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■Stand by me

「ずっと昔の話なのよ」
 紅玉色のカクテルグラスを傾ける彼女はすでに酔っていたのかもしれない。
「まだまだ私が小さかった頃。小学校に上がる前だったかな。うちの近所に男の子がいたの。ハジメ君っていって、私より二つ上のお兄ちゃんだった。私とハジメ君は本当の兄妹みたいにとっても仲が良かったの。それこそ私が生まれた時からって言ってもいいくらい、私たちはいつも二人一緒にいたわ。過疎が進む田舎の村だっだから周りにあまり子供がいなかったのよね。
 たった二人だけど色んなことして遊んだわ。庭でのおままごとも、家の中でかくれんぼも、裏の山で虫取りもした。今、あなたが思いつく限りの田舎の遊びは一通りしたと思う。そんな閉鎖的な環境だったらいずれ遊びも尽きてしまうって思うだろうけど、飽きることはなかったわ。だってハジメ君は遊びの天才だったんだもの。ちょっと飽きたかな、と思うとすぐ新しいルールを作ったの。たとえばかくれんぼにトランプのババ抜きを組み合わせてみたりね。どんなことをするか想像つくかしら。ハジメ君の新ルールはどれもこれも斬新で、取り入れるとどんな遊びもまったく違う遊びになるの。本当に二人で遊ぶのが楽しかった。毎日朝起きるのが楽しみで、夜寝ちゃうのがもったいなかった。
 だけどね、あなたも知ってると思うけど楽しいことっていつまでも続かないのよ。もちろんハジメ君は私より二年早く小学生に上がる歳になった。私達が生まれたのはとてもとても小さな村で、学校なんてなかったわ。山二つ超えたところに分校があるだけ。ハジメ君はそこに通わなくちゃいけなかったの。でも電車もバスも満足に通っていないところなのに、小学校一年生の子が山二つ超えて通うなんて到底無理なのよ。だからハジメ君は一年生の頃から下宿しなきゃいけなかった。分校の周りにはそんな村と子どもが多くて、専用の寄宿舎もあった。
 私はとてもとても泣いたわ。全身の水分を絞り出してしまうくらい。大好きなハジメ君と遊べなくなるんだもの。泣いて当然でしょ。絶対に離れたくなくて、ハジメ君にしがみついて泣きじゃくる私に、両親もハジメ君のお父さんお母さんも手を焼いたわ。あの時、ハジメ君も困った顔してたかもしれない。でもね、ハジメ君は私の頭を優しく撫でてこう言ってくれた。
 『夏休みに帰ってくるから、その時にまた遊ぼうね』
 たった三ヵ月なのに私には何十年ものことに感じていたわ。毎日のようにお母さんの服の裾をつかんでハジメ君はいつ帰ってくるのか聞いていたの。だけど言葉通り、七月にハジメ君は帰ってきた。それがもう嬉しくて嬉しくて、本当にずっとついて離れなかった。
 でも夏休みだって永遠じゃない。九月が、新学期は確実に近づいてくる。小学生になって、ちょっとだけ大人になったハジメ君にも淋しさを感じていたのかもしれない。小学校に戻ったらハジメ君がどんどん大人になっちゃって遊んでくれなくなっちゃうかも、ってね。だから、夏休みが終わる一週間前は私はずっと泣いていた。ハジメ君から離れたくなくて泣いていた。だけどそんなの私のわがままでしょ。ハジメ君はやっぱりちょっと困ったような顔をして頭を撫でてくれた。その手がとても温かかったのをはっきり覚えてる。ハジメ君は本当に優しかったんだよね。理不尽なことを言う幼馴染に困っても、決して叱りつけるようなことはしなかったんだものね。
 そしてハジメ君は学校に戻り、私には一人の日々が戻ってきた。寂しくて寂しくて、本当に寂しくて、私は外で遊ばなくなった。胸が空っぽになるって言うけど、あれって本当なんだね。私の心には隙間風が吹いていて、抜け殻みたいだっただと思う。最初は家の中で本を読んだりしてたけど、家には子供向けの本なんてなくて、難しい漢字だらけで全然読めなかった。家で一人ってつまらない。やがて自然とお父さんやお祖父さんの真似事をしたりするようになったのも道理でしょ。うちではちょっと変わった商売をしててね、お父さんもお祖父さんもいつも家にいたのよ。その頃は理由わかんなかったんだけど、そうやって遊んでる私を見て、今まで構ってくれなかったお父さんやお祖父さんが遊んでくれるようになった。そう、私は遊びだと思ってたけど、お父さんたちにとってはお仕事だったのよね。
