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■コンビニおにぎり

「ちょっと聞いていいですか一ノ瀬さん」
「何ですか武本さん」
 答えた声には少しトゲがあったかもしれない。しまった、と思った時にはもう遅かったけど、亮ちゃんは全然そんなこと気にしていなかった。くわえた煙草を地面に落として靴の裏で火を消す。
「青山って童貞なんすかね」
 私は目の前を少し高そうなセダンが走り抜けたのを確認し、かちりとカウンターを回した。対向車線を走っていくのは赤ら顔の中学生が運転する自転車だ。
「そっち、自転車」
 ぼそりと言うと亮ちゃんも慌ててカウンターを回した。
「で、どうなんよ」
「どうして私に聞くのよ」
「だってこんなこと本人にゃ聞けないじゃんよ」
「だからって年頃の乙女に聞きますか。セクハラで訴えるぞこの二留野郎」
「ひどい! なこちゃん名誉毀損!」
 わざとらしくしなを作ってみせるその姿が気持ち悪い。私は反射的に手元の紙ばさみで殴ってしまった。
「ほんっと、かわいくないね」
「亮ちゃんほどじゃないよ」
 今度は路線バスが通っていった。朝八時から座り続け、ようやく本日三台目の路線バスだった。
 平日の片田舎の一本道。こんなところを調査して何になるのだろうとぼやく。しかも一人で済みそうなところを二人がかりだ。人通りが少ない田舎道の交通量調査は暇としか言いようがなかった。これで給料が悪かったら本当に誰もやりたがらないだろう。
「ああ、もう昼か」
 亮ちゃんの言葉に空を仰げば天頂に太陽があった。
「ちょっと昼飯買ってくるわ。何食いたい?」
 よいしょっと相方さんは立ち上がり、パイプ椅子に座りっぱなしだった腰を伸ばす。
「おにぎり。昆布」
「いっつもそれだよな。お前渋すぎ」
「うっさい。あとは唐揚ね。とっとと買ってきなさい」
 私は追い払うような仕草をする。
「ビールは?」
「仕事中の飲酒は駄目」
「別にいいでしょ。俺ら、一本くらいで酔うような柔な子じゃないじゃん」
 それじゃ行ってくるよ、と能天気に亮ちゃんはどこかへ走り去っていった。ご飯売ってるようなところなんてこの辺りにあっただろうか。亮ちゃんはどこまで行くつもりなんだろう。元気なことだ。私はやれやれ、と溜息をつくほかにない。暦の上ではすでに夏となっている今日はたしかに暑い。じんわりと額に滲む汗を拭った。飲んでもすぐに体外に流れ出てしまうだろう。
 誰もいない道端に一人残された。去年開通した幹線道路は広くて真っ直ぐだ。道路沿いの並木も中央分離帯も綺麗に整えられ、ここをスピード出して飛ばしたら気持ち良いだろうなと思う。しかし背景に広がるのは青々とした田んぼ。そして遥か向こうに見える山。人家はずっと向こうにぽつんと見えているだけ。絵に描いたような見事な田舎だった。
 私の担当は手前の道だ。右から左に通り過ぎる自動車と人と自転車を数える。自動車は大型車と小型車を分けてカウントする。亮ちゃんの担当は向こう側で、左から右へと流れる人と車を数える。私の手元のカウンターは右から三、一、0、一。本当に少ない。こちら側も向こう側も、人はまだ一人も通っていない。
 そもそもこのアルバイトは亮ちゃんと青山が二人でやる予定だったのだ。それが、青山が急に用事ができたとかで私が借り出されることになった。青山の用事と言ってもどうせ女関係であろうことは想像に難くない。
 私と亮ちゃんは音楽プレーヤーやらゲーム機やら本やら携帯テレビやら、思いつく限りの暇つぶしの道具をカバンに詰め込みこのアルバイトに臨んだ。だけど今のところそんな道具は一度も使っていない。二人でずっとくだらないお喋りをしては黙るを繰り返していた。
 一人になっちゃったしな、とテレビを引っ張り出した。お昼の番組の笑い声が青空にやけに空しく聞こえて結局は消した。
 ぼんやりとしているとそれなりに早く時間が過ぎるらしい。ぼんやりと斜め下に目を落としていたら人の足が通り過ぎていった。初めての歩行者だ、とカウントしてから顔を上げた。
「買ってきたぜ」
 亮ちゃんだった。渡された袋の中身は指定通りの唐揚の串、そして五百ミリの生ビールだった。発泡酒じゃなくて本当のビールであるところにこだわりを感じる。
「よくお店見つけたね」
