■nothing is in your hands

 果てしなく続く迷宮がそこにある。
 見上げたそこにはどこから来てどこへ向かうのかわからないパイプが縦横無尽に駆け巡っている。高くもない天井はどこまでも続く。かつて皆が見ていたであろう空はすっかり覆い隠されている。
 流れる廃液。生成される光化学スモッグ。おおよそ人の住む環境とは思えない。淀んだ空気に顔をしかめる。
 ガラクタを寄せ集めたような迷宮は無尽蔵に増殖し、変化していく。絶えず形を変えているため、昨日歩いた道がすでに見慣れないものとなっているのもざらだ。成長を目的として成長していく、無機物の楽園。
 その中で『契約』により目覚めた人々は知らず迷宮へと誘われる。底に何があるのかすら知らず、誘蛾灯に惹かれるように階下へ潜る。降りても降りてもそこに広がるは瓦礫の山と闇よりなお黒い天井。
 階段を降りるごとに深くなる絶望。まだ続くのかと溜息を繰り返す。それでも心のどこかで希望だけは捨てていない。それが生物である所以。生物であるからこその強さ。
 二つの足を持つあらゆる生物は、果てを求めて深淵へと向かう。いつか光が見えることを信じて。


 44マグナム弾が唸りをあげ、化物の体を貫く。巨大なトンボ様の化物は聞くに堪えないうめき声をあげながら失墜する。顎から漏れた炎の残滓が主の後を追い、細い糸の尾を引く。そのまま瓦礫に頭蓋を砕かれ、醜い色の体液を撒き散らしながら動かなくなった。
 手の中から鉄塊のごとき拳銃が抜け落ちた。セスはそれを拾おうとして屈み、視界が眩む。ひとつ舌打ちし、瓦礫の壁に背を預けて地面に腰を下ろした。
 血を流しすぎた。左の横っ腹から腿にかけてごっそり肉が抉れている。目をこらせばおそらく内臓も見えるだろう。半分焼かれているため血は止まり始めているが、彼の赤黒い血液はいたるところに飛び散っていた。ただの人間であれば間違いなく絶命しているであろう怪我だ。どこかで上腕に続く神経にも触ったのか、左腕が麻痺して動かない。諦めてだらりとわきに垂らしたまま息をついた。
 辛うじて動く右腕で拳銃を引き寄せ、空になった弾倉を抜く。予備弾倉も尽きた。補給に行かなければならないと頭では理解しているが、体はまだ言うことをきかない。ひたすらに広がる鉛色の地面と空。補給所は見える範囲にはない。
 肉の焼ける匂いと血の匂いと硝煙の匂いが混じって鼻を刺激する。血も銃もセスの生活の上には絶えないものだが、こればかりは何年経とうが慣れなかった。殺しあうだけの空間、むせ返るような戦場の匂いに顔をしかめる。
 尻のポケットを探る。赤いマルボロのソフトパックはほとんどが千切れ飛んでいた。辛うじて一本は原型を留めていたものの、フィルターまで朱に染まっていた。やむをえない。セスはそれを唇に挟み、今度はライターを探して取り出す。いつの間にか持ち歩いていた銀のジッポーライターは、元々自分のものだったか、貰ったものだったか、全く憶えていない。鏡面仕上げだったはずのそれはすっかり傷だらけになっていたが、特に変えようとも思わなかった。使えればそれでいい。
 ヤスリを擦ろうとして取り落とす。右手にも力が入らない。しばらく力なく開いた右手を見つめていたが、不意に自嘲の笑いが浮かんだ。本当に血を流しすぎた。たとえ不死と呼ばれる存在であろうとも肉体に限界はある。無から有は生まれず、有は失って無となる。これで死ねるならそれもまたいい。人の世にいてはならない存在に相応の末路だ。
「まだ生きてる?」
 と、目の前に火が現れた。顔をあげるとそこには嫌になるほど見飽きた顔があった。戦場だというのに、背広にネクタイのサラリーマン然とした男だ。きちんとアイロンが当てられた服は煤けてはいたものの、まだしっかりと折り目を保っていた。本人は形状記憶繊維がどうとか言っていた覚えがある。
「生きていて悪かったな」
 言いながらセスは煙草に火を移した。ぼんやりと点ったことを確認すると肺いっぱいに煙を入れる。煙は自分の血の味がした。吐き気がするほど不味いが贅沢も言っていられない。
「遺言があるなら聞いてあげるよ。遺すような物も無ければ、遺す相手もいないだろうけどね」
「俺がくたばればクソ神父は大喜びだろうさ」
 吐き捨てるように言う。その目の前に赤い物がぶら下げられた。液体で満たされた半透明のビニールパックだ。見た瞬間、身体の芯が疼いた。
「何だこれは」
 それがあることが、男がそれを持っていることが信じられず、中身がわかっているのに聞いていた。
「医療用輸血パック。それともこっちのほうが良かった?」
