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■ひとでなしの恋

「君の名前を教えて?」
 子犬のような瞳がワタシを見つめる。脂と埃でごわごわの髪に躊躇いもなく手を入れて優しく梳く。そんなことすると貴方の白い手が汚れてしまう。穢れをしらない、綺麗な手が。
 嫌々と首を振るワタシを抱き、あやすように背中を叩く。そこには大きな裂けた傷があるはずだった。
「そんなに怖がらなくていいから」
 怖がってなんかいない。貴方が汚れるのが嫌なだけ。
 訴えようにも、喉は掠れた音を出すばかり。振動すべき声帯はない。
「アンジー」
 不意の名に体が強張る。
「そうか、この名前は嫌なんだね」
 それは天使を意味する名前。ワタシの背中にかつてあった器官が象徴していたモノだ。忌まわしい記憶の欠片が、暗転した視界の中で明滅する。アレはワタシをそう呼んで、そして。頭から流れ出たモノで目が見えない。錆の臭い、焦げた臭い、下品な笑い声、怒号。胸が裂けて、足が潰れて。
「だったら何がいいかな?」
 震える手でしがみつく。本当は離れないといけないのに。こうしていると貴方を汚してしまうのに。熱を知るはずのない体が温もりを感じている。ここから離れたくないと切望している。
 ヨアン。
 唇だけで名を紡ぐ。汚れたワタシの体を拭ってくれた人。
 ――痛くないの?
 ワタシの哀れな姿を見るたびにあの人はそう聞いてきた。けれど、痛みそのものを知らない身ではどう答えていいのかわからない。体を吹きながらヨアンはいろんなことを聞かせてくれた。自分のこと、屋敷のこと、家族のこと。
 特に多かったのは部屋の外の話だった。ワタシの知らない世界の話だ。声が出せないワタシは、ただぼんやりとヨアンの話を聞いていた。
「ノア?」
 唇の動きを読んだのか、貴方ははっきりと発音する。
「それが君の名前?」
 震えが止まらない。殴られても切られても何の反応も示さなかった体が震えている。頬を伝う水滴を貴方は拭ってくれた。白いシャツが透けるくらい、自身も雨に濡れそぼっているのに。
「箱舟の長と同じ名前だ」
 長い髪から覗く顔は柔らかく微笑んでいる。その顔はヨアンにとてもよく似ていた。 
「うちにおいで、ノア」
 貴方はワタシを抱えたまま立ち上がる。膝から小さな歯車と螺子がこぼれた。それらは地面を洗う雨に流され、側溝へ入ってしまう。私の欠片はただの部品となってどこぞへと運ばれていくのだろう。それはもしかしたらウミかもしれない。全ての水はウミという大きな水たまりにたどり着くとヨアンが言っていた。
「新しい足を作ろう。体も直してあげよう」
 体が直ったらウミを見に行けるだろうか。ヨアンはもういないから、貴方と一緒に行けるだろうか。
 いつかそれを貴方に伝えられるだろうか。
 流れるはずのない涙が目から溢れてくる。それは頭部に溜まった雨水であって涙ではないのだけれども、それでも貴方が流すものと同じと思いたかった。
 ひと時だけ貴方と同じ、生きとし生ける者になれたのだと。

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