■金魚

「ねえねえ、次あれやっていい?」
 と、陽二が僕の手を離れて明るい屋台へ駆けていく。待てよ、と言う間もない。決して広くはない神社の境内は、祭囃子に誘われた人々で溢れかえっている。見失わないようにと僕は必死に幼い少年の姿を追う。
 陽二が足を止めたのは金魚すくいの屋台の前だった。一回三百円という札が立っている。客たちが平たく浅い水槽を囲んで座り込んでいた。空色の水槽の中を、小さな朱い魚が、黒い出目金が、赤黒白の鯉の稚魚が泳いでいる。昼の熱が残る夜で唯一、彼らは暑さを知らない。
「これがやりたいの?」
 そう聞くと、陽二は水槽から目を離さずにこっくりうなずいた。
「こんなの初めて見た」
 二年ほど前まで両親とともに海外にいたということを考えれば、金魚すくいを珍しがるのもやむをえまい。そうでなくとも彼にはこの祭で目につくもの全てが初めてで新鮮なのだ。
 僕は少しだけ考える。金魚を持ち帰るのはいいけれど、水槽なんてあったかな。頭の中に隅々まで家を描くものの、どうしても思い出せなかった。逡巡していたら陽二と目が合った。少しだけ下がっている眉尻は我が家系の特徴とわかっていても、こんな時には効果的だ。まあいいか、と僕は尻ポケットから財布を抜いた。
「一回だけだよ。これをおじさんに渡して一回お願いしますって言いな」
 陽二はありがとう、ときちんとお礼を言い、金魚屋の親父に声をかける。弟の陽二は人見知りの気はあるものの、兄と違って物怖じせず、何にでも興味を持つ子供だった。兄弟でこんなにも性格が違うのかと関心して僕は幼い従弟を見ていた。
 筋は悪くないと思う。水面に対して紙を挟んだ枠――ポイとかいう名前がついていたと思う――を斜めに差し入れ、金魚の真下に持っていく。その後は余分な力を抜いて金魚を引き上げるだけなのだが、陽二は気を急かせてしまうあまり無理に引き上げて紙に穴を空けてしまう。
 浸かった水の感触が気持ちいいのか、紙が破けてもしばらくの間枠だけで金魚を追いかけていた。しかしやがて一回だけだったのを思い出したのか、寂しい目で僕を見た。
「一回は一回。約束だろう?」
 うん、とうなずいて見せるものの、水槽前にしゃがみこんだまま立ち上がる気配はなかった。隣にしゃがんでポイを握る幼い少女の手元から目を離さない。陽二よりも二歳か三歳か下の小柄な女の子だった。
「金魚かわいい」
 見つめる目は一点の曇りもなく綺麗だった。
 そんなに欲しいの、と聞くとやはり真剣な顔で頷いた。だって尾びれがひらひらして綺麗なんだもん、と言葉が続く。やれやれとばかりに僕はひとつ溜息をついてみせると、
「大人一回ね」
 店の親父に小銭を渡した。その時の陽二の顔を僕は忘れることはできないだろう。彼がいた場所に腰を落とし、ポイを親指と人差し指で軽くつかむ。予想以上に紙が薄い。ひょっとすると向こう側が透けてしまうんじゃないかと思う。
 静かに手を入れた。水はあっという間に温度を奪い、ひんやりと火照った手を包む。水面に浮かぶ椀を引き寄せ、少し水を汲んだ。さて、と僕は水槽の中でゆっくりとポイを揺らす。水を吸った紙が重い。わずかな動きでも抵抗が大きく、慎重に扱わないとすぐに破れてしまいそうだ。
 さほども待たず小さな魚がつい、と紙の上に泳いできた。白と青と朱のコントラストが目にも鮮やかでうっかりみとれてしまいそうになる。屋台の橙の光の下では、枠の下品な蛍光グリーンですら調和が取れて見えるから不思議だ。
 水に逆らわず、魚にも逆らわず、緩慢とも見える動きで手を引き寄せた。水面に浮き上がった枠の中には金魚が一匹。滑らせるように手元の碗に入れた。陽二が大きな目を更に丸くして僕を見ていた。隣の女の子の目はもっと大きかった。
 紙が破れてだらしなく垂れ下がるまで七匹の金魚を掬い上げた。その頃には僕を見る陽二の目には尊敬の熱がこもっていて、見られているほうとしては照れ臭い。その一方で大人の面目が保てて安心もしていた。
 釣果を袋に移してもらう。小さなビニール袋に七匹はさすがに多かったかもしれない。レンズ効果で一匹一匹が大きく見え、水が朱色に染まっているようだった。陽二に手渡すと、重たそうにしながらも目の前にかざして刻々と変化する朱の世界に見入っていた。こんなにいたらお魚さんも淋しくないねと無邪気に笑っている。
 その彼がふと何かを見つけたような目をした。物言いたそうに僕を見上げ、金魚の袋に目を移すを繰り返す。何だろうと思って陽二の視線を追うと大きな黒い瞳に行き当たった。彼女の手にもやはり水袋が下がっているが、ほんの小指ほどの大きさのが一匹泳いでいるだけだった。一匹もすくえなかった時に貰える残念賞だ。
 ねえ、と陽二が僕の手を引いた。そして小さな声でいいかな、と呟いた。心なしかほんのりと頬が赤い。僕は微笑み、ゆっくりと頷いた。
 そして僕たちは連れ立って次の屋台を物色することにした。お囃子は終わることなくいつまでも続く。祭の夜はまだまだ長い。

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