湿っぽい雰囲気に似合わないと思っていた。
「ええ、ひとりです」
 特に話すこともないけれど、ベンチの隣を空けてやった。火葬場の男は礼を言って座ると、ラークに火を点けた。
 客がひとり。職員がひとり。並んで座り、紫煙をくゆらせながら空を見る。
「不躾ながらお聞きしますが、ご家族ですか」
 尋ねてくるのも無理もない。葬式はもっと多くの者に見送られるものだ。現に今いる別の組など、実に総勢50人に上る豪勢な見送りだ。
「いや、赤の他人ですよ」
 なのにお前は俺ひとりなのな。
 不公平なのが世の中だ。どこの金持ちか知らないが、葬式も豪勢なら墓まで豪勢なのだろう。こっちが見送る者には墓すらないというのに。死んだ後まで不公平だ。
 啜り泣く人々が列をつくり、骨を拾う順番を待っている。列の中ほど、母親に手を引かれた子供だけが無表情に客と職員の二人組を見ていた。
 生前は名前も知らなかった。死んでから、手続きを取る段になって初めて本名を知った。聞いていた名と、戸籍上の本名は見事に食い違っていた。
 偽名を使っていた理由を聞こうにも、本人はもう物言わぬ身体と成り果てている。真相は闇の中。
「どうなんでしょうね」
 呟くように問うと、火葬場の男は、
「何がです?」
 煙突に向かって煙を吐きながら聞き返してきた。
「独りで逝くということです。誰にも看取られずひっそりと息を引き取り、誰にも見送られることなく彼岸へ行く」
 暗く冷たい三途の川を想像した。あの川を渡る時は誰もが一人であるはずだが、背に負うものがないというのも寂しすぎる。
「私は死んだことがないからわかりません」
 けど、と火葬場の男は続ける。
「貴方は旅立ちを見送っている。故人は独りではありませんよ」
「そうでした」
 素直に認める。あのまま誰からも世間からも忘れ去られ朽ち果てるだけだった。畳に横臥する姿はまるで眠っているようで、朝になれば起き出すのではないかと思ったくらいだ。
「俺がここにいるのは、運に見放された彼の最後の幸運かもしれません」
 曖昧な微笑みに返ってきたのは曖昧な微笑みだった。
「彼らは」と、煙草を持ったままの手で、壷に骨を詰める集団を指した。「知ってるんですか」
 火葬場の男は曖昧な笑みのまま、瞳から表情を消した。フィルタまで尽きた吸い殻を地面に捨て、爪先でにじる。
「何をですか」
「ここが羽根持ちも受け入れていることを」
 燃え尽きた煙草が最後の煙を薄くあげる。
「知ってて来るような人達に見えますか」
 ああ、と頷いた。
 人を人でない物に変える奇病だ。何より体面を大事にする社会的地位のある人間達から見れば、それは忌まわしいだけだ。
「貴方はどうですか。人間だった頃、知ってたら来ましたか」
 火葬場の男がこちらを見ている。口を奇妙な形に歪ませた、嘲笑とも憐憫ともとれるような顔で。
 窮し、頭を抱える他になかった。答えなんて最初から一つしかないのだ。
「お互い、羽根持ちは大変ですね」
 頭上から降ってくる声。
 丸めた背中の、肩甲骨のあたりがみしりと軋む。成長するそれは背広の内側で自由を求め、もがいている。それが窮屈で仕方ない。
 畳の上の彼を見つけた時に見た、散らばるそれの白が目に焼き付いている。背中から生えた奇形も。
 雪よりも白く、自らの汚れを覆い尽くさんとする、羽根。
 いずれ皆、天使の姿で焼かれるのだ。
 炉の中の彼だけでなく、自分も、火葬場の男も。

 天使が綺麗だなんて誰が言った?

「そろそろですよ」
 懐中時計に目を落として男が言った。ひとつ頷いて立ち上がる。先客は一人分をが五十人掛かりで拾った。同じだけの量を自分一人で拾わねばならぬのだ。
 気の遠くなるような作業を思うと憂鬱が声をひそめてやってくる。痛む背を伸ばし、自分を鼓舞して男の後を追った。

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