天使病・ゼロ

 てんし 【天使】

(1)ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などで、神の使者として神と人との仲介をつとめるもの。ペルシャに由来する思想とされる。エンジェル。
(2)やさしい心で、人をいたわる人。女性についていうことが多い。「白衣の―」
(3)天子の使者。勅使。

(『大辞林 国語辞典』より)

1.

 昔は天使が綺麗だと言われていたらしい。どのくらい昔なのかはわからないが、少なくとも僕の父の祖父、つまり曾祖父が生まれる前まではそうだった。天使は神の使者、想像上の存在。その頃の人間の頭の中にいた天使はとてもとても美しかった。光り輝いていた。そんな話を祖母から聞いた。そして、それを裏付けたのが、中学生の時の美術の授業だった。美術鑑賞の時間で、何百年も前の宗教画を見た。描かれた天使は、たしかに美しかった。純白の羽に、純白のドレス。頭上には光の輪。天から降り注ぐ神々しい光の中から現れ、人々に語りかける。人間と酷似しているが、全く異なる存在だ。その姿は、誰も見たことがないのに、みな同じだった。みな同じイメージを持っていた。想像物であるはずなのに、天使は同じような姿と印象で、当時の人々の間に浸透していた。
 僕が知っている天使は、そんなに綺麗なものじゃない。
 白い天使は常に静寂にとともにある。静寂の中で声を出さずに泣いている。泣き止んだかと思えば、わずかに光の差す小窓から空を見上げ、また泣く。泣き疲れると、うつ伏せになって寝た。天使達は狭い部屋の中で、それを繰り返している。姿形は、たしかに昔の想像上の天使と合致するところがある。その背中には、白い、鳥のような翼が生えていた。翼の大きさはまちまちだが、純白な羽毛は全ての天使に共通していた。そして、白い服を着ていた。翼を痛めないように、背中のところが大きく開いている服だ。これは支給されるものであり、僕が見る天使は全てこの服を着ていた。もっとも僕自身、天使を見るのは扉の小窓から、ということがほとんどだった。そして、天使には性別があった。想像上の天使は中性であり、男でも女でもないと言われていた。天使は神から生み出されるものであり、生殖の必要はないとでも思われていたのだろう。だが、僕が知っている天使はみな、男か女であった。勿論、生殖活動も可能であるはずだ。
 彼ら天使は人間だったからだ。
 人間から生まれ、人間として育ち、人間としてその生を終えるはずだった、人間だった者達だ。
 今、彼らの背には翼が生え、狭い部屋に入り、一日を泣いて過ごす。他にすることはない。何日かに一度、何人かが白い服を着た人間に連れて行かれることもあった。連れていかれた後は、帰ってこなかった。数日後には開いた部屋に別の天使が入った。僕はそんな様子を飽きるくらい、何度も何度も見た。最初は珍しくて色々と興味を持ったけど、興味もしばらくすれば失せた。天使は珍しくもなんともなくなった。狭い部屋が集まるここに来ればいつでも見られるのだし、ここは僕の職場の一部でもあった。
 人間の背中に翼が生える話は聞いたことがある。数十年前に発見された病気だ。肩甲骨にできた腫瘍が肥大化し、盛り上がっていく。そして、腫瘍が割れ、そこから翼が現れるという。この病気はウィルス性だったようで、当時は一部地域で流行したらしい。しかし、ワクチンの開発とともに絶滅。その後、発病の報告はまったくなかった。ワクチンはできたものの、原因は一切不明だった。中には、その翼で空を飛んでいた、という目撃例もあったらしい。人には鳥のように飛行する能力はない。従って、翼など生える必要はないし、翼に相当する器官もない。そんな畸形など存在しない。人間は鳥とは異なる進化を辿ってきたため、尻尾のような、翼が退化した跡、などもない。全てが謎であり、今でも解明されていない。僕が生まれた頃にはもう、そんな病気は忘れられていた。僕達にはまったくと言っていいほど無関係であり、脅えることもなかった。過去の出来事は忘れられるのが早い。
 この病気は絶滅したはずだった。そう、かつて、人間が天然痘を絶滅させたように。感染範囲が狭かったこともあり、簡単に排除できたのだった。また、ワクチンの開発により、予防対策が万全にとられ、誰ももう天使になることはなかった。
 だけど、僕の前にはたくさんの天使がいる。毎日泣き続ける天使達がいる。
 僕の仕事は、主に彼らの観察だ。公的には観察とは言わない。監視と言っている。それぞれの部屋についているカメラから、体温、翼のサイズ、バイオリズムなどがデータとしてはじき出される。僕は監視室でそのデータをまとめたり、食事の量や生活の様子などをコンピュータに入力したりする。入力されたデータはメインコンピュータに送られ、色々と利用されているらしい。そう聞かされてはいるが、実際に利用しているのかどうかはわからない。ほぼ変わることのない毎日のデータが蓄積されているだけのような気もする。この棟に日常的にいるのは僕と天使達だけ。天使達に話しかけてみてもいいけど、彼らは決して答えない。一瞬、泣くのを止めて僕を見て、また静かに泣き出す。もしかすると声帯が退化していて声が出せないだけかもしれない。
 淡々とした毎日が続く。静かなこの建物で、天使は泣く。僕はデータを整理する。
 天使は綺麗じゃない。涙を流しつづけ、啜り泣くだけの、元人間。神様から生まれてもいないし、その使者でもない。


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