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■マニキュア

 ひとつ息をつき、玄関の扉を開ける。ソファで本を読んでいた彼が顔を上げ、「おかえり」と微笑みかけてくれる。白いシャツに黒いスラックス。仕事着とあまり変わらない格好だと思うのだけど、彼はこの二つを好んで着ていた。いつもより早いね、と聞くと、今日は出先から直接帰ることができたのだと嬉しそうに言った。
 読んでいた文庫本にメタルのブックマーカーを挟みこみ、銀縁の細い眼鏡を外して薄いシルバーのケースに収めた。細長い指がしなやかに動く。ブックマーカーは前の彼女が、シルバーケースは私が誕生日プレゼントにあげたものだ。不思議と彼の手はそういったシンプルな物がしっくりと馴染む。私も前の彼女も同じことを思っていたに違いない。なんとなく気まずい思いがして彼の手元から目を逸らした。
 「夕飯できてるから着替えておいで」と言いながらダイニングの椅子の背にかけられていた濃灰色のギャルソンエプロンを巻きつけ、腰紐を一周させてへその下あたりで結ぶ。その様子をぼんやりと眺めていたら、「お疲れさま」と水が入ったグラスが差し出された。小さな三角のレモンの欠片が浮いている。
「それ飲んだらちゃんと着替えな」
 私の頭の上に大きな手を置く。子供扱いしないで、と反論する元気もない自分に内心驚いた。そんなにひどい顔しているのかな。頬をさする。
 ひんやりとしたグラスを両手で包むように持ち、ゆっくりと一息で飲み干した。爽やかなレモンの香りが喉を降りていく。手の中でからりと氷が鳴った。
「今日のご飯、何?」
「君が好きなもの」
 飲み干したグラスを受け取って彼はキッチンに入る。私はゆるゆると服を脱ぐ。暑い季節になった。汗を吸ってシワだらけのシャツを丸めて洗濯カゴに放り込み、冷水で一気に化粧を落とすとだいぶさっぱりした。
 そして私は時間をかけて決まった手順で手を洗う。まるで儀式のよう。いや、儀式なのかもしれない。まず掌で泡立てて、まんべんなく肘近くまで泡で包む。指の股をこすり合わせ、人差し指の腹で掌のしわをなぞり、最後にブラシで爪の間の汚れを掻き出す。彼がくれたハンドソープは烏龍茶の匂いがする。甘いような渋いような香りに不思議と心が安らぐ。今日一日の汚れを洗い流そう。ひとつ思い出しては手を擦り、ふたつ思い出しては濯ぐ。丁寧に泡を落として乾いたタオルで拭き取った。塗り直し忘れていたネイルエナメルがところどころ剥がれ、私の手は必要以上に年老いて見えた。自分の手のような気がしない。ああ、爪の先が欠けている。
 キッチンでは彼がスープを温めていた。体を包む倦怠感に食欲なんて失せていたけど、トマトの香りが鼻孔をくすぐると急に胃が縮みだした。生きている実感、生かされている実感。
「食事の前に何か飲もうか。ビール? ワイン?」
 柔らかな声が心を撫でる。ワイン、と言いかけて悪戯心か頭をもたげた。おそらくワインもビールも両方ある。生と言えば生ビール、黒と言えば黒ビール、赤と言えば赤ワイン、白と言えば白ワイン。スパークリングも出てくるだろう。酒が好きという話を聞いたことはなかったけど、彼の手元には常に幾多の種類が揃っている。ワインにビールにブランデー。私が好きなものばかりだった。
「日本酒。辛いのがいいな」
 普段は決して飲まないものをあげる。驚いた顔が見られるかとキッチンカウンターに肘をついて待っていた。ところが彼は笑顔を崩さずにひとつ頷き、冷蔵庫から小ぶりの磨り硝子の瓶を取り出した。それから細いフルートグラスが二脚、彼の手の中で打ち合わされて涼やかな音が響く。華奢なグラスの足は、彼の大きな手で簡単にへし折られてしまいそうだ。
 差し出されたグラスを素直に受け取る。細い指がキャップを捻り、私にラベルを見せてからグラスに注ぐ。そういえばこの人、学生時代はショットバーでアルバイトしていたって言ってたな、なんてことを思い出す。
 グラスに口を付ける。するりと喉をおりてきて、キレのいい後味が広がる。口当たりが軽い。甘ささえ感じる米の味に胃がますます空腹を訴える。
「随分と用意がいいのね」
「君のことならわかるさ」
 筋が浮くくらい細い指先がするりと私の手の甲をなぞり、爪の上に指の腹を置く。色褪せた薄いピンクのネイルエナメルが見えなくなった。しばらくためらうように彼の指先がそこにあったけど、鍋の蓋が踊り始めた音とともに離れていく。名残惜し気に。私から顔を逸らして。
 思わずその手をつかんでいた。
「鍋が吹きこぼれるんだけど」
「あ、ごめん」
 優しい、だけど困った顔は口を開くけれど何も言わずに再びつぐむ。言葉の代わりに私がもらったのは温度だった。頬に添えられた手の冷たさが心地いい。
「夕食が終わったら塗り直してあげるよ」
 触れ合えばわかる。彼はここにいる。私はここにいる。
 現実はここにある。

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