天使

1.

 少年は全面ガラス張りの立方体の中に住んでいた。外界と箱の中を繋ぐ唯一の扉は電子ロックで施錠されている。出ることを許されず、絶えず少年を見つめる天井のカメラと生活を共にしていた。
 箱の中から見える外は、ベージュのペンキが塗られた壁とリノリウムが張られた地面だった。重そうな鉄の扉が正面に一つ。天井全体から光が注がれる。パイプ椅子が一脚だけあり、時々誰かがそこから少年を見ていた。
 少年の住処には簡素なベッドと机があるだけ。部屋の隅にはユニットバスが設置してある。風呂はさすがに透明のガラス張りではなかったが、擦りガラスで仕切ってあった。
 時計も窓もない。少年の昼間は照明が点いている時であり、少年の夜は照明が消えた時であった。
 出された食事を食い、寝るだけの毎日。退屈という感覚さえ失せ、考える事も放棄した。ベッドの上でごろごろと転がることだけが運動だった。
 時折出入りする人間は少年を鳥と呼び、ここを籠と呼んだ。白い上っ張りに名札をつけた大人たちは少年を冷たい目で見ていた。そんな大人たちには泣いても叫んでも言葉は届かない。聞こえているはずの声すら無視される。やがて少年は無抵抗という言葉を覚えた。
 膝を抱え、無気力にうな垂れていれば穏便に一日が過ぎることを知った。目に映る白がやけに眩しかったが、そんなものにも慣れた。
 そんな少年の生活を一変させたのも大人だった。
 ある日、いつものように外の扉が開いた。誰が入ってきても少年は関心を示さない。箱の出口に背を向け、膝を抱えて座っていた。大人は少年を見るだけ。動物園の動物と同じだ。物珍しく自分を観察しているだけ。好きなだけ見ればいい。
 だが、今日ばかりは様子が違った。無音の空間に硬質の音が響く。耳慣れぬ物音に少年は顔を上げた。男が少年の正面に回り、箱を叩いていた。
 男は白い上っ張りを着ていなかった。黒い背広に身を包み、背筋を伸ばして立っていた。
 もう一度、男が箱を叩いた。
「何」
 少年は自国の言葉で問う。久しぶりに聞いた自分の声は掠れていた。
 こちらを向いたことを確認すると、男は左手を後ろに回した。少年は何事かと注視する。すると、男の後ろから少女が顔を出した。膝の辺りを小さな手で掴み、箱の中の少年を見る。ふわふわと揺れる髪とスカートはこの部屋に似つかわしくない。大きな瞳と白い肌が造りものの人形めいて見えた。
 かわいい、という言葉の意味を初めて正確に知った。
 男が何事か囁くと、少女は箱に近づいてきた。ガラスから少々距離を置き顔を赤くして何か喋った。意味はわからない。でも小鳥のような声だと思った。
「君の話し相手だ」
 少年と同じ言語で男が言った。男が少年を見る瞳は冷たい。だが少女を見る瞳はどこか柔らかい。それだけで少年は二人の関係を悟った。
 男はたった一つのパイプ椅子を持ってきて、壁を背にして座った。腕を組んで少年と少女を見ている。
 話せと言われても。
 心中で反論する。届かない言葉は言う必要はない。少年の意見は全て無視される。少年はガラスの前の少女にぼやいた。
「お前の親父、何考えてんの?」
 少女はきょとんとしている。当然だ。少年と少女は共通の言葉を持たない。
「ま、別にいいけど」
 耳まで赤い。少し緊張している。それでも少女は精一杯の微笑を少年に向けていた。意味がわからずとも少年に話しかけられたことが嬉しいらしい。知らない言葉で少女も喋り始める。白い肌を紅潮させ、身振り手振りを交えながら幼い少女は小鳥のようにさえずった。時には小さな手をガラスに押し付け、少年の顔を見つめた。そして更に熱っぽく言葉を続ける。