「おう、すげー歩いた」
 言いながらもう一つの袋を膝に抱えて椅子に着席。
「どれがいい?」
 言いながら開いて見せた袋の中身は全部おにぎりだった。
「昆布なくってさ、どれがいいかわかんなかったから片っ端から買ってきた」
 その数ざっと十個あまり。鮭に五目にシーチキンにわかめに梅というコンビニ定番から、ジンギスカンなんて明らかに一発屋な新商品まであった。
「あんたバカでしょ」
「バカって言うな。必死こいて考えて、考えんのに疲れたんだよ」
「あんたやっぱバカだ」
 手を突っ込んで適当に掴んでみる。出てきたのは、海苔ではなくチーズが巻いてある海老ドリアという代物だった。中のご飯はケチャップ色をしている。コンビニの人はご飯であればなんでもおにぎりになると信じているらしい。見た目にも暑苦しいそれを、亮ちゃんの膝に載せてあげた。
「んでどうなのよ、青山は」
「どうって」
 私は唐揚串を頬張りつつビールで流し込む。ビールはよく冷えていて、仕事なんて忘れてしまうくらい幸せだ。
「童貞なの?」
「またその話持ってくるか」
「だって気になるんだもん。あいつ回転速いくせに奥手だし、手ぇ出す前に別れちまいそうじゃないか」
「たしかにそうだけど」
 青山は彼女ができても一ヶ月ちょっとしかもたない。そして別れたかと思えばすぐに次の彼女がいたりする。それでいて奥手だったりすれば、たしかに青山が童貞でもおかしくはない。
「気になるって言われても、私だって知らないよ。本人に聞いたほうが早いって」
「素面で聞けるか」
 言い捨て、煙草に火をつけた。なんと本日二箱目。亮ちゃんのチェーンスモーカーっぷりはよく知っていたつもりだけど、ここまでペースが速いと思わなかった。そういえば、持ってきたバッグの中には愛飲の銘柄が一カートン詰めこんでいたっけ。
「そういう亮ちゃんはどうなのよ」
「俺?」にやりと笑った口の端から煙を吐き出す。「お前らより年上なんだぜ? これでチェリーだったらおかしいだろ。女でも男でも来るものは拒まないから」
「で、自分で追ってる奴には手が届かないわけね」
「うわー、なこちゃん辛辣ー。俺泣いちゃう」
「勝手に泣け」
 泣き真似をする大の男とビールを飲む若い女。そんな二人の目の前を豆腐屋の文字が入った軽トラックが左から右へと通り過ぎていった。ドライバーはちらちらと横目でこちらを見ていた。私は手を伸ばして亮ちゃんのカウンターを一つ進める。
「それじゃなこちゃんはどうなの」
「聞くな」
 そこでどうして私に話題が向くのだろう。そもそもこういう話は真っ青な空の下でするものではない。お天道様に申し訳ないと思わないのか。どこかの居酒屋か、誰かの部屋でグラスを傾けながらの話題だろう。
「青山一筋だからやっぱり?」
「だから聞くな」
 素面で答えられるか。私は正面向いたまま、こちらを覗き込んでくる亮ちゃんを無視しておにぎりを頬張る。口内に海苔が張りついてしまったので、ビールを流し込んで剥がす。
「じゃあ身近な俺で手ぇ打ってみる? 俺、優しいよ」
「しつこい!」
 ぱかん、と気持ちのいい音が響く。紙ばさみで顔を殴ったその横を、トラクターに乗ったじいさんが通り過ぎていった。
「ねぇ、亮ちゃん」
 私が殴った弾みで手から落ちた煙草を足で踏みしめつつ、亮ちゃんはぼんやりと応える。
「ん?」
「いつまでも友達でいてくれる?」
 少しだけ驚いたような目が私を見る。思わず言ってしまった。後悔はしていないけれど、気まずい。まともに顔が見られず、ビールを傾ける。五百ミリの缶はいつの間にか空になっていた。麦の滴が舌先に落ちて打ち止めだ。
 煙草臭い手が私の頭を引き寄せて肩口に載せた。私の手からビール缶が零れて用水路に落ちる。
「お前次第な」
 私次第と言うけれど、それは亮ちゃん次第でもあるし、青山次第でもある。私たちは危ないところで均衡を保っている。少しでも揺らげば崩れる関係だ。今日の友は明日の敵になるかもしれない。頭ではわかっている。私のたまらなく冷静で理性的な部分が、感情のドアに閂をかけている。
 この炎天下に暑苦しい、と頭を抱く大きな手をのけ、私は二本目のプルタブに指をかけた。

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