■風化
校舎の正面に堂々と立っていた石像はいつの間にか駐車場の隅に追いやられていた。古い御影石に載った創立者の胸像だ。老年期にかかろうとしている顔にしかつめらしい表情を浮かべる口髭の男だ。だけど彼は姿を写しただけの銅像に過ぎず、これ以上にもこれからも歳を重ねることはない。卒業式の前日、僕たちはこれに芸術的な落書きを施したはずだが、すっかり綺麗に落とされていた。
威風堂々と髭をたくわえた顔も、駐車場の片隅ではどことなく淋しく見えた。僕たちの学校の象徴はまたひとつ権威を失いながらもなお、校舎を見つめている。
真っ白で新品の校舎は知らないにおいがする。玄関で掃き替えたスリッパはよそ者の証のようで納まりが悪い。背広を着て来れば良かったと後悔した。制服姿の女子高生は異物を見るような目で僕を見る。ポロシャツに綿ズボンの成年男子は町中では普通でも、学校という場ではあまりにも特異だった。
校舎の二階、左に突き当たったところ。
事務室で教えられた通りに口の中で復唱する。階段を上がったそこでは、男子生徒がイーゼルを立ててスケッチしていた。なるほど、ここからだと校門とその先の並木が綺麗に見える。卒業した後はこれが彼の思い出の景色となるのだろう。僕の思い出とは違う景色に懐かしさを覚えるのだ。
廊下奥の進路指導室はひっそりとしていた。机が四つ並ぶ室内には教師が一人しかいなくて、退屈していたのか、僕が訪問理由を告げるとまずコーヒーを入れ始めた。まだ四十を出たくらいの、在学中には見たことない男だった。痩せた首に緩んだネクタイがぶら下がっている。名前を訪ねるとそっけなく、佐々木です、と名乗った。
「理由」佐々木はドリッパーに湯を注ぐ。「証明書使う目的教えてくれませんかね。興味じゃないですよ。規則なんです。嘘でも形だけでいいです」
嘘でもいいと言われても、こんなところで嘘をつくメリットなんてない。僕は素直に就職と答える。湯を注ぎ切った佐々木は眉根を寄せて僕を振り返った。口に出さずとも「その歳で?」と顔が言っている。それはそうだ。僕の歳で初めての就職なんて、珍しいことなのだから。
「転職なんです。今の会社を辞めて、全然違う仕事に就こうかと思って」
「はあ、転職ですか」
コーヒーの香りは全ての香りを凌駕する。あっという間に室内を満たす。そういえば、よくお世話になっていた化学準備室はいつもコーヒーの香りがしていた。
「それはまた大変ですな。仕事から環境から何もかも変わってしまうわけでしょう?」
そうなるかもしれません、と相槌を打つ。まだ職も決まっていない僕には近い未来の明確なビジョンすら見えなかった。希望よりも先に立つのは不透明な将来への怯えだ。
「私なんて教師になってしまったから定年までこのままですよ。他の仕事に就くなんて感覚はわかりませんし、家族もいるから今更新しいことに挑戦もできません」
レールに乗ってしまった男の呟きはやたらと大きく聞こえた。僕の前にコーヒーカップとシュガースティックを置き、自分はブラックのまますすった。
「変なこと言ってすみませんね。どうにも最近愚痴っぽくてね」
彼がいれたコーヒーはやけに濃くて苦かった。
佐々木から一通の茶封筒を受け取る。厳重に糊付けの上封印されていて、中を見るには破くしかない。
「開けたら無効になりますからな」
気持ちを見透かされたのかと思った。どことなく気まずさを覚え、コーヒーの礼を言って辞した。
「頑張ってください。好きにできるのも若いうちですよ」
去り際の中年教師の言葉は励ましだったのかもしれない。社交辞令というには疲労が滲み過ぎていた。彼のくたびれた背広から漂う使い古された香りがいつまでも付きまとう。新品の校舎に擦れた空気は不釣り合いで、奇妙な目眩に襲われた。
もう夢とか希望とか語る歳でもない。現実を見据え、常に前に進まなければならない。ただ一口に若いと言っても、僕と高校生の間には越えられない大きな隔たりがある。
再び銅像の前に立つ。口髭の男は僕を見ているようで見ていない。僕の身体の後ろ、校舎に視線を向けている。彼はその目で幾多の生徒を見、送り出した。生前も、没後も。
過ぎ去った日々に馳せる想いはあれど、銅像にかける言葉はなかった。言ったところで返ってくる言葉もない。同情を込めて彼の冷たい肩を叩き、校門から僕らの街に戻った。