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■かみなり
真っ黒な雲中を這う光が漏れ、鋭い音とともに空を割る。アスファルトの道路は小川と化し、軒からは滝のように水が落ちる。あるはずの陽はどこぞへと連れ去られてしまった。街は闇に落ち、早々に夜へと還る。
公園の片隅のあづまやからそんな光景を見て、男は満足そうに頷いた。帆布で作られたザックの中からキャンプ用のカンテラを取り出してスイッチを入れる。暗い屋根の下に光が広がった。
「というわけで、これが雷招来。天候操作の中でも雨乞いは基本中の基本だからな」
雨に濡れて白いシャツの下の肌が見えた。骨っぽい痩せぎすの身体にタオルを当てながら振り返る。
「芳野ー。聞いてるのか?」
そこに弟子の姿はなかった。木のベンチの上に細い筆と紙片があるだけだった。
「芳野?」
立ち上がり、向こう側を覗きこむ。やはり弟子の姿はない。
「芳野ー?」
さっきまでそこにいたはずなのだ。男が符を書き上げ、術式を始めた時までは傍らに控えていた。今では忽然と消え失せている。小さな屋根の下では行くところもないはずなのに。
「芳野ー」
呼ぶ声に、一際大きな雷鳴が唱和した。その時、男はたしかに小さな悲鳴を聞いた。首をめぐらせる。住宅地の真ん中にある児童公園は大した広さではない。いくつかの遊具と砂場、一宇のあづまやを置けば、あとには道を拡張しただけのような空き地が残った。雨が降り出してからは誰もいなくなった。
見通しの悪い視界の中、木の下にもぞもぞと動くものを見つけた。
「芳野?」
また、轟く雷鳴。黒い画布に紫の光が閃いた。その辺で拾ったのであろうダンボールをかぶったそれが、びくっと身体を硬直させた。
「芳野ー。お前、何やってんの?」
雷に負けじと男は声を張り上げる。桑の木にしがみついた芳野が、おそるおそるダンボールの下から顔を覗かせた。涙を溜めた大きな目に怯えた表情が、子犬を思わせた。
「雷が……」
そこまで言って、ばりばりと響く音に首をすくめる。
「こわいんですよー」
涙声。顔はもはやぐじゃぐじゃで、涙も鼻水も一緒になっていた。
「こわいって言われてもな」
頭を掻く。終わらない雷と雨が術の効果を如実に示している。ひさしぶりの大成功に気分も良くなっていた。が、弟子に怯えられてしまっては意味がない。
男は両手をメガホンの形にして、芳野に呼びかけた。
「とりあえず、こっちに戻ってこいよー」
「無理ですー。動けませーん」
しゃくりあげる芳野は、すくんだ足がもう一歩も動かないことを知っていた。芳野の意思とは無関係に、足は二本の棒きれと化していた。スニーカーに水が染みて冷たい。雨具代わりのダンボールは水を吸って重たくなっていた。
「師匠ー、雷止めてくださーい」
乞う言葉は濁点つきだった。
男は溜息をつき、手もとの短冊に筆で文字を書いた。墨が描くそれは文字というよりは記号に近い。漢字と図形を組み合わせたような図柄をつくる。軽く振って墨を乾かすと、できた符を水の中に放った。半紙は雨に打たれて半紙が踊り、くたりと地面の上に横たわった。水に透けて半透明になった紙の上で文字だけはにじまずにあった。
雷鳴と雨粒が地面を叩く音に混じって、男の読経のような声が響く。腹に力を込めた声は、雷と間違いそうなほどに低い。
やがて、目に見えて雨の量が減ってきた。屋根からの滝のような水の流れがおとなしくなった。雨粒で地面から跳ね上がった泥が、柱に跡をつけた。うねっていた黒雲が徐々に色を薄め、風とともに流れて行く。掻き分けた雲の先には青い空が覗いた。残っていた遠雷もいつの間にか消えている。
男が、ふ、と息をついた。視線の先の符は洗い流されて文字が消えていた。額ににじんだ汗をタオルで拭いた。術式の大小に関わらず、精神集中には疲労が伴う。わずかに気だるさを感じ、大きく深呼吸した。鼻から息を吸い、口から吐く。ゆっくりと、何度も繰り返した。
「師匠」
おずおずといった様子で男の顔色をうかがいながら、芳野が声をかけた。癖の強い髪が額に張りついていた。濡れネズミの彼女は、すっかり濃茶になったダンボールを引きずっている。あづまやの外にいるのは男からの叱責を恐れたからか。
「術覚える気あんのか?」
「ありますよ。もちろんあります。でも、雷がこわい、です」
最期のほうは消え入りそうな声だった。
芳野は雷が怖い。大きな音と、人のものではない光が怖い。幼い頃、家の前の木に雷が落ちるさまを見て以来、どうにも苦手だった。天から降り注ぐ一条の光は熱を持ち、一瞬で生命を奪う。燃え上がるクスノキが網膜について離れない。あの耳をつんざく音が聞こえるたび、芳野の脳裏で木が燃えていた。
「さっきも言ったが、雷を呼ぶのは基本なんだぞ」
神経質そうに眼鏡を拭く。細いフレームの中のレンズがについた埃を吹いて飛ばす。
「これを克服できなかったら道士にはなれないな」
不出来な弟子を睨む。弟子は萎縮して、視線を遮るように顔をダンボールで隠した。
「がんばってますよ? がんばってるんです」
「だったらここで雷招来の符を書けよ。呼んでみろよ」
芳野は喉の奥で唸る。弟子は越えるべき師匠になかなか勝てない。越えるのはいつの日になることやら。
意地の悪い師匠は眼鏡の奥に、愉快そうな表情を浮かべた。
「ま、お前にできるのはせいぜい鼻血止めくらいだな」
笑った男に反論しようと身を乗り出した。あづまやと地面の段差に足がかかる。その足が湿ったダンボールを踏み、滑る。スニーカーに溜まった水がたぷんと揺れる音がした。両手が空中を掻く。盛大に地面と口付ける羽目になった。ゴミ同然のダンボールを握っていなければ免れたであろう、顔面衝突。
「あはははは!」
男が指差して笑っていた。ぐちゃぐちゃのダンボールに突っ込んだ弟子が顔をあげる。惨めにも転んでしまった彼女の顔が真っ赤に染まった。羞恥と怒りと、何より情けなさで。あまりにも色んな感情が交じり合い、心臓の中でぐちゃぐちゃに暴れまわっている。パニックを起こして立つこともできない。
目の前に黒い革靴が現われた。芳野の前に男がしゃがみこんだのだ。
「ほれ、これ張っておけ」
漏れ出る笑いをこらえきれない男が差し出しされたのは一枚の護符。いまひとつバランスが整わない図形が墨で描かれている。芳野には見覚えがあった。流麗な筆遣いをする師匠のものではない。
不貞腐れた顔を片手で拭い、奪うように符を取った。掌を広げると赤いものがついていた。文句に続けて短い言葉を唱えながら、鼻の頭にその符を張る。
昨夜芳野がつくった鼻血止めの護符だった。