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■合法ドラッグ

 ありったけのブースターを投入し、身の丈もある巨大な剣を振り抜いた。カスタムを重ねた自慢の愛剣、バルムンクの一閃は光よりも速く、大地よりも重い。轟雷のような断末魔の叫びとともに、漆黒の巨体が崩れ落ちた。
 間もなく倒れ伏した竜の姿が音もなく消え、宝箱と大量の金貨が現れた。緊張が切れて急に力が抜けた。膝を付き、仲間たちの歓声を聞く。
 ――オレはこの現実で生きている。

「ここがリビング。今はノルしかいないけど、夜になればみんな一度はここに顔を出すんだ」
 木の扉を開けると、ふわりと暖かい空気がオレ達を出迎えた。暖炉前の揺り椅子には小柄なノルが座っている。目を上げて会釈すると、また本の世界に戻っていった。ホビット族のノルは最近はずっとこうして家で過ごしている。本人によると、次のイベントまで外に出る理由がないからだと言う。
 ノルは人見知りなので、知らない人間がいると無口になってしまう。オレの後ろに立つ男に目をやったものの、すぐに逸らした。
「へえ、結構広いんだな。明るいし、いい部屋だ」
 オレの後ろにいた男は背後から覗き込み、きょろきょろと室内を見回す。暖炉に毛足の長いラグ、大きめのソファには触り心地のいいクッションをいくつも置いている。ゆったりとしたリビングはちょっとした自慢だった。くつろげる空間を作るのもギルドマスターの仕事だ。かなり試行錯誤したので褒められると素直に嬉しい。
「そんなに人数がいるギルドじゃないからさ、会議もここで済ますんだ。定例会議の時は必ず顔を出してくれよ」
 男は「おう」と軽い返事をしてリビング内を歩き回る。きちんと出席するのだろうかと不安を覚える。
 男の名はカグラ。種族はヒューマンで、クラスは上級職のブラックスミス。白い髪は毛先だけを紫色に染めており、右目には眼帯、耳にはピアスをたくさん着けている。
 カグラは先日抜けた仲間の代わりとして、酒場でスカウトしてきた。軽薄そうな見た目と軽い返事に少々不安になったが、時間をかけて話したので大丈夫だろうと腹を括った。
「ノル、今度入るカグラだ。仲良くやってくれよ」
「おう、よろしくな!」
「……どうも」
 少しだけ顔を上げ、それだけ言ってノルはまた本に戻る。素っ気ない態度だが、カグラは気にした様子もない。
 リビングを横切って奥の扉を開ける。カグラもオレの後を付いてくる。階段を上がると、細長い廊下の両脇に扉が並んでいた。一番手間の扉を開ける。そこは調度品も何もない、がらんとした部屋だった。カーペットすら敷いておらず、ベッドもない。
「ここが空き部屋。ここを使ってくれ。家具は自分で揃えてくれよ。手持ちがないなら当面ギルド内で余ってる分を貸してやってもいい」
「あんたの部屋は?」
「隣の隣。いつもはクエストか酒場に行ってるから滅多に使っていない。ただの物置になってるよ」
 クエストとは冒険者協会で請け負える様々な仕事のこと。
 そして酒場はその冒険者協会が運営している店のことだ。あらゆる人間のたまり場であると同時に出会いの場となっている。酒場に登録しておくと時折お呼びがかかり、臨時パーティーを組むことができる。ギルドメンバーが誰もおらず、一人で活動せざるを得ない時などは、酒場に行くことを常としていた。
 どんな出会いも一期一会。臨時パーティーを組み、相手が面白ければ友達になればいいし、気に食わなければそれ一回で終わりにすればいい。この街に来てからはそんな毎日を過ごしている。そうやって得た友人は結構な人数になるし、知り合いも増えた。特に仲のいい奴とはギルドを組み、こんな家を持つまでになった。
「いつもいないってポルクスって奴が言ってたんだが、寝てるのか?」
「寝てるよ。人間は眠らないとダメだろう。何を言ってるんだ、君は」
