■冬の林檎
それはとても寒い日の帰り道のことだった。
「こんにちは」
にこりと笑ったおにいさんがそう言った。つられて私もにこりと笑い、
「こんにちは」
と返した。
「寒いですね」
吐く息が白い。
「ええ、寒いですね」
私はマフラーを巻き直し、あたたかいコタツを想う。
「八百屋さんですか」
おにいさんの前に並んだ色とりどりの果物はどれもこれもみずみずしい。
「うちは果物だけです」
遅い秋の果物と、早い冬の果物が並んで通行人を眺めている。
「林檎」とその人が言った。「林檎買いませんか」
「林檎ですか」
「ええ。この林檎、あと二個だけなんです」
ソフトボールほどもある随分と大振りの果実だった。
「味は保証します。何しろ僕が大切に大切に育てた木から取れたものですから」
「ふぅん」
買う気がなかった私はそんな気の抜けた返事をした。
「ビタミン豊富ですからお肌にもいいですよ。乾燥するこの季節にはちょうどいい」
懸命に勧めてくる。つるりとした皮の赤い果実が、おにいさんとともに私を見上げていた。
「そんなに熱心に言うなら自分で食べればいいじゃないですか」
「いや、まいったな。そう言われてしまうと弱いですね」
毛糸の帽子の上から頭をかく。
「僕は僕がつくった林檎を皆さんに食べていただきたいんですよ。在庫を処理したいとかそういうことではないんです」
「ふぅん」
ぼんやりとした街灯が闇の中に私たち二人を浮き上がらせている。八百屋の男と仕事帰りの会社員。まるで古い映画のワンシーンのようだ。
「ふぅんって気が抜けるなぁ。食べてみようという気持ちもおこらないんですか」
「なくはないんだけどね」
気のない私に呆れつつ、おにいさんはついには林檎を二つ、紙袋に入れて押し付けてきた。
「お代は結構ですから食べてみてください。本当においしいですよ」
にこりとした顔にまたつられて私も微笑む。
「ありがとうございます」
「いえいえ。こちらの押し付けですからお気になさらず」
吹き抜けた一陣の冷たい風に首をすくめる。雪がふるかもしれない。
「よい夜を」
乾いた紙袋の隙間から漏れる甘酸っぱい香り。胸いっぱいに吸い込むと懐かしい風景が見えたような気がした。