天使病
僕の妹は天使のようだった。茶色がかった大きな瞳、ふわふわの髪、白い肌。典型的な日本陣の僕と違い、妹はどことなく日本人離れした容姿の持ち主だった。とてもよく笑う子で、そのこぼれんばかりの笑顔はみんなを幸せにした。
幼稚園のクリスマス・ページェントで天使の役をやったときなど、本当の天使が降りてきたのかとまで思った。真っ白い造り物の羽が、その時だけは本物に見えた。今でも目を閉じれば思い出せる。白い衣装を身にまとい、純白の翼をつけた妹の姿を。
それ以来、妹は「天使ちゃん」と呼ばれるようになった。そう呼ぶとにっこり笑って「なあに?」と聞いてくる。
妹は全ての人々に愛されていた。かわいらしく、幼いその身体に愛の洗礼を受けて育っていった。
そして、妹は本物の天使になった。
――この病気は十六年前に流行したものと全く同じであり、すでにワクチンも開発されて――
僕はテレビを黙らせた。特に見ていただけではなく、ただ部屋が静かすぎたからつけていただけだった。垂れ流される情報に興味はなかったし、つけていること自体が電気の無駄だと気付いて消したまで。
部屋を静寂が満たす。
音大がすぐそばにあるこの街では、こういった防音設備が整ったマンションやアパートが多い。扉と窓を閉めてしまえばその部屋の音は一切外に漏れない。また、外の音も一切入ってこない。
僕はキッチンに入った。ブーンと冷蔵庫が低い音を出している。中からミネラルウォーターのボトルを出して、一気にあおった。
時計の針は五時半を示している。そろそろ彼女が来る頃だ。
読みっぱなしになっている新聞や雑誌をまとめてマガジンラックに入れた。吸殻が山となっている灰皿も洗った。
朝から干したままだった洗濯物を取りこんでいるとチャイムが鳴った。扉を開くと、待っていた顔。
「いらっしゃい」
僕が言うと、微笑んで、
「おじゃまします」
何度となく僕と彼女の間で交わされた言葉だった。彼女は僕のところへ来るときは大抵スーパーのビニール袋を持っている。大学へ通うと同時に通っていた調理学校で習得した腕前を披露してくれるのだ。
やがて、キッチンから小気味良いリズムを刻む包丁の音が聞こえてきた。
僕はというと、特に手伝うこともないので、ビールを飲む。
「ねえ、今、変な病気が流行しているって知ってる?」
美味しい夕食が終わり、赤ワインを飲んでいた彼女がそう言った。
「初めて聞いたよ」言ってから、考える。「いや、テレビで聞いたかもしれない」
「そう」
彼女は素っ気無く言った。
「それがどうしたんだい?」
僕はいつものように右手を伸ばして彼女の肩を抱こうとした。
異物感。
背中にできものでもできているようだ。触れてみると、小さなこぶのような感触だった。
「触らないで!」
恐ろしいほどの剣幕で彼女は僕から離れた。そしてハッとしたように、
「ごめんなさい。怒鳴るつもりなんてなかったの」
「いや、僕が悪かった。ごめん」
それきり彼女に触れる事はできなかった。どうしても彼女は僕を避ける。
十時を過ぎた頃、彼女が家に帰ると言ったので、送っていった。
あれから十日間。彼女からの連絡は一つもなかった。四年間付き合っていて、こんなことは初めてだった。心配になって彼女の勤めている会社に電話したが、会社のほうにも出ていないらしい。先輩にあたるらしい女性に、逆に彼女の様子を聞かれた。何かあったの、と。それは僕が聞きたい。一体何があったのだろう。
彼女の自宅に行くことにした。車を使えば十分もかからないで僕の家から行くことができる。
十日分の新聞がたまっていた。新聞受けに入りきらなくなったと見えて、数日分はコンクリートの床の上に直に置かれている。
チャイムを鳴らすが、反応はない。ドアノブに手を掛けて回してみると、途中でガチッと止まった。鍵はかかっている。
おかしい。彼女の性格から考えても、何の連絡もなしにいなくなるということはありえない。事件にでも巻き込まれたのだろうか。嫌な不安が頭をかすめる。僕は急いで合いかぎを取り出し、鍵穴に差し込んだ。
部屋は真っ暗だった。雨戸がきちんと閉めてあり、ここ数日間の生活の跡はなかった。実家にでも帰っているのか、やっぱり僕の思い過ごしだったのだろう。彼女も立派な大人だし、心配する必要はなかったのかもしれない。
出ていこうとしたとき、小さな呼び掛けの声を聞いた。
「誰?」
彼女の声だった。だけど、どこから聞こえてくるのかはわからない。
「僕だよ」
返事をすると、急に上ずったような声で、
「出ていって! お願いだから、帰って!」
こんな叫び声のような彼女の声は聞いたことがなかった。それが余計に彼女の身に何かあったであろうことを僕に伝えていた。
「だけど、君のことが心配で……」
「いいから、私のことが本当に心配なら出ていって!」
「わけを話してくれ。それからなら出ていくから」
彼女は頑固に「出ていって」と繰り返した。だけど、そこまで普通でない彼女を前に僕は帰ることなどできるであろうか。僕も意地になって出ていこうとはしなかった。
そんな僕の気持ちを感じたのかそれとも諦めたのか、彼女は僕に寝室の前に来るように言った。
「あなたにだけはうつしたくないの。だから、絶対に入ってこないって約束してくれる?」
「約束する」
少しためらっていたようだが、意を決したように、話し始めた。
「病気なの。とても嫌な病気……天使病。知ってる?」
「天使病? 馬鹿な!」
知らないどころではなかった。
天使病――それは奇妙な症状の出る、恐ろしい伝染病だった。十三年前に流行したことがある。全く道の病気で過去にそんな伝染病の例はなかった。僕も身内を一人、その病気でなくしていた。
「あれはもう二度と発病しないはずじゃ……」
ワクチンが開発され、その病気は完全にこの世から姿を消したはずだった。
じゃあ、彼女のあの背中のできものは天使病の……?