 変なことを言う男だ。オレが寝ている間にポルクスが家にいた試しはない。たまたま見たことないだけで、常に起きてると決めつけられるのは心外だ。
 腕時計に目を落とす。針は午後四時を指している。部屋には夕日が差し込み、夜の訪れを予感させる。
「今はまだ早いが、五時間後にはみんなリビングに集まってくるはずだ。その時に全員に紹介するから、必ずいてくれ」
「あいよ、ギルマス様」
 カグラは意地悪そうに口を歪めてギルドマスター、つまりオレを呼んだ。本当に、顔だけだとチンピラのような男だ。
「その呼び方やめろと言っただろ。シグマでいいって」
「へいへい、シグマ様」
「だから様付けもしなくていいってば」
 顔をしかめて怒鳴ると、カグラはいたずらっ子のように廊下に逃げていった。

 カグラが加入して数日後が経った。みんなとの顔合わせも無事に終わり、何人かと組んでクエストに出るようになった。
 カグラは顔も性格も良いとは言えないが、意外なことに協調性はあるようで、誰と組ませてもそつなくこなす。腕っぷしもいいし、頭も悪くない。ブラックスミスの本来の仕事は鍛冶だが、カグラほどのレベルとなると前衛に立って槌を振るっているほうが頼もしい。
 オレの目は確かだったと満足していたある日、ポルクスがそっと話しかけてきたことがあった。
「なあ、あのカグラって奴、信用できるのか?」
 ポルクスはパーティーの要となるプリーストで、このギルドのサブリーダーでもある。見た目は少年のようだが、実際の年齢はもっと上らしい。石橋を叩いて渡らないような慎重な性格で、その落着きはまさにプリーストという職業に相応しい。オレたちの相談役になってくれる良きアドバイザーであり、カグラを仲間にする際にも立ち会っていた。
 そのポルクスが懸念を示すのは余程のことだろうと耳を傾ける。
「何かあったのか?」
「いや、大した話じゃないんだけど、あれだけ高レベルのブラスミなら噂にならないわけないだろ。でも誰もあいつのこと知らないんだ。いつからこの街にいて、いつから冒険者やってるのか、誰も知らない。うちに入る以前のクエスト実績も、酒場の登録履歴も、市場での売買履歴もまったくない。おかしくないか?」
「はは。まるで流星のような男だな」
 突如現れたスーパーヒーローといったところか。
 だが、ソロの冒険者なんて珍しくもない。稼ぐにはギルドやパーティーを組むほうが効率いいのはたしかだが、わずらわしい人間関係を嫌う者も少なくない。街から出ると、ただひたすら己を磨くことに専念する修行僧のような奴らを見かけることもある。
「笑いごとじゃないよ。そんなうさんくさいのが僕たちの懐にいるってことなんだから」
「はいはい。そんなに疑うんなら、しばらくカグラを見ててくれよ。何かあったらお前の権限で叩き出していいから」
 頬を膨らませるポルクスの頭を、笑いながら撫でる。
 正直言うと、カグラの素性はよくわからない。どこからやってきて何を目的としているのか。商売をするにあたり、何故この街を選んだのか。しかも彼はブラックスミスだ。上級職が認められるようになったのはつい数日前のこと。そのわずか数日間であれだけのレベルになっているのは驚くべきことだ。
 そんな奴が仲間になってくれるのは大歓迎だが、権威のある有名ギルドではなく、オレたちのようなマイナーギルドを選んでくれたことが不思議でならない。
 しかし素性ならば、オレだって話そうとしないし聞こうともしないのでお互い様だ。それはギルドメンバーの誰に対しても同じだった。詮索しようと思ったことなど一度もない。利害が一致し、それぞれ定められた役割を果たすのならば、それだけで信用に足る。深い事情に立ち入って、変に問題をこじらせるよりは、薄っぺらい関係でも仲良く仕事を進めるほうが遥かにいい。
 今、目の前にいるポルクスの事も実はよく知らない。生真面目で保守的な性格で、もう一人のプリースト、カストルとは双子の兄弟。それだけだ。出身地だとか家族構成だとか、そんなものは毛頭興味がなかった。