 その言葉とともにパックの横に現れたのは一本の缶だった。金色のラベルに東洋の文字で何やら書いてある。複雑な意匠も相まってセスには全く読めなかったが、下の方に小さく書いてある『BEER』の四文字だけは読めた。
「他人の情けなんざいらん。こんなの勝手に治る」
「そりゃいつかは治るだろうけどね。そのいつかを待っていられるような悠長な時間はないんだよ。諦めて回復に専念してくれ」
 正論だった。また舌打ちしながらも黙って顎でパックを指した。ご丁寧にもストローを挿した状態で差し出される。血の味しかしない煙草を吐き捨て、ねっとりとした生温かい血液を口に入れる。保存状態があまり良くなかったのだろう。苦味が伴ってまずくなりかけていたが、我慢できないほどでもない。体はやはり欠乏したそれを激しく求めていた。停滞しかけていた血が流れを取り戻し、傷を塞がんと左半身に集中する。傷口が熱い。熱をもった肉が増殖し、膨れ、元の姿を形成すべく盛り上がっていく。
「まさしく命の水だよね」
 男は隣に腰を下ろし、缶のタブを起こした。白い泡に口をつけて旨そうに喉を鳴らす。
「この一杯のために生きているようなもんじゃないの」
 ネクタイを緩めながら笑った顔には屈託がない。今まで見たことのない顔にセスはいささか面食らった。
 スーツはサラリーマンの戦闘服だと言っていた。相手に見くびられないようにネクタイを締めるのだと。そのスーツで武装した男が、よりによって自分の前で無防備な素顔を晒している。こんな馬鹿がいるかと心の中で呟くが、そんな馬鹿は現に今、目の前にいる。
 煤けた眼鏡の中に満足げな表情を浮かべながらまた一本、懐から取り出して開けた。どこから持ち出したものかと訝しんでいると、「リフィさんには内緒だからね」などと悪びれもなく言う。たしかにこのフロアのどこかにいるであろう金髪の少女に見つかったらうるさそうだ。だが、もとよりセスには告げ口しようなどという心積もりはない。金にならなければどんな行動も彼にとって意味を成さない。これまでもそうだったし、これからもそのはずだ。それだけに、見返りも期待せずに自分を助けようとする男の心が計り知れなかった。そんな人間は、セスの中では真っ先に死んでいく種類の人間だ。
 そもそも、足を引っ張るような奴、簡単にくたばるような奴は誰であろうと無視して置いていく。最初にそう告げたのはセスで、それでもいいと承諾したのは彼らだった。
「あんまりアホ面晒してっと食うぞ」
「妻子持ちのオヤジなんてまずいだけだよ」
 威嚇の言葉は軽く流される。セスの荒れた口調とは対照的に、言い返す声にはおおよそ緊張感というものがなく、どこまでも飄々としていた。噛み付くほうが馬鹿らしく思える。それこそが企業勤めの人間の処世術であり、かつて自分もそれで随分と肩透かしを食らっていたことを思い出し、軽く睨む。
 どうしても背広の人間の前では自然と身体が強張る。この迷宮に降り立つよりもずっと前、人には言えないような仕事をしていた頃。客の大半はどこかの企業の人間で、取引は相手の底を読むことから始まっていた。奴らは本当のように嘘を言い、冗談のように真実を語る。素直に聞き入れて馬鹿を見たことも少なくない。もっともこの男の場合はどうにも素であるような節もあり、それがまたセスを迷わせる。
「好きにしろ。俺は知らん」
 最後の一口を嚥下すると、空になったパックとストローを瓦礫の向こうに投げ捨てる。転がしておいた弾がないデザートイーグルを腰に差し、傷が疼く半身を押さえながら覚束ない足取りで歩き出す。
「まだ再生してないんじゃないの。ロクな武器もないのに独りでうろつくのは危ないよ」
 わずかに赤らんだ顔の上の眼鏡を押し上げ、男も立ち上がる。見れば胴がへこんだ缶が二本転がっていた。緩んでいる目尻を睨みつけ、
「構うな。てめぇはてめぇの仕事をしやがれ」
 調子が狂う、と奥歯を噛む。鋭い歯先が柔らかい口腔を裂いて血が滲んだ。唾と一緒に吐き出してもやはり味は舌に残る。
 そういえば最後に酒を飲んだのはいつだっただろう。味は甘かっただろうか、それとも苦かったか、辛かったか。味すら忘れるほど遠い過去は、思い出そうにも霧がかかっていてはっきりしない。あの頃はまだ人間だったはずだ。今ではもう口をつける必要も無いし、そんな気にもなれなかった。
 今は今だ。口の中で呟き、セスは補給所を探して歩いていく。ぎし、と骨が軋んだような音がしたが気にしないことにした。とっくの昔に死んでいたはずの体はこうして動いている。生きているとは言い難い状態だが、まだ動くならば壊れて止まるまで動き続けてやろう。
「あまり無茶なことされると、こっちが見ていられないんだよ」
