■nobody will save us
「うるせぇ、やめろ」
獣の首を絞めたかのような軋んだ耳障りな音に、青白い顔の痩せた男――セスは蝿を追うように手を振る。緩慢な動きにも関わらず、指に挟んだ煙草の灰が床に落ちた。
「あなたには音楽を楽しむ心はないんですか」
握っている弓を止め、不愉快な表情を隠しもせずにもう一人の青年が言った。神父の黒衣にバイオリンという姿で青年はセスの真後ろに立っていた。
「音楽なんて綺麗なもんじゃねぇ。お前のはただの騒音だ」
青年を見返りもせずにセスが言う。薄暗い部屋の中で壁に向かい、ヘッドマウントディスプレイを身に付け、手は絶えずキーボードを叩き続けている。
打ち捨てられた廃ビルの一室は人が住んでいるにしては奇妙だった。四角い部屋の片側にガラクタにしか思えない電子機器が積み上げてある他は何もない。流しもなければテーブルもなく、ベッドすらない。もっとも、部屋の主は諦めとともに睡眠を放棄してから長く、眠る場所など必要なかった。家主は大抵電子機器の前に据えられた薄汚れた一人用のソファの上で手を動かしていた。
再び青年が弓を引いた。空に浮かぶ細い月も悲鳴を上げて逃げ出しそうな音に満ちる。セスの鋭敏な感覚はそれを良しとせず、手近にあった古布を耳に突っ込んだ。単調なキーの音とバイオリンの怪音が不細工に重なって不快としか形容するしかない曲を紡ぐ。青年が甲高い音を奏でる度に、セスの傍らの灰皿の山を崩す。そこにまた一本、強引に突っ込んで、新たな一本を取り出さんと胸ポケットをまさぐる。舌を打ち、細い紙巻きの代わりに潰れたパックを出した。
「買ってこい。二ブロック先に店がある」
振り返りもせずにマルボロのソフトパックを青年に投げる。
「私に使い走りをしろと?」
青年の弓が止まると途端に静かになったようだった。ハードディスクが回転する音が、積み上げた機械はがらくたではないとささやかに主張している。明滅するダイオード、旧型の大きな筐体、暗転した画面に時折閃く緑の文字。無数のケーブルが絡み合いながらそれぞれを繋いでいる。もちろんセスのキーボードと頭のディスプレイにも。そして一際太い一本が首の後ろ、ちょうど脊椎に突き立っている。
「冗談のつもりですか?」 底の厚い革靴が赤いパックを踏みしめる。
「この私が、あなたのために『お遣い』なんかに行くと?」
箱の一つがスリットからディスクを吐き出した。セスはマイクロディスクを表裏に返し、確認する。データが書き込まれるとディスクの表面が変色する。シャンパンゴールドがわずかに青みがかり、細い赤筋が円周に一本刷り込まれる。筋は暗号化された証だ。それをケースに納める。小さな円盤だが大切な金のなる木だ。首に突き立つプラグを抜き取り、ひとつ息を吐いてシャツのポケットを探った。しかし指が掴むのは白い布地ばかり。求める物は到底出てこない。
「奉仕の心って奴じゃねえのかよ、クソ神父サマ」
揶揄するような言葉が空気を刺す。
「神父じゃねぇよ」
青年がセスのディスプレイを叩き落した。レンズモニタが割れてセスの白い顔を切り、一筋の紅い線を描く。ぐいと胸倉をつかみ、噛み付くようにセスを睨みつけた。先ほどまでの穏やかな表情からは考えられないほどに鋭く、激しく、禍々しい。
「貴様のせいだ。貴様なんぞがいるから俺は助祭にすらなれないんだ」
セスは表情を変えない。何の感慨もなく青年の顔を見返す。青年が手の甲で血を拭った。よくよく見れば真っ赤ではなく、瞬時に全身が総毛立ち人ではないと本能が感ずる。どす黒く濁った赤、地獄のマグマのような色。拭ったセスの肌は変わらず白い。傷は一瞬で綺麗に完治していた。
「この面汚しが! 俺の邪魔をするな、死者は死者らしく塵へと還れ。心臓を杭で一突きだ、それで貴様は灰に還れ!」
ふと、セスの口元が歪んだ。
「てめぇの出世のために俺を殺りたいってか。はん、この俗物が。それで聖職者とは――甚だ笑わせる」
「黙れ!」
鈍い音をともなってセスの頬に拳がめり込んだ。十字を刻んだ銀の指輪が骨を打つ。幸か不幸か青年の力では頬も歯も砕けず、ただわずかに青痣をつくっただけだった。その痣もすぐに消える。大聖堂の銀十字から作り、聖水で清めた指輪もこの男の前では飾りでしかなかった。
セスは薄笑いをやめない。まったく別の次元から、腹を真っ黒い泥で満たした皐月を見下している。
「信仰心なんざかけらもねぇ。てめぇが一番わかっているはずだ。ノイマンの人間は神なんてもんはこれっぽっちも信じられないんだからな」
青年が再び拳を振り上げる。
「目に見えるもんがこの世の全てだ。人知を超えた奇跡なんてありっこない。全ての事象は説明がつく。祈りは所詮愚者の気休めさ」
振り下ろした――拳はセスの病的なまでに痩せた手に拒まれる。力を込めてもびくとも動かない。
「信じてもいねぇ神に祈りを捧げる気分はどうだ? 教会の寄生虫よ」
ただの人間が吸血鬼の怪力にかなうはずがない。あっさりとはねのけられた青年は床に叩きつけられる。はたき落されたみじめな小蝿のように。
「お前うぜぇんだよ」
そしてセスはディスクをつかむと窓の外――夜の闇に姿を消した。