 だからカグラの事情も素性も全く知らない。ギルドに入ったのはソロに飽きたからだろう。その時はその程度に思っていた。

 カストルの懸念はただの杞憂だった。そう思えるくらいギルド活動は順風満帆だった。
 ブラックスミスであるカグラがカスタマイズしてくれたおかげで、オレたちの装備も大幅に強化され、一流ギルドにも負けないほどの戦力となった。多少難易度が高いとされるクエストでも難なくこなし、順調に資産も増えていった。
 これなら魔王も倒せるんじゃないか。そんな軽口を叩くようになった頃、ついに冒険者協会が大型の案件を出してきた。
 大型案件はイベントと呼ばれ、不定期に告知される。労力はクエストの比ではないが、その分リターンも大きい。内容によっては、トップを切れば一財産築くことも可能だ。危険が伴うものの、魅力的であり、刺激的であり、まさにお祭りとも言える。今回は前回から実に半年の間が開いており、全冒険者が待ち望んでいたものだった。
 今回のイベントは竜退治。それも大型の邪竜でとんでもなく強い奴らしい。
 恐ろしいと思うよりも先に胸が高鳴った。それだけ強いのならば今のオレたちの全力を試すことができる。倒し甲斐もあるし、何よりお宝をたくさん持っているだろう。冒険者協会の告知によれば、かなりのレアアイテムを所持している可能性があるとのことだ。
 俄然やる気が出た。
 ギルドメンバーに参加の意思を確認したところ、皆同じ意見だった。メンバー全員が出る久しぶりの総力戦でもあることから、かつてないほどに士気が上がった。

 そしてオレたちは犠牲を払いながらも邪竜を撃破し、冒頭に戻る。

 宝箱の中には見たこともないアイテムがぎっしりと詰まっていた。宝石や金貨といった純粋なお宝もある。それに、高レベルのブースターや魔水晶も。邪竜を倒すためにつぎ込んだ経費分を引いても倍以上のおつりがくる。これ全部売ればいくらになるだろう。まばゆく光るお宝たちを前に、考えただけでくらくらしてきた。
「じゃあ、いつも通りこいつは僕が預かっておく。家についたらゆっくり分配しよう」
 ノルの意見にみんなが頷く。すぐに転送魔法を使えたら楽なのだが、あいにくとここでは使えない。ここは洞窟の最奥にある邪竜の間だ。この長い長い洞窟には転送魔法を無効化する結界が張ってあった。道の途中にあった魔法陣の上であれば転送魔法もあらゆる移動アイテムも使えるので、そこまで戻らなければならない。
 もちろん、冒険者協会に帰って報告するまでがイベントだ。それまでは任務完了と認められず、報酬も貰えない。邪竜を倒してはい終わり、なんて都合のいい話はないのだ。
 しかし竜退治で消耗した状態で、魔法陣まで戻るのはかなりしんどい。途中で魔物の集団に遭遇したらそれこそ命が危うい。だからこそ、後衛で逃げ足が早く、かつ転送魔法が使えるノルが運び屋に最適だった。いざとなればノルだけ先に逃がし、後から蘇生魔法を使える司祭を連れて戻ってきてもらうという段取りだ。こういう状況はこれまでにも多々あったので、そういう約束ごとになっていた。
 みんなも納得したところでノルが大きなアイテム袋を開け、宝物を詰めようとした。まさにその時のことだった。
 それまで静観していたカグラがノルの頭をがしっと掴んだ。邪竜戦でボロボロになったはずの身体には傷一つなく、家を出た時と同じ姿だった。
「ノル。いや、ポルクスか? どっちでもいいや。どいつがメインキャラかわかんねぇしな。お前らいくつアカウント持ってるんだ?」
「どうしたんだ、カグラ。メインキャラ? アカウント? 一体何の話だ?」
 頭を押さえられながらも宝を袋に入れようとするノル。カグラは頭を掴む手に力を込め、その小さな身体を片手で持ち上げた。アイテム袋はノルの手から離れ、黄金の首飾りが地面にこぼれ落ちた。
「この廃人を使ってRMTとかめでてぇな。どんだけ稼いだんだ? あ?」
 RMT?