「どこでうつったのかわからないの」
「病院へ行かないと……」
「駄目!」
そう叫んだ彼女の声は少しくぐもっていた。泣いているようだった。
「昔の、あの時のワクチンが効かないんだって。それで……それで、今、外では伝染源となる患者を、天使病患者を殺す天使狩りが……」
ピンポーン。
突然チャイムが鳴った。少し遅れて、彼女の小さな悲鳴が聞こえた。
「天使狩り……?」
ドアホールを覗くと、何人かの男の姿が見えた。僕は一旦寝室の前へ戻った。彼女はすっかり怯えているようで、ただ泣く声だけが聞こえる。
「噂をすれば……みたいだね」
「私のこと、言わないでね。適当に旅行中とか言ってね」
僕はうなずいた。言われなくても彼女の在宅を言うつもりなどなかった。
ドアチェーンを掛けたまま扉を開いた。やけに愛想のいい壮年の男がいた。その後ろには無愛想な男たちが控えている。
「保健所の者ですが、今奇妙な病気が流行っておりましてね、こうやって各ご家庭を訪問させていただいております。こちらの方は?」
男は早口でまくし立てた。どう見ても、保健所の人間には見えなかった。
「実家に帰っています。僕はただの留守番ですよ」
「そうですか。では、あなたはお身体の具合はいかがです?」
「おかげさまで、健康そのものです。では、忙しいので」
扉をしめ、鍵を掛けた。
怪しまれる前にと思って早目に切り上げたのだが、逆に不信感をあおってしまったかもしれない。
不安になって外の様子を覗いてみると男たちは何やら話し合っている。勘付かれたか?
再び寝室の前へ戻った。
「ねえ、何も食べていないのかい? 何だったら、僕が作るよ」
彼女ほど料理がうまいわけではないがお粥くらいなら作れる。
「……いい、いらない。どうせ吐いちゃうもの」
「まさか……」
僕は自分の中で絶望にも似た気持ちが膨らんでいくことに気付いた。
天使病は症状がひどくなると何も食べられなくなる。身体が食物を受けつけないため、どんどん痩せていってしまう。それも不思議なことに見た目は全く変わらず体重だけが減っていくのだ。そして末期になると――
「ごめん、約束破るよ!」
僕は勢いをつけて扉を押し開けた。厚いカーテンが引いてあるようで、寝室は暗く、彼女の姿が見えない。扉の横を手で探ると簡単にスイッチが見つかった。押して明かりをつける。
「入ってこないでって言ったのに……」
彼女はベッドの上でうつ伏せになって寝ていた。泣いたせいか目は赤く腫れている。
そしてその背には見事な純白の翼が生えていた。一枚の大きさが彼女の身長ほどもある。妹の時と、同じだ――
「そんな……」
全身から力が抜けていった。立っていることもままならないほどで、カーペットの上に手をついてしまう。
末期症状の特徴でもある翼。これがその病名の由来でもあった。
「もう手遅れなの。こうなってしまったら、手遅れなの……」
枕に顔を埋め、その喉から嗚咽が漏れた。僕も泣きたかった。泣きたくてたまらなくてもあまりにも衝撃な事実に身体が泣くことを忘れていた。
「翼がここまで大きくなったら、後は――」
彼女の身体がふわりと浮いた。それはさながら宇宙遊泳のようにも見えたが彼女の意思で浮いているわけではなかった。厚いワイン色のカーテンが触れてもいないのに開き、差し込んでくる陽の光が僕の目を眩ませる。瞬時に視界がブラックアウトした。窓の開く音がした。
「助けて!」
彼女の叫ぶ声で僕の視界は元に戻る。目に彼女の白い手が飛びこんでくる。彼女が手を差し出してきている。僕をその手を取ろうと腕を、身体を必死に伸ばした。
「待ってくれ!」
僕の手は空気を掴んだ。彼女の手に、届かなかったのだ。
彼女の身体が窓から出ていく。白いノースリーブのワンピースが揺れていた。どこまでも青い空に白い翼が映える。
すでの手の届かない高さまで身体が昇っていた。僕の手はただ空しく届かないものに向けて伸ばされていた。それを認めて彼女はふと泣くのをやめた。
微笑んでいた。
涙をいっぱいためた目で僕に向かって笑いかけていた。妹の最期のときと同じだった。白い服、青い空、純白の翼、笑顔。
天使病にかかった人は皆こういうふうに笑うことができるのだろうか。彼女が見せたことのない美しい笑顔だった。
僕の頬を白いものがかすめる。羽が一本一本、抜け落ちていく。どこまでも高く昇りながら抜け落ちていく。雪のように舞い落ちる。季節外れの雪だ。
彼女の口が動いていた。小さな声だったのか、聞こえなかった。だけど、何といっているかはわかっていた。
僕はその時涙が頬を伝うのを感じた。あれほど流れなかった涙が溢れてきた。彼女の姿はあまりにも美しかった。現実を超えていた。
彼女は天使になった。天使になって飛んでいった。最後に「ありがとう」と言って――
あれからひと月経った。それでもまだ悲しみは癒されない。
癒されるはずはない。僕の背中には小さな翼が生えていた。
僕もまた――天使になるのだ。