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■INSOMNIA

「犯人は、貴方です」
 まっすぐに突き出した指が一人の女を指す。結い上げた髪がわずかにほつれて白い首にかかっている。未亡人とはかくも妖艶であるものか。
 わなわなと震え、青褪める唇に一抹の罪悪感を覚える。しかし全て暴かれた今、たった一つの真実は揺るがずにここにある。
 未亡人は膝から頽れる。水滴が豪奢な絨毯に落ちる。
「だって、あの人が……」
 そして独白。人を変え、舞台を変え、幾度も見てきた一幕だ。悲痛な面持ちで関係者は断罪の言葉を吐くが、裁くのは彼らではない。
 怨みと共に拳を振るわんとする男を制服姿の警官が止める。
「奥様をご主人殺害の容疑で逮捕します。お話は署で伺います」
 細腕の刑事が己よりも細い未亡人の手首に手錠を掛ける。喪服の美女は俯いたまま車に乗せられ、屋敷から退場した。
 そして幕が引かれ、一つの事件が終わる。

「お疲れ」
 手錠を掛けた刑事、葉塚が労いの言葉を投げる。現場は慌ただしく撤収に追われ、鑑識を筆頭として証拠集めに屋敷内を駆け回る。現場統括の葉塚は報告にやってくる部下達をあしらいつつ、今日の主役の肩を叩く。
「今回も見事だった」
「もう、嫌です」
 先刻まで凛と伸ばしていた背を丸め、藤一郎はぼやく。隈の濃い目を両手で覆い、さめざめと泣いた。キャメルの背広を着た男はその痩身から絞り出すように声を出す。
「人の死を見るのも、亡骸を暴くのも、謎を解き明かすのも、他人の醜悪な一面を白日の下に晒すのも、もう嫌です。自分はそんなことをしていい人間ではありません。人様の気分を害し、ご迷惑をかけるようなことはしたくありません」
「だが、君にはそれしかないだろう?」
 冷やかな声に藤一郎は肩を震わせる。彼が犯罪者を暴くように、葉塚も藤一郎を暴く。心の隙間にナイフを突き立て、抉る。
「いいじゃないか。血に穢れているのは犯罪者の手。真相を語る君の手は綺麗なままだ。何も後ろめたく思うことはない」
「しかし、人は誰しも」
「救われなければならないとでも言うのか? その結果、人を殺してもいいと?」
 藤一郎の肩に置かれた手に力がこもる。鋭く磨かれた爪が背広に食い込む。
「どの口がそんな大層なことを言うんだ? 君は聖人君子だったか? 懺悔を聞いて赦してやる神父だったか?」
 空いている方の手が藤一郎の顎を強く掴む。
「その対極の存在じゃないか。君は真っ当に社会生活を送ることも出来ない無能じゃないか。何も出来ない。出来ることと言えば、闇を暴くことだけだ」
 手が強引に藤一郎を振り向かせる。瞳孔小さく見開いた目と、薄い三日月のように開いた口が彼の視界一杯に広がった。唇が血に濡れたように赤い。奇妙な笑顔から目を離したくともその手が許さない。顎が砕けそうに痛い。
「君は社会で生きていけるのか? ただの平凡な会社員が務まるのか? 凡百のサラリーマンと皆見下すが、それはそれでまた大変な仕事なのだぞ。上司にへつらい、多量の業務を処理し、家庭に帰れば妻の愚痴を聞き。君のような男にそんな当たり前の人間生活が送れるのか?」
 薄く開いた口から爬虫類のような薄い舌が伸び、藤一郎の眼球に迫る。突き刺さる、と思ったところで舌が止まった。
「いいじゃないか。社会不適合者にも関わらず、金が貰えて身の保証もある。君はそのたった一つの特技で人として認めてもらっているのだ。それを捨てたらどうなる。路頭に迷い、野良犬のように薄汚い道を彷徨い、いずれ餓死するだろう。この飽食社会の中にあって餓死だ! なんと趣味の悪い笑い話だろう!」
 歪んだ赤い口が実に愉快とばかりに笑う。奇声にも聞こえる耳触りな笑い声に藤一郎は眉をひそめる。葉塚から逃れようと顎にかかる手を引き離しにかかるが、渾身の力を込めても指一本引き剥がせなかった。
 そんな藤一郎の様子を嘲笑い、葉塚は至近まで顔を寄せた。それこそ鼻と鼻が重なり合うくらいに。
「私たちは君の人間としての在り方を保障する。だから働け。たとえ脳味噌だけになろうとも思考し、答えを吐き出せる限りありとあらゆる世界の罪を暴き出せ」
 囁く声は甘美な毒のように脳皮に浸透していく。
「君はもう逃げられないのだよ」
 屋敷の外に待機するパトカーの明滅する光が部屋にまで侵入し、壁を天井を赤く染める。壁に伸びた葉塚の大きな影がぬるりと動き、藤一郎に重なる。
 首筋にかかるわずかな痛み。それがこの屋敷での藤一郎の最後の記憶となった。

 そして藤一郎は白い世界へと回帰する。
 誰もいない。何もない。五感、いや第六感まで研ぎ澄ますが雑音一つ彼の元には届かない。感覚器全てを失ったかのように静寂。白い世界だけが見える。
 考えようとしても思考はどうにも散漫で一つにまとまらず、無数に分割しては四方へ散逸する。どうしてここにいるのかわからず、己が何者であるかも知らない。四散する思考を逃すまいと掻き集めるも、それは指の股をするりと抜けていく。
 足掻くことの無駄はとうの昔に知った。ここでの彼は無力であり、ただ在り続けるだけのものだ。
 自分ただ一人の世界で膝を抱えて座る。
 隈が濃い目は見開いたまま。

「おやすみ、藤一郎。また次の事件まで」
 男は焦点の定まらぬ目で茫洋と天井を見上げている。声をかけたところで聞いちゃいないのはわかっていた。
 葉塚は鉄格子に錠を下し、静かにその場を離れた。

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