 聞いたことあるようなないような言葉が耳を叩く。
「いい加減目を覚ませ、シグマ。お前はこいつらに利用されてんだよ」
「利用……え?」
 仲間達がざわつき、次々と武器を抜いた。カグラとノル、そしてオレを取り囲むように広がり、距離を取る。それまで勝利に歓喜していた明るい表情ではない。敵と相対している時と同じ、険しい顔だった。
 何故、みんな悪意を剥き出しにするのだろう。カグラは何を言っているのだろう。
 わけがわからず、混乱する。
「お前のギルドの仲間全部、中身は同じ人間だ」
 カグラはノルを片手で釣り上げたまま、オレに向かって言い放った。
 同じ人間?
 言わんとすることが理解できない。意味はわからないが、心がざわつく。胸を押さえ、早さを増していく心臓に落ち着けと言い聞かせる。
 みんなが敵意を向けている。ならばカグラは敵なのだろう。オレもカグラに向かって剣を向けるべきなのだろうか。幾度となく彼に鍛えてもらったこのバルムンクを。
「うっせぇ! 野良ブラスミごときが俺達に勝てると思ってんのか!? テメェのようなクソアカウント、一発で飛ばすことだってできんだぞ!」
 それまで穏やかだったノルが聞いたこともないような怒声をあげ、口汚い言葉で罵った。口汚いことはわかっても、その単語の意味までは理解できなかった。
 不思議と皆は黙っている。ただ鋭い殺気だけを、囲む円の内側に向けている。鋭利な剣の切っ先が、槍の真っ直ぐな穂先が、戦斧の鈍重な刃が、きらびやかな魔法使いの杖が、ただ一人を狙っている。
「ポルクス!」
 絶大な信頼を置くサブリーダーの名を呼んだ。ポルクスは双子のカストルと並んでモーニングスターを構えている。返事はなく、ただ憎悪に満ちた四つの目だけがこちらを見ていた。不思議なことに、その目に憎悪が宿っていることはわかるのに、魂の光はない。まるで操り人形のような空虚な瞳だ。とてもよく似た双子がそうしている様は実に不気味としか言いようがない。虚ろな視線に射抜かれ、背筋が凍りついた。
 オレは誰のために剣を振るえばいいのか。普通に考えれば長い間付き合ってきた仲間だろう。けれど今や木偶人形のようになってしまったメンバーを見ると、立ちすくんでしまう。
「くそっ! 離せ!」
 ノルは逃れようともがくが、ヒューマンとホビットでは体格に差がありすぎた。じたばたと手足を振り回すが、カグラの胴には届かない。抵抗も空しく、ノルは罵詈雑言を浴びせるばかり。カグラはそれを愉快そうに眺めている。本当に性格の悪い男だと思う。
「ハハッ」
 カグラが空いているほうの手の指をパチン、と指を弾いた。すると、唐突に耳を聾する警報音が洞窟いっぱいに広がった。天井が、壁が赤い光に染まる。その音と光に何の魔法かと驚いて、更に眼前に広がる光景に目を見開いた。
 ノルたちの姿に半透明の赤い文字が重なっていた。それは警告を示すような文言が綴られており、一際大きな文字で「BAN」と書いてあった。一つや二つではない。実体化した長い文言が縄のように彼らの体に巻き付いて動きを止める。その上に封をするように、無数の「BAN」の文字が張り付いていく。
 今や赤に埋め尽くされた人間大の柱がオレたちを取り囲む形となっていた。
「クソアカウントを飛ばすのはお前らじゃねぇ。俺だ」
「くっ、GMか!」
 罵る声が遠くなっていく。ノルたちの姿はモザイクがかったように分解され、やがて警報音とともに消えた。洞窟に静寂が戻り、オレとカグラだけが残された。
「あれは一体……?」
 呆然と空になったカグラの手を見る。そこにはさっきまでノルがいたはずなのに、足跡一つの痕跡もなかった。彼の大きなアイテム袋も消えていた。