 少年は身体を起こし、ガラス越しに少女に対峙していた。死んだ魚だった目に再び光が宿る。嬉しかったのだ。話しかけ、反応してもらうことがこんなに喜ばしいとは思っていなかった。話しかけてくれる少女に対し、少年は最小限の相槌を返した。話の内容はわからないけど、無遠慮な相槌で遮りたくなかった。
 小動物のようにせかせかと動く少女が珍しい物に見えてきた。騒がしいという感情が久しぶりに蘇る。息を吹き返した、と思った。少年はまだ死んでなかった。人としての感覚、感情、言葉。まだ失っていなかった。再認識した呼吸音さえ生の証に思えた。
 やがて少女が少年の背後を指差していることに気付いた。
「ああ、これ」
 たしかに少女の目には奇異に映るだろう。少年の知る限りではここの人間はこんなものを持っていない。少年にはいつも物足りなく見えていた。どうして皆は持っていないのだろうと疑問だった。
 静かに動かして見せた。少女は目を見張り、ガラスに顔を押し付ける。
「鳥とは違って飾りだけどな」
 だから鳥じゃない。その一言は飲みこんで少女越しに男を見る。壁に背を預けた男は反応しない。少女の親であっても所詮大人たちと同じ人間だった。大人たちにとって少年は「ひとり」ではなく「一個体」だった。
 動かす度に白い羽根が抜けた。少年の背から落ちるそれはすっかり艶を失いくすんだ色をしていた。自由の象徴であるはずの翼は自由を奪われ、箱に閉じ込められている。抜け落ちた羽根を拾おうとして手を伸ばすが、ガラスの壁が少女を阻む。代わりに少年が拾い、振って見せた。
 無邪気に笑う少女はそれを知らない。少女にとって少年は父親の仕事場にいるちょっと変わった少年でしかない。大人たちが少年と箱を何と呼んでいるかも知らない。無知は限りなく美徳に近いものだ。
 無意識に気持ちが顔に出る。
 哀しい笑顔を向けた少年に、少女は眉根を寄せて表情を曇らせた。言葉は通じずとも何となく想いは伝わったらしい。
「ごめん」
 少年が謝罪しても少女に言葉は伝わらない。
「お前の言葉がわかれば良かったんだけどな」
 小首を傾げた少女の手にガラス越しに手を重ねた。
「でも感謝している。まだ大丈夫だって、生きているってわかったから」
 男が少女に声をかけた。手首に巻いた時計を指差す。時間が来てしまったらしい。少女は首を横に振る。すると男は語気を強くする。意味はわからずともたしなめていることくらいは状況でわかる。
「行ってやれ。くそったれなお前の親父のところにな」
 少年の口汚い言葉に男は顔をしかめる。明らかな不快の感情。この男も人間だったようだ。淡々と作業をこなすだけの白衣どもよりは幾分マシだ。反応してもらえることがこんなにも嬉しいのだ。
 今日は発見が二つあった。人間としての自分の再認識と、他者にも自分が見えているということ。言葉が届いているということ。
「ありがとう。機会があったらまた来いよ」
 わからないながらも少女は何度も何度も頷いてみせる。花のような笑顔を見せてくれる。
 ガラスに張りつく少女を男が引き剥がした。軽々とその身体を抱き上げる。聞き分けの悪い娘をなだめながら、少年には一瞥もくれず扉まで大股に歩いていく。
 手を振ると男の腕の中で少女も手を振り返した。この別れの挨拶は万国共通であるらしい。
 二人の姿が鉄扉の向こうに消える。
 じんわりと胸に広がる温かい空気。ガラスの向こうの幼子の姿がまだ目に、胸に焼き付いている。少女の体温によりついた小さな手形はすぐに跡形もなく消え去った。少年はその場所に再び手を重ねる。温もりが伝わってくるような気がした。
 そして独りの意味をもう一度考え始めた。


Next...?

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