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■毀れた弓(こわれたゆみ)

「はっきりと言わせたいの?」
 ライゼル通りの南、ローラの下宿。
 古ぼけた絨毯に膝をつき、僕は彼女を見上げる。
「あなたはもういらないの」
 肘掛けに精緻な彫刻が施された安楽椅子に腰掛け、紅茶をすする彼女。お気に入りは角のクレアが営む紅茶店のオリジナルブレンド。スコーンは公園前のベイカーのすぐり入り。わかるさ。ローラの好みだけじゃない。ローラのすべてが僕のこの脳に詰まっている。
 軽く足を動かしただけでスカートの裾が大きく広がる。広がるけれど、厚手の生地でしっかりとした作りのスカートはすぐに元に戻り、一瞬の隙を見せない。伸びた背筋に亜麻色の髪がかかる。
 ローラの姿はどこまでも気高く、優雅だ。
 僕はどうだ。膝の薄くなったズボンによれよれの上着。傷だらけの革靴は、とうに買い替えの時期を過ぎている。
 あまりにも不相応で、恥ずかしい。今すぐにでも逃げ出したい。ミゼア通りのあの歓楽街の中に紛れこんでしまいたい。金と快楽がすべての街。人々は享楽に耽り、ただ我を忘れて仮初の楽園の中で踊る。あそこの人間は二種類に分けられる。与える者と、受け取る者。需要と供給の理想的なバランス。
 一度知ってしまったエデンはとても甘美で。
 だけど、僕はもう一度ローラの隣に立ちたかった。僕なんかに想われて、本当に彼女が可哀想だと思う。土下座してもしきれないくらい、申し訳ないと思う。
 僕のような、どうにもダメな男に愛されて。
 どうしても忘れられなかった。ミゼア通りの安宿で女を抱いている時も、コカインに耽っている時も、いつもちらついているのはローラだった。彼女の笑顔が、声が、瞳が、香りが、僕を捕らえて離さない。初めて会った時からもう何年も、今も。
 触れたくても触れられなかった少女。
 幼い頃から見てきた。広大なお屋敷でのびのびと成長していく様を見守ってきた。何をやらせてもうまくこなした。絵も、勉強も、乗馬も、そして音楽も。
 特に声楽は素晴らしかった。春の空のように澄み切った声は、どこまでもどこまでも通った。豊かな音域で奏でる旋律は、どんな楽器にも勝っていた。あの頃の僕は幸せだった。ローラの隣で愛器を持ち、歌声を旋律に乗せる。それだけでとてもとても幸せだった。
 少女はレディへと成長し、もう、手が届かない。それを認めるのも嫌で、必死にしがみつこうとしている僕。
 あの、社交界デビューの日。夜会で男に囲まれている少女を見て、沸き起こった感情。暗くて、深くて、しかし熱くて熱くてどうしようもない想い。息をつくのも苦しい鼓動に、くらくらと眩暈がした。
 感情の名を知らずに戸惑った。ローラだけが太陽のように輝いて見える。彼女が世界の中心で、彼女だけが色を持っていた。群がる男たちは虫と同じ。色のない、モノクロームの存在。
 夜会では余興でローラが歌い、僕が伴奏した。纏う色を失った観客は、息をすることも忘れて彼女の美声に酔いしれる。曲が終わり、息を吹き返した観客は誰もが美しいローラへと惜しみない賛辞を送った。白黒の世界でローラだけが華やかな大輪の花だった。
 僕はとうの昔におかしくなっていたのだろう。
 触れることすらかなわない少女の面影を求め、ミゼア通りに足を踏み入れた。似たような姿の女を見つけては声をかけた。ただ亜麻色の長い髪という理由だけで女を買ったこともあった。
 麻薬が見せる夢の中では、ローラは僕だけのものだった。たった二人、山奥の古城の中庭で、黄色の花に囲まれている。僕がバイオリンを弾き、彼女が歌う。見詰め合い、踊り、美しい世界と彼女を褒め称えた。そんな夢を繰り返し見た。
 そして気付けば彼女は離れていた。ローラの心の中から僕が消えかけていた。
 いつだったか、僕は家から追い出された。「家」というたった一つの接点が消え、ローラと僕を結ぶ線も消えた。
 当然だ。猥雑な歓楽街へと足を運ぶ道楽息子なんて、あの家には必要ない。必要なのは、誠実で社交的な跡取息子。そのポストにはすでに兄が座っていた。僕には役割などない。ただいるだけ。
 世間ではこれを勘当と言う。
 帰る家を失い、幾ばくかの金をもらい、やむなく慣れたミゼア通りの近くに住んだ。貴族崩れのバイオリン弾きはどこの酒場でも人気を博し、食うに困ることはなかった。もちろん、女にも困らなかった。
 だけど、どれだけ夢を見ても空虚な胸のうちは風通しが良く。
 ローラが下町で下宿しているという噂を聞いたのが、つい先日。
 すがるような想いでローラの住むこのアパルトマンを訪ねてきた。彼女は僕が知っている彼女よりも、一層美しくなっていた。豊かな髪も、宝石のような瞳も、ビスクドールのような肌も。艶やかさを増し、少女はすっかり大人になっていた。
 その日から今日まで、僕は彼女の元に通った。第一声はいつも同じ。
「もう一度、バイオリンを弾かせてくれ」
 幾度目になるのだろうか。頼み込む僕に、彼女はすげない言葉を返す。最初こそ、懐かしさもあって穏やかに断りの言葉を口にしていたが、今でははばかることもない。
「いらないって言ったでしょう? 今のあなたはただの男。肩書きも何も持たない。バイオリン弾きですらないのよ」
「バイオリンなら、ここに」
 たった一つ、家から持ち出したバイオリンをローラに見せる。
「そんな楽器であなたは何を弾こうと言うの」
 毎晩酒場の煙にあてられた愛器は艶を失っている。替えが切れた弦はボロボロで、いつ切れてもおかしくない。
「あなたはその弓と同じよ。もう毀れてしまったの」
 彼女の足元、薄くなった絨毯に頭をこすりつける。奥歯を噛み締め、手にした弓を強く握った。中ほどから真っ二つに折れている、その弓を。
 僕が浅はかだったのだ。酔漢相手に癇癪を起こさなければよかったのだ。たった一つ残された元の場所へと戻る鍵を、自ら失ってしまった。永久に。
「馬鹿な男」
 ローラのつぶやきが鋭い硝子の欠片となり、右胸に突き刺さる。僕は二つに引き裂かれ、彼女の足元に跪く彫像と化す。一筋頬を伝う涙が、絨毯に黒い染みをつくった。

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