 わからない。状況がまったくわからない。
 邪竜を倒して家に戻り、いつものように儲けを分けて終わりじゃなかったのか。それでまたイベントの告知を待つ平和な日々に戻るんじゃなかったのか。
 しかし現実では仲間たちが全て消えた。ただここからいなくなっただけではない。一生失われたのであろう予感がひたひたと胸に迫る。おそらく、もう二度と彼らに会うことはない。そう思ったら、急に胸に穴が開いたように感じた。
「何をしたんだ? あの赤いやつは新しい魔法か?」
 狼狽し、動転している頭は今にも叫び出そうとしているが、わずかに残った理性でグッとこらえる。オレはこのギルドのリーダーだ。ギルドマスターに必要なのは、どんな状況であっても冷静に対処すること。状況を見極め、打開策を提示し、仲間を引っ張っていくことだ。
 そんなことを内心で自分に言い聞かせ、ふと笑い出したい気持ちになった。
 何が仲間だ。ギルドメンバーは全て消えた。
 たった一人なのにリーダーを名乗り、ギルドごっこか。どこまでもおめでたい頭だ。状況についていっていない。口元に自虐的な笑いが浮かんだ。
 混乱して二転三転するオレの表情を見ても、カグラはその不遜な態度を崩さなかった。
「俺のオトモダチにちょっと細工が得意な奴がいてな。そいつに外からいじってもらった」
「外? 外ってこの洞窟の外ってことか?」
「いいや、もっと外」
 カグラは天井を指差した。ごつごつとした岩壁ばかりで、これといって目を引くものもない。
「上の世界だよ」
「上?」
「現実だ」
 現実。
 その一言に視界が揺れた。
「現実はここだろう? ここがオレ達が生きる現実だ。ここ以外、他にあると言うのか?」
 声が震えている。とてつもない悪寒に襲われて肌が粟立つ。
 何故問いかけたのだと脳裏でもう一人のオレがオレを叱咤する。答えはいらない。聞いてはいけない。声にならない声でもう一人のオレが激しく繰り返す。
「思い出せよ」
 カグラの顔からあのニヤニヤ笑いが消えた。眼帯を着けていない左目がオレを真っ直ぐ見つめている。金色の瞳はいつも通り濁っているけれど、たしかな魂の光が宿っているように見えた。ポルクスやカストルとは違う。カグラはたしかに生きている人間だ。
「ここは作り物の世界の中だ。現実じゃない」
 生きた人間の生きた言葉がオレという存在を抉る。
「本当のあんたはベッドの上で眠り続けている女子高生なんだよ」
「ジョシコウセイ? それは新しい種族か?」
 途切れ途切れの声でやっとそれだけを問う。カグラはオレの肩をつかみ、乱暴に揺さぶった。
「だから目を覚ませって言ってんだよ。本当はわかってんだろ。全ては他人に見せられている幻想だと」
 頭が痛い。動悸が激しい。
「俺はとある筋からの依頼であんたと接触を図った」
「何をおかしなことを。ここが現実だよ」
 必死に冷静装うとするが、目は泳ぎ、呼吸すらままならない。こんな有様でギルドマスターとは笑わせる。いや、もはやギルドはないのだからマスターではない。一介の冒険者に戻ったのだ。そう、オレは冒険者だ。毎日剣を振り、魔物を倒し、金を稼ぐ。魔物を倒せば倒しただけ強くなるのが楽しくて、そればかりに明け暮れているナイトだ。今回の邪竜退治でおそらくランクも上がるだろう。そうするといよいよ最上級職への扉もすぐ目の前で――
「シグマ」
 心臓が跳ね上がった。散り散りになりかけた思考が急速に収束し、ぼやけていた視界はカグラに焦点を結ぶ。
「ここが現実と言うのなら問おう。あんた、何日風呂に入ってないんだ? この世界には風呂はない。だけどあんたの体は何があっても汚れない。転んでも汗をかいても、小一時間も経てばきれいな姿に戻る。体臭もない。これに説明ができるか?」
