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■髪結の亭主
とある国のとある街に髪結の女が住んでいました。
腕もさることながら器量も良く、街の男という男たちはこぞって女の店に通っていました。毎日毎日絶えることなく髭を剃り、髪を刈る。揚句の果てには女の店ぐるり一里は他に髪結の店がなくなってしまうほど、評判の店でした。
そんな噂を聞き付けたのがこの国の王。美しいものに目がない国王は、ある日女を宮廷に呼び、髪を結わせてみました。
白魚のような指が背後から伸び、ちらりちらりと視界に入ります。甘い息がそっと気遣いの言葉を囁きます。おまけに蜂蜜色の豊かな金髪を綺麗に結い上げた美人ときて、すっかり王はこの女に魅了されてしまいました。
そしてついには自分の下に召し抱えんと、女の亭主を呼び出しました。
この亭主、蓬髪に髭を生やし、分厚い眼鏡をかけた、なんともうだつのあがらない容姿をしています。しかも素人学者だか詩人だかを自称し、家に篭ってほとんど外出しない日々を送る、近所でも噂の堕落者でした。
妻に食わせてもらっているようなそんな男が素直に首を縦に振るはずがありません。
「お前の一生の生活を保障しよう。豪奢な屋敷も、幾人もの召使もつけてやろう。それで手を打ってくれぬか」
「お断りいたします」
王からの褒美はだんだんとエスカレートし、ついにはしびれを切らして「この冠をやろう」とまで言い出しました。いまや人ひとりでは持て余すほどの莫大な富と名誉が男の眼前にぶら下げられています。
それでも男は頑なに拒みました。
「何故じゃ。たかが女子一人、尽きることなき富よりも大切なものであるか」
男は頭を一つ、横に振りました。
「なりません。そればかりはできぬのです」
厳かな声で言うと、男はつけていた帽子と眼鏡を外しました。なんと、顔の輪郭を覆い隠していた髭までもが剥がれてしまったのです。
王は目を見張りました。帽子からこぼれ落ちたのは蜂蜜色の滑らかな髪、髭の下から現れたのは驚くほど木目の細かい白い肌。あの髪結いの女そのままの姿だったのです。
王は声もなく立ち尽くしていました。
「おわかりになりましたか。私の女房はあなたの下へ参ることはできぬのです」
と、女の顔が太い男の声で言いました。
「嘘を申すな。その顔はつくりものなのであろう。本物は家で髪結いをしているのであろう」
「いいえ。これが真実です」
激しくうろたえる王は男に服を脱ぐよう命じました。するりと纏った服が落ち、現れた白い裸身はまごうことなき男の物。王は自らの手で裸体をまさぐり、頬をつね、髪を引きますが、全てしっかりと直に生えている本物でした。
「何故じゃ。何故男の貴様がそのような恰好をしておる」
「それは貴方が良くご存知のはずです」
男は服を着ながらそう問いかけます。髪を束ねて帽子に押し込め、鼻の下に作りものの髭を押し付けると、元のうだつのあがらない亭主ができあがりました。ただ、帽子の鍔の下の瞳だけが美しい蒼玉の光で王を射抜いていました。
「どんなに腕の良い髪結であろうと、私が男だったら宮殿へお呼びになりましたか」
その手にはいつの間にかハサミが握られていました。冷たい光が男の手中でおとなしくその時を待っています。
「ましてや新たに髪結を召し抱えようと思いましたか」
王は答えません。黙ったまま男を見返しています。
「腕がいいだけでは評判の髪結にはなれないのですよ」
男が手を翻すと銀色の光が閃き、赤い赤い花が辺り一面咲き乱れました。
ハサミをそっと拭う男の背後に語りかける者がありました。
「よくぞやってくれた」
王弟陛下です。この腹違いの王弟は、国王の政に不満を抱く革新派の一人でした。転がるそれに無遠慮に視線を投げかけながら、
「そなたには褒美をとらそう。変装といいハサミさばきといい、実に良い腕をしておる。そうだ、いっそのこと我が配下となり密偵として働いてくれぬか」
と、饒舌にまくしたてました。図々しくも転がった冠を拾い上げて軽く拭き、自分の頭に載せています。
「私の妻は」と男は眼鏡をかけ直して言いました。「市井の髪結であり、私とともに髪結の仕事を誇りに思っております。それに」
そして再び銀光が舞いました。
「商売の秘密は決して誰にも漏らしてはいけないのです」
とある国のとある街に髪結の女が住んでいました。腕もさることながら器量も良い評判の髪結でしたが、国王からお呼びがかかったとの噂が人を呼び、女の店ぐるり三里は髪結の店が無くなってしまったそうです。