 そんな風に過ごすようになってから何ヶ月か経って、ある日お祖父さんに呼ばれたの。『いいものを見せてあげよう』って。手を引かれるまま私は奥座敷に行った。奥座敷はお祖父さんとお父さんしか入っちゃいけない秘密の場所だった。お母さんたちですら絶対入るなってきつく言われてたわ。そんなところに入れるなんて特別なこと。何があるんだろうと楽しみで、ドキドキしながらついて行ったわ。誰も知らない秘密の部屋。でも奥の奥には入れてくれなかった。重々しい鉄の扉の前に私を残し、『ちょっと待っていろ』ってお祖父さんは一人で中に入っていった。子どもってさ、待つの嫌いでしょ。薄暗いところに一人で残されるとすぐに退屈しちゃう。私も入っちゃおうかなって鉄扉を覗きこんだ時、お祖父さんが出てきた。
 お祖父さんは一人じゃなかった。しわくちゃの手につるりとした小さな手を掴んでいたの。ここまで話せばなんとなく予想つくでしょ。お祖父さんが連れていたのはハジメ君だったの。ああ、もしかしてこれまでのことって新しい遊びだったのかな、なんてことまで思った。小学校に行ったなんていうのは嘘で、ずっと私の家でかくれんぼしてたんだって。私が見つけるのをずっと待っていたんだって。
 私はハジメ君に抱きついて声をあげて泣いた。もちろん嬉しくて、ね。ハジメ君は私の頭を撫でてくれた。あの時と同じく優しくね。でも気付いちゃったの。ほんの少しだけ手が体温が低い。人間だから体温の上下はあるけれど、それにしても冷たすぎる。山の鎮守の大石みたいな温度だった。おかしいな、と思って見上げたハジメ君の目。あの目だけは忘れられない。普通の目なのよ。白目に黒い瞳の。だけどどこか違う。瞳の輝きに精彩がない。それどころかその瞳の中を白い物がよぎったのよ。驚いてハジメ君から離れて退いた私の両肩を後ろからお祖父さんがつかんだ。怯えた目を向ける私に『どうしたんだい? 会いたくてたまらなかったハジメ君だよ』と恐ろしいくらい優しい声で囁いた。途端に私は理解した。ハジメ君はもういない。だけど大好きなハジメ君はこれからずっと一緒にいてくれる、ってね」
 彼女の手が俺の頬に触れる。もう何杯も空けているはずなのにひんやりとして、火照った頬に心地いい。
「変な話だと思った? 作り話だと思った?」
 夜景の光を映す瞳が朱い。
「どう思われても構わない。あなたが嘘だと思うならそれでいいわ。私にとって真実でさえあればいい」
 彼女の指先からゆらりと白い影が立ち上る。糸屑みたいなそれは、ともすれば光の加減が生み出した錯覚と見過ごしてしまうくらいに細く、短い。
「そろそろ替わりが欲しかったの。ね、肇君」
 俺の名を呼ぶ彼女の声。隣にいるはずなのにどこか遠い。耳朶をくすぐる甘い音は頭蓋の中で奇妙に反響する。グラスを拭くバーテンも、カウンターの向こうの夜景も、全てが遠くなる。
 そうか、そういうことだったのか。
 アルコールのせいで隙ができていたなどと言い訳したくはない。遠退く意識を必死にこちら側に引き寄せ、どうにか声を絞り出す。言葉にもならない、ただの呻きにすぎない音だ。抵抗する俺の頭を容赦ない痛みが襲う。
「あら、まだ声出せるのね。さっさと受け入れた方が楽になるわよ」
 白い手がまた俺の頬を撫でる。右の下目蓋が痙攣した。俺の意思でもなければ身体の反射でもなく、そこにいる何かが歓喜に蠢いたのだ。手元のカクテルは青かったはずなのに、金に色を変えていた。彼女の色白の手がどす黒く濁った。飛蚊症のごとく視界には現実にはないはずの無数のゴミが飛び交う。波紋が広がり、糸くずが這い、明滅を繰り返す。
「あまり抵抗すると脳神経が焼き切れてしまうわ。そこまでいくとどうなるかわかってる?」
 焼き切れてもいい。誰かの物になることなく、俺は最期まで俺でいるんだ。どうにか意識を留めておこうと強く唇を噛んだ。八重歯が柔らかい皮を破り、瞬く間に鉄の味が口内に広がる。鈍重な頭痛と相まって不快なことこの上ない。
 俺の魂のないところで、俺の望まない形で、俺の知らない誰かが、俺の仕草を真似て、彼女の隣に立つなんて、それだけは。
 頬を熱がない涙が伝う。俺は俺の意思で泣いていた。悔しさも悲しさも切なさも怒りもありとあらゆる感情が暴動を起こし、混乱した脳神経はそれらを出力する手段として涙を選んだ。ごくごく単純に。
「はじめくん」
 彼女が呼んだ名はどちらのものか。俺であろう身体に肩を寄せ、赤い爪に涙の雫を載せて微笑む顔は、悔しいくらい無垢で繊細で、堪らなく綺麗だった。

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