「汚れる…...?」
 汚れるという言葉の意味を思い出そうとする。汚れとは、汚れのことだ。清潔の反対で、塵や埃や泥や、その他諸々にまみれた不浄な状態のことを示す。汚れは落さなければ綺麗にならない。そういえばオレはさっき邪竜に止めを刺し、返り血を浴びた。だから全身に邪竜の黒い血が飛び散っているはずだ。こんな洞窟の奥では塵一つついていない清潔な状態に戻るのは難しいが、しないよりはマシだから拭わないと――
 自分の右手を見てオレは固まった。染み一つない男の手がそこにあった。
「頭から竜の血を浴びておいて、何故あんたは汚れていないんだ?」
 吐き気がするのでえづいた。不浄の血で穢れていなかった右手で口を押さえ、左手で胃の腑を押さえる。けど、胃の中は空っぽだ。何も出て来ない。いや、胃はいつも空っぽだと知っている。知っているのに、忘れていた。
 喘ぐ口元から垂れるはずの唾液はない。口の中は湿ってもいないし乾いてもいない。まるでこの身体には元から湿り気というものがなかったかのようだ。つるりとした口には白い歯が綺麗に並ぶ。けれど、それらは食事をするために使われたことがない。食事という行為自体を忘れていた。そう、ここではする必要がないし、その行為そのものができなかった。オレはそのことも知っている。
「ここは現実じゃない。リグレットタワーオンラインというゲームの中だ。コンピューターが見せている幻なんだよ。現実には存在しない、データの世界だ」
 再びの宣告。白髪のブラックスミスはただ事実だけを告げた。その事実がオレにとってどれだけ冷酷なものであるか、こいつは知っているのだろうか。
「嘘だ」
 否定する。
「嘘じゃない」
「嘘だ! ここが現実じゃないなんて、嘘だ!」
 その言葉自体、とても愚かしいものであることは頭でわかっていた。けれど、否定せざるをえなかった。カグラが突きつけてきた言葉を、真実を拒否したかった。それは鋭い刃だ。今までのオレ、いや私が演じていたものが茶番であると、的確に指摘してくる。
 膝からくずおれ、力なく地面を叩いた。
 痛い。
 体は痛くないのに、心が痛い。
 嫌だ。
「あんたはただのネトゲ中毒者だ。ギルドを運営する高レベルのナイト野郎じゃない。シグマなんて名前でもない。親が付けてくれた本当の名前がある。剣術の心得なんてないし、竜を一刀両断する腕力もない。この世界の村人以下の能力しか持たない、無力な一人の小娘なんだよ」
 頭の上からカグラの言葉が降ってくる。その声はとてもよく冷えていた。こんな世界に逃げ込んだ私を蔑んでいる。そして憐れんでいる。
「俺はあんたの事情は知らない。けれど、現実が辛いからゲームの世界に没入しちまったんだろ? そういうの、依存症って言うんだ。わかってんだろ?」
 否定するために頭をもたげようとするが、首に力が入らない。泣きたいのに涙は流れない。できるのは泣き顔を形作ることだけ。何故なら、目から水を流すなんて機能は実装されていないからだ。
「現実から逃げるな!」
 一際強い、怒気を孕んだ声が降ってきた。その強い語調にビクッと私の身体が震える。
「俺達は現実に生きている。何があっても現実から目を背けることはできないんだ」
 私の肩に大きな手が置かれた。0と1の数字の並びで作られた、汚れることを知らない手だ。だけどこれを操作する生身の人間が存在する。その認識に違和感はない。ここではない世界で、モニタを通して私を眺めている。
「戻ってこい。お前が生きる世界はここじゃない。どんなに辛かろうとも現実に生きろ。現実逃避は終わりだ」
