■no remain, no remember

地獄もかくやと言わんばかりの紅蓮の炎が襲ってくる。あっという間に巻き込まれた右腕は炭と化した。
 舌を打ち、まだ残っている左手の銃を投げ捨てる。回避に専念しようとしたが遅かった。足に二匹の炎蛇が絡みつき、瞬く間に全身を駆け上った。肉の焼ける臭いがたちまちのうちに広がった。焼け爛れた喉では断末魔を上げることもできず、爆ぜる音だけが辺りに漂う。
 あえなく彼は一本の炭柱となり、熱風に煽られて脆く崩れ去った。

 耳朶をくすぐる電子の音。血液の代わりに身体をめぐる0と1の奔流。ひっそりとついた溜息は虚構の奥でやはりひっそりと処理される。
 そして電子の流れの中で、人の物ではない呟きを聞く。

『再構築完了』

 横っ腹が痒い。しかも鉛のように重い。重すぎて、地面に縫い止められているのかと勘違いしそうなほどだ。身じろぎし、鈍い痛みを感じてうっすらと目を開ける。カプセルの中に横たわっている、と直感的に理解した。かつてこの世界で目覚めた時にも入っていた、棺桶上の金属容器だ。今はつるりとした半透明の蓋は完全に開き、彼の眼前に白い天井を晒していた。
 そこに、のしかかりそうなほどに傾いた影があった。咄嗟に頭を庇おうと腕を上げるが、影は微動だにせず、傾いたままそこにあった。それは十字の錫杖だった。肋骨が浮き出る腹を貫き、しっかりと地面に根を下ろしている。木製のそれにはご丁寧に彼の名前が刻まれ、その下にわざとらしいほど大きく「塵へと還り、ここに眠る」と添えてあった。名前はセカンドネームまでしかなかった。長年付き添ってきた名前も、ファミリーネームがなければ自分の物でないように思えて納まりが悪い。
 眠っていたのだろうか。夜の住人となってから長い間眠りを忘れていたというのに珍しいこともあるものだ。だが覚醒の爽やかさは全く無い。ずっしりと頭の中に残る重みには不快という言葉こそ相応しい。どうにも混乱している記憶を並べ替え、遡り、そして炎に包まれた光景に辿り着く。何度目になるかわからない死を迎えていたらしい。
「起きた?」
 ぬっと横から顔が突き出てきた。金色の髪が垂れてこちらの顔にまでかかってくる。大きなサファイアの瞳がじっとこちらを見つめていた。いつものように紅い瞳に不機嫌を浮かべて睨み返すが、少女は物怖じせずにセスの目蓋をぐいっと押し上げた。
「ん、瞳孔もくっきり。ちゃんと復活したみたいね」
 そう言う少女の手を無造作に払い除けたものの、本人は特に文句も言う気配もない。ただ満足そうにセスの全身を嘗め回すように検分している。
「これごめんね」白い手が指差したのは木杖だ。「止めたんだけど、サツキさん、全然耳貸してくれなくって」
 言われずとも想像に難くない。あの神父はここぞとばかりに屍に鞭打ったのだろう。転がっていた木杖に名を刻み、狂ったような勝ち誇った笑い声をあげながら高々と杖を構え、嘲笑に祈りの言葉を交えて突き立てたのだ。耳の奥で鳴り響く不愉快な声。想像するだけで眉間にしわが寄った。
「絶対殺す」
「そんなこと言わないでよ。ほら、復活だってできたしね。これってきっとサツキさんのちょっとしたお茶目なんだよ」
 どんなに寛容な目で見ても、この仕打ちは悪意以外の何物でもない。なのに、
「だって身内でしょ」
 そんなことを平気で口にする。たとえどんなに殺気がみなぎっていようとも、神父とセスの様子は少女にはどこまでも遊んでいるようにしか見えないらしい。純粋な瞳は、血縁同士が本気で憎み合うはずがないと信じている。正視に堪えられず目を逸らした。
 セスと彼女では住んでいた世界が違いすぎた。
「知らん」
 再び身をよじって腕を伸ばし、木杖に手をかける。肉を割いて生えるそれは、一歩間違えれば再生の折に肉体と同化するところだった。毛細血管が杖の表面にまで張っている。クソ神父、と心の中で毒付き、奥歯を噛み締めながら引き抜く。杖に貫かれた赤い腸がずるりとはみ出して血が溢れ出した。地面を流れていく赤黒く濁った血。常人よりも遥かに粘性の高いそれは、静かに血溜まりを広げていく。
 ぐらりと視界がぶれた。強い眩暈と痛みに頭を抱え、今更のように喉の渇きを覚える。もっと赤くて、もっと新鮮で、もっと甘い香りのするそれが必要だ。水よりも濃く、酒よりもかぐわしく、冷えた身体には暖かすぎるほど。枯れた喉をそれで満たして潤さなければならない。生きるために体液を補給しなければ、交換しなければ、永遠の死が、ここよりもずっと暗くて深い淵の奥に、星辰の彼方の暗黒の、身体の中で眠る、闇に生きる眷族、支配を――
「セスさん?」
 瞳孔と白目の境がわからないくらい真っ赤に充血した目に瑞々しい肌が映った。下ろした長い金髪に見え隠れする細い首筋。白いうなじに歯を突き立て、皮を破り、甘美なるそれを心ゆくまで味わう。幻想ではない。目の前にある。手を伸ばせば届く。そっと触れ、耳元に口を寄せ、囁けばいい。実に簡単なことだ。
 渇望して全てを見失ったとしてもそれは生きるためのこと。本能に根ざした純粋なる欲求。
「セ……」
 少女を組み敷き、見た目以上に細いことを知る。手首を掴む自分の手が無闇に大きく見えた。こんなに近くにいたではないか。ああ、何故今まで気付かなかったんだ。
「大人しくしてろ」
「や――」
 鼻をくすぐる生命の甘い香りがセスの真芯を揺さぶり、歓喜へと導いていく。赤く濡れた口の中で鋭い歯が光る。出会った時にどうしてこうしなかったのか。そう、実に簡単なことだったのだ。こんな穴倉に放り込まれる前はいつもいつもこうやって食事をしてきた。あの頃の勘が蘇る。捕食者と餌の間には何もいらない。食うか食われるかという道理さえあればいい。だから――
 ふわりと鼻先で金髪がそよいだ。綺麗なハニーブロンド。陶器のように白い肌。そこに口を寄せる自分。全く同じ物が脳裏に閃く。前にもこんな光景を見たことがある、と僅かな声で理性が囁いた。
 高層建築が立ち並ぶ摩天楼の足元、切り取られた青空しか見えない濃い影の中で抱きすくめた小柄な体躯、柔らかく鼻をくすぐる金色の房。細い肩に載せられた筋張った手は大きすぎた。そんな手で自分は何をしようとしたのか。