 文句を垂れる男を、隈が浮いた濁った目で見やる。この男のように生きる意味や生き甲斐もない。無為な存在と言われればそうなのだろう。まさしくセスは生ける屍だ。
 砕けた骨が伸びる。神経と血管が絡み付く。筋が張り、肉が盛り上がる。皮が広がる。半身が痒い。耳の奥で身体が再生する音がする。車輪が回る音にも似ているし、水が流れる音にも似ていた。その微かな音に耳を澄ますが、瓦礫を蹴る足音に消えてしまう。
 不意に自分が立てたのではない音がした。びくりと身体が歩みを止める。咄嗟に男を振り返るが、肩を竦めて首を振るばかり。では誰だと前に向き直ると、全身が毛に覆われた二足の獣が立っていた。大きく突き出た鼻に尖った耳。黄色く濁った目玉は視線が定まらず、二人が見えているのかどうかすら怪しい。つぎはぎのボロ服を纏い、牙の間から腐臭漂う涎を垂れ流していた。腐った身の肉が申し訳程度についているくらいで、真っ白い骨がそこかしこにあらわになっている。コボルト、それも一度命を落としてから邪法により死傀儡となったコボルトスケルトンだ。
 化物が牙を向いてセスに迫る。鋭利な牙は痩せた歯茎ではなく、顎の骨から直接生えていた。セスは腰のデザートイーグルを抜き、安全装置の解除まで一挙動で済ます。構え、そして引き金を引く。だが、耳をつんざく轟音は響き鳴らず、軽い手応えに弾切れを思い出す。その一瞬が命取りだ。銃を捨て、自前の鋭い爪を構えるが、白骨を覗かせたコボルトの醜い顔はすぐそこにある。
 幾度も死線をくぐり抜けて来たセスにも焦りが浮かぶ。油断がすぎた。避けてみせるつもりではあったが、半分も回復していない身体でどこまでできようものか。
 風を切る音が耳を掠めた。錆だらけの剣を振り上げたコボルトの体が後ろにのめる。その額には深々と一本の矢が突き立っていた。
「丸腰じゃ危ないって言ったじゃないか」
 振り返ると、男が弓を構えてそこにいた。尺が長い和弓だ。どこにそんなものを隠し持っていたのだろうと思ったが、再び矢をつがえる姿を見て我に帰る。コボルトはまだ動いていた。筋繊維が垂れた腕で矢を抜くと、黒々とした小さな穴が覗く。そこから白い虫がこぼれ落ちた。セスは男の矢が弓を離れるよりも早く、今や鋭い凶器と化した五本の爪で頭蓋を払う。あっさりと取れた首はボールのように転がり、目まぐるしく回り動く世界を虚ろな瞳で眺めていた。頭を失った身体は勢いをつけた回し蹴りで薙ぎ倒し、返す足で肋骨を踏み砕く。脆くなっていた骨はあっさりと粉と化した。すでに死んでいた者は完全に黄泉へと返った。断末魔はない。
「僕がいて良かっただろう?」
 得意げに胸を反らす。片手で持ち上げた眼鏡が反射して光った。
「知らん」
 素っ気なく返してセスは足を二、三度振った。靴底にへばりついた腐肉がどこぞへ飛び散る。血を得られなくなり、身体が崩れていけば自分もこうなる。
 死と隣り合わせの毎日は嫌でも生を実感する。
 穴だらけのシャツを捨て、落ちていたコートを拾いあげて羽織る。コートもだいぶボロだったが着ていたシャツよりはまだいい。ポケットの中にひしゃげた未開封の煙草パックが入っていた。見たことがない銘柄だった。開けてみれば、曲がってはいるものの吸えないこともない。よじれを直して唇に挟む。ライターを探していると、またも横から火が現れた。
「礼は言わねぇぞ」
「期待してないからいらないよ」
 軽い返事に気が削がれ、セスは舌打ちして煙草に火を点した。紫煙がゆらりと立ち上り、細い煙を目で追うと黒い天井にぶつかった。何の目的で何を運んでいるかわからない配管が天を覆い尽くしている。頭の遥か上にあったはずの空はこの世界にはない。陽光で灰と化す心配はないが、時折月が見たいと思うことがあった。闇に生きる者たちを静かに見下ろす、あの夜の女王の姿を。
 「契約」という言葉が脳裡を過ぎる。求めてもいないのにいまだ生き続けているのは、その契約とやらのせいらしい。セスだけではない。地下へ向かう人間全てが「契約」の下に生きている。生きて、何かを求めて歩んでいる。いや、正確には生かされているといったところか。
 俺は何を望んだ?
 こいつは何を望んだ?
 自問を繰り返しても答えは返ってこない。自分の中にあるはずの答えは見つからず戸惑いだけが裡に残る。おそらく答えはこの殺伐とした日々の果てにあるのだろう。奥に鎮座するという狂った神が皆の答えを抱えている。問えば神託を授け、導いてくれるのだ。そう信じ、セスも男も今は自前の足で進んでいくほかにない。
 深淵の果てにあるのは栄光か絶望か。まだ見ぬ神に、結末に、辿り着くのはいつの日のことか。

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