 目の前が暗くなる。目を閉じたとか気絶したとかそういうものではない。急速に浮上する感覚に意識が奪われる。手足が重い。


***


 空気が抜ける音とともに、カプセル型のVRポッドの蓋が開いた。暗転したヘッドマウントディスプレイをむしり取る。解放直後のぼやけた視界が徐々に明瞭になっていく。そこにはよく見慣れた天井と、モダンデザインのペンダントライトがぶら下がっていた。ライトは常夜灯だけが点いており、周囲はすっかり明るくなっていた。枕元の時計を確認すると、ちょうど午前八時を過ぎたところだった。
『おはよう。気分はどうだ?』
「最悪だ」
 スピーカーから聞こえる百瀬の声に返事をし、カグラは上半身を起こした。ゆっくりと首を振って頭の重みを確かめる。三半規管はまだ現実に対応していないようで、どうにもふらつく。深海から急浮上したかのように頭が痛い。その痛みこそ、間違いなくここが現実と教えてくれるものだった。
 カグラというのはキャラクターネームではない。彼自身の本名だった。
『運営会社から連絡があった。笹木梨帆子が意識を取り戻したそうだ。錯乱はしているが、命に別状はないとのことだ』
 生返事をし、まだぼんやりとしている頭を再度振る。その頭髪の色は毛先を紫に染めた白ではない。日本人の黒色だ。頭は痛く、手足は鉛をつけたように重い。長時間ダイブの後はいつもこうだ。体がだるい。
 アスピリンの買い置きはあっただろうかと思いながら無意識に左肩を二度タップする。そんな自分の動作に気付き、カグラは苦笑した。それはリグレットタワーオンライン内で、アイテムウィンドウを出すコマンド動作だった。脳はまだ現実とゲームを混同している。
『RMTをやっていた犯人グループも突き止めた。案の定、素人ではなく、チャイナ系マフィアだった』
 RMTとは、Real Money Tradeの略だ。ゲーム内の通貨やアイテムを、現実の通貨で取引することを示す。この経済行為自体はネットゲーム黎明期から存在している。運営側にメリットがないこともあり、ほとんどのオンラインゲームで規約違反とされているにも関わらず、その需要は大きい。今は裏社会で一大市場を築き上げ、マフィアやヤクザの主要な収入源の一つとなっている。
「ああ、やっぱりな。素人のやり方じゃねぇと思ったわ。女の子をVR漬けにして搾取するなんてよ、女衒と同じじゃねぇか」
 頭を掻いて毒付くが、どうにも切れ味が悪い。
『最近増えてきた手口なんだ。善良で無関係な一般人を引き込み、奴隷化して稼がせる。ネトゲ中毒は猿のようにプレイし続けるからな、自分らだけで稼ぐよりも楽なんだろう』
 リグレットタワーオンラインの中で、こいつはいつ寝ているんだろうというキャラクターを何人も見てきた。ほとんどは自動化プログラムで動いている中身なしだったが、まれに本当に人間が操作している奴もいた。
 家に引きこもり、睡眠時間を削り、起きている時間のほとんどをゲームに注ぎこむ中毒者。そして、その世界がなければ生きていけないと信じている依存者。カグラには到底理解できない人種だった。
『犯人グループだけならばまとめてBANすればいいだけの話だが、奴隷は何も知らないからな。アフターフォローに手間がかかって仕方ないらしい』
「いいじゃん。規約違反なんだから消しちまえ」
『アホ。奴隷は被害者だぞ。それに犯罪者連中と違ってチート行為はしていない、まっとうなプレイヤーなんだ。自らの意思で長時間プレイしているわけだし。関わってたから問答無用でBANしますっつーわけにはいかねぇんだよ』
「あら、百瀬さんのくせにお優しい意見なのね」
『運営がそう言ってた。クライアントには逆らえん』