「いや――!」
 一際甲高い声が耳を貫くと同時に、脳味噌が揺れるくらいの衝撃に襲われた。

 目蓋の裏で弾けた光を振り払い、我に返ると倒れているのはセスのほうで、組み敷いていたはずの少女の姿はどこにも見当たらない。代わりに傍らにいたのは、少女とは似ても似つかないサラリーマン然とした男だった。
「自分の名前言えるか?」
 力任せに叩かれ軽い脳震盪でも起こしていたらしい。意識障害を懸念してか、次々と質問を浴びせてくる。そんな男を、
「うるさい、ボケ」
 とセスは一蹴した。それで男が納得した様子を見せたのがまた不快だった。
「首が吹き飛ばなくて良かったね」
 眼鏡の奥に苦笑を浮かべ、憮然とした顔で天井を見上げるセスに冗談めかして言う。
「リフィさんなら外で整備してるよ。どうする? 今のうちに謝っとく?」
「知らん」
 仰向けに寝ていると後頭部が痛くてセスはごろりと横を向いた。頭の後ろを触るとコブが出来ていた。
「君ならそう言うと思った。ちゃんと謝んないと駄目だよ。あの子だって女の子なんだからね」
「ただの女が野郎を突き飛ばすか、阿呆」
 説教臭い言動に反論するが、そう、なまじっか冗談と笑っていられないのも事実。あの娘は見た目によらず腕力があるのだ。普段から斧だの大剣など振り回している姿は、そこらの男どもよりも力強く様になっている。我が強く単独行動が多いセスや神父がここに留まっているのも、半分は彼女への恐れがあるからかもしれない。
 もっともセスはセスで普通の人間とは身体のつくりが違う。首が千切れ飛べば人間にとっては絶命する大惨事だが、セスならば胴と首を繋げればいいだけの話だ。ただ、身体の再生にはかなりの量の血を使う。補給もままならない今はできるだけ余計な血を使いたくなかった。
 まだ喉は渇いている。だが、少女を思い浮かべても、もうあの貪欲な食欲は湧いてこなかった。ただ食いそこねたという心残りがほんの少しだけへばりついていた。随分長く生血を飲めない日々が続いている。
 空の手に赤いパックが載っていた。たぷんと中で液体が揺れる。
「足りてないんだろ」
 何でもお見通しと言いたげな眼鏡が光を反射する。それを眉根を寄せて見返した。敵わないとは思わない。ただ、この男にだけはどうしても苦手意識のようなものがある。
「礼は言わねぇぞ」
「そんなの期待してないって前にも言ったろ。元気になったら仕事に戻りなよ。四人揃ってないとバランス悪くて大変なんだ」
 手を振りながら去る男の背に声をかけようとして思い留まる。今、自分は何を言おうとしたのだろう。罵声か? 感謝か?
 カプセルの中で上半身を起こし、パックを乾しながら金色の髪に思いを馳せる。かつていた世界で出会ったはずのそれ。面影はすっかり薄らぎ、今となってはどんな顔をしていてどんな関係だったのか思い出せない。一度はこの手でかき抱いたのだろうか。それとも極端な飢えが見せた幻影だったのか。渇きが癒えればそんな気の迷いもなくなる筈と自分に言い聞かせるものの、頭の隅にこびりついて離れない。
 口を拭う。土気色の顔に唇だけが異様に赤い。投げ捨てたパックが壁に当たって朱線を描き、床に落ちた。しばしそれを見つめていたが、ただ無為に時を過ごすだけとカプセルから出た。身体とカプセルを繋ぎとめていた細い電極がぱらぱらと落ちた。部屋の片隅に畳んで置かれていた服を纏い、拳銃を腰に差す。
 明日を待たずに狂想を払え。迷えばまた命を落とすまで。

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