■家族ドラマ
胸に当たるカルテは体温ですっかり温まっていた。薄い板を握り締める手が汗ばみ、気持ち悪い。仕事だから立っていることは何でもない。ただ、そこにいるのがとてもいやだった。
夕暮れの室内を、貧弱な蛍光灯が照らし出す。例外なくすべての人の顔に影が落ち、顔色悪く見えた。目の下に大きな隈が現われ、こけた頬はより痩せた。疲れた後れ毛だけがやけにはっきりと見えた。
白だったはずの壁は時を経て茶色に染まり、室内をより一層暗く見せた。みなどこかしら身体を悪くしているようだ。この不健康な光景がたまらなく嫌だった。
それでも、職務上の理由から千里はそこに立っているほかなく、奥歯を噛み締めていた。
ベッドの上には盛り上がったシーツが一つ。取り囲むのは年配の男女が一人ずつ。
男のほうは典型的な中年男だった。腹がたるみ、顎が二重になり、四角い眼鏡をしていた。どこの会社にも一人はいる。大学を卒業した後は無難な会社に入り、急にありふれた性格になる。好きなものは酒と煙草。そこそこの年齢でそこそこの地位に就き、上には甘いが下には厳しい。部下にはあまり好かれない。そんな感じの男だ。背広の前を開けているのは腹が苦しいからだろう。ベルトでようやく押さえつけているような腹だった。
一方、女のほうは地味としか言いようがなかった。内弁慶な旦那の言うことを従順に聞き、挙句の果てに見合いだから、と言いそうだ。社会を知らず、家庭のことしかできない不器用で古いタイプの女だ。痩せた顔は皺と染みだらけで実年齢より一回りも歳を取って見えた。白髪が混じったぼさぼさの髪をゴムでまとめ、サンダルをつっかけている。着飾ることを忘れた、生活に疲れた女だった。
よくある日本の夫婦像だった。
男はシーツに向かってわめき散らしている。女は目頭をおさえてすすり泣いている。
顔を見せろ、と怒鳴って男がシーツを剥がした。その下に、少年期を抜けたばかりの青年が縮こまっていた。少年は光に驚き、怯え、そしてシーツを求めた。両手が男の持つシーツを探り求める。自分を庇護してくれるたった一枚のいとおしいシーツ。男と青年がシーツを引っ張り合う。女に似た貧弱な顔つきが、その時だけ赤く必死に染まった。両手首に厚く包帯が巻いてある。
若さの差か、青年がシーツを勝ち取った。ばさりと翻し、元のように包まった。もちろん、四隅はきっちりと握りこんで。
男が叫んだ。
育ててやった恩を忘れたのかお前がここまでこうしていられたのは誰のおかげだと思っている父さんも母さんも期待していたんだぞお前のためにと思ってがんばってきたんだ毎晩毎晩好きで残業していたと思うのかすべてお前の将来のためなんだそれがいまはこのざまだこの親不孝者がお前なんか息子なんかじゃない息子だと思っていた俺が間違っていたのか
醜悪としか言いようがなかった。押し付けがましい傲慢な言葉が、辺り構わず撒き散らされる。人間の愚かさがこうまで露呈されると、他人といえども目を背けたくなる。
古いドラマを見せられているようで気分が悪かった。
昨夜、青年は救急で運ばれてきた。大量の薬物服用による意識混濁、加えて両手首裂傷からの大量失血。もともと色白な顔が一層蒼白になっていた。ぐったりとしたまま青年は緊急治療室へと運ばれ、そのまま入院した。
付き添っていた母親のほうが死にそうな顔をしていた。髪を振り乱し、泣きじゃくり、看護婦にすがりつき、絶え間無く息子の安否を問う。救急車を呼ぶまでの経緯を尋ねても、全く要領を得なかったらしい。母親をなだめ、それまでの青年の様子を聞き出せた頃には、夜が明けようとしていた。
千里が夜勤の看護婦と交代した時には、抜け殻のようになった母親がいた。病院の硬い長椅子に背を丸めて腰掛けていた。一晩で人はここまで憔悴してしまうのだろうか。とても小さな姿だった。
数時間後、出張先から舞い戻ってきた父親は、母親の肩を抱くようなことはしなかった。まずしたことは、母親への責任追及だった。
血塗れの浴槽に横たわっているのを母親が発見したという。交代の時間に婦長が話してくれた。
青年は睡眠薬を大量に飲み、手首を切ったのだ。なんて陳腐な話。容易く想像できる。
たかだか一回、大学受験に失敗したくらいで。
両親の価値観を絶対と信じ、両親の言うことを従順に守っていた青年。両親も期待していた。しかし、両親が敷いてくれたレールの上を歩いていた青年は、うっかり脱線してしまった。それだけのことだ。
どれだけ期待しようとも、自分たちの息子なのだ。限界は知れていたはずだ。本人の能力を超えた過度の期待は、大人になりきれない青年には重すぎた。重量オーバーで踏み外した。
脱線したらどうしていいかわからない。レールから外れて横倒しになり、青年はそのまま考える。自分で立ち上がることができない。自分でレールに戻ることができない。それとも、下りてしまったら戻ることはできないのか。
ああ、このままでは怒られる。父親の声が聞こえる。
人生の落伍者と。
青年は恐ろしくなった。絶対の存在である両親から自分自身が否定されることがたまらなく怖い。否定されたら自分は何者なんだろう。もはや両親の息子ではないのだろうか。これからどうすればいいのだろうか。
そして青年は思い詰め、死を選んだ。
まだ若いのにね。青年の主治医はそう呟いた。千里には、暗に愚かだと言っているように聞こえた。
人の一生は短いようで長い。やり直そうと思えばできるはずだ。たった一度の失敗なんて怖くない。大学に落ちたなら、もう一度来年挑戦すればいい。次も駄目だったなら改めて先を考えればいいことだ。
しかし、挫折を知らなかった青年は立ち直る術も知らなかった。
脆弱な肉体には脆弱な精神が宿っていた。
そういう風に教育した親が悪いのか。反発しなかった子供が悪いのか。
今は親の顔色をうかがって成長する子供が多いという。一方、子供に押し付けるのがいいと思う親が多いという。
千里は眉間に皺が寄っていることに気付き、顔の筋肉を緩めた。
ベッドの傍らに釣り下がっているカーテンだけがやけに白く見えた。関係ないとでも言うようにゆらゆらと揺れている。柳の下のお化けを思わせる姿がこの場に似合わず、滑稽だった。
男はまだ怒鳴っている。女は泣くばかりで、顔を上げようともしない。青年がかぶるシーツが大きくぶるぶると震えていた。
場末の映画館で見る古い日本映画とはこんな感じなのだろうか。つまらない原因、同じことの繰り返し、客はほとんどいない。カラカラとフィルムを巻き切る音がしたら、切符を切りに男が出てくる。そしてまた最初から同じ映画を上映する。飽きもせずによくやる。
ボールペンの先で頭を掻いた。主治医は他の患者を理由にして、とっくに病室を出て行った。出て行きたくても出て行けない。千里は壁際に立ち、だらだらと続く通俗的な家族ドラマを見ているほかなかった。