 大きく伸びをして欠伸をした。腹が鳴り、丸一日何も口にしていないことを思い出す。アスピリンよりも食事が先だ。
 ようやくVRポッドから抜け出し、床に足を付ける。ひんやりとしたフローリングの感覚が心地いい。頭痛も収まり、平衡感覚も戻ってきた。動くのに支障はない。いつも通りだ。寝間着代わりのスウェット姿のままで台所を漁ると、買い置きのカップ麺が見つかった。
「しかし最新のVRってすげぇな。感触も何もかもリアルだった」
 VR――仮想現実を構築する技術はこの数年で飛躍的に向上した。かつて平らな画面に表示されていた仮想空間は視界いっぱいに広がるようになり、操作者は空間内での刺激を身体への刺激として得られるようになった。まさに潜り込むような感覚で、仮想空間を利用できるのだ。
 この技術に真っ先に目をつけ、実用化に漕ぎ着けたのはゲーム業界だった。
『脳神経医学の技術を応用しているからな。ゲーム内では安全上、痛覚や嗅覚などは制限をしているらしいが、その気になれば現実の感覚そのままもいけるそうだ』
「だからリアルとゲームの区別がつかなくなっちまうんだよ。娯楽目的に使う技術じゃねぇよ。こんなヤバイの規制しねぇの?」
『できないんだろ。お上にも色々あるからな』
「利権、ね」
 鼻を鳴らす。これだから政治家や企業は嫌いだ。己の懐を肥やすためだけに人を食い物にしている。カグラですら危険性を理解しているのに、表立った批判が出て来ないのは奴らが揉み消しているからだ。
 カップ麺に湯を注ぎ、しばし沈黙。スピーカーも黙った。リビングには調度らしい物はない。ソファどころかテーブルすらなく、カグラは地べたにカップ麺を置き、その前に胡坐をかいて座っていた。
 その広いリビングの中で、白く巨大なVRポッドはとてつもない存在感を示していた。地べたに座ったままで見上げると、威圧感すらある。場所がなかったためリビングに設置したが、一般のご家庭では邪魔にしかならないだろう。これを買って置ける家だなんて、広い家を持つ裕福な家庭だろう。間違っても、フローリングに直に座ってカップ麺を食べるような生活するような人間ではなく。
 そんな裕福な家庭に生まれ育っても、幸せとは限らないらしいのだから、神様とやらはなかなか公平だと思う。無神論者であるはずなのに、変に感心してしまった。
「なあ、百瀬」
『ん? 報酬なら後で振り込んでおくぞ』
「いや、それじゃなくてさ」
 とっくに通信は切断されていたものと思っていた。期待していなかった返事にいささか驚く。
「これから笹木梨帆子はどうなるんだ?」
 カップ麺の蓋を見つめたまま、虚空に問う。
『さあね。立ち直ってまた学校に通い出すかもしれないし、現実に絶望して首をくくるかもしれない。しかしそれは俺達には与り知らぬことだ。被害者を現実に引き戻すまでが俺達の仕事で、アフターケアは運営と医者の仕事だ』
 シグマというキャラクターの悲痛に歪んだ顔が思い浮かんだ。涙こそ流れていなかったが、真に迫る表情だったと思う。所詮ゲームなのだからそんな細かく再現しなくていいのに、どうして開発会社とやらはこだわってしまったのだろう。泣き笑いするマネキンなど、気持ち悪いだけなのに。
『しかし、「現実から逃げるな!」は傑作だったぞ。就職に失敗して引きこもったネオニートのくせに、人に説教垂れるとはな』
「うるせー、アホ。今は自活してんだからいいだろ」
 ちょうどタイマーが三分経過を告げた。蓋を開くと湯気が立つ。鼻に熱気を浴びながら、カグラは麺を啜り上げた。
 深刻に考える必要なんてない。現実なんてこんなもんだ。

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