天使病・ゼロ

2.

 君がこんな世界を見たら悲しむだろうか。
 ただ、静かなだけの世界。ひんやりとした床と、わずかに見えるだけの空、鉄格子越しの外の世界。何もかもが音をなくし、何もかもが色をなくす。そこにいるであろう者たちは気配を殺し、息を潜めている。がらんどうの、虚無の世界だ。皆自己主張をやめ、調和をやめ、わずかばかりの希望を胸に隠している。そこには来るはずのない未来が宿っている。
 君がこんな私を見たら悲しむだろうか。
 希望を失い、ただ言われるままに己の仕事をこなす。彼らを引きずり出し、羽を抜き、肉を裂く。手が朱に染まることも厭わず、白かった服は白でなくなった。毎朝うつむいて出勤し、毎夜遅くになってからきたくする。自宅と勤め先の往復。空を見上げることも忘れてしまった。自分を認識することをやめてしまった。君はこんな私を見たら、きっと言うだろう。「自我のない機械人形」と。
 私が何の仕事のしているのか、君に訊かれても答えられない。毎日が同じ事の繰り返しであり、それの意味も忘れてしまった。今はただ、目の前にあるモノを指定された通りに処理するだけのことだ。私の仕事に必要なのは、敷布の上で眠っている、元人間だったモノ。最初の頃は抵抗があった。その容姿は全くもって私達と類似しており、助けを求める悲痛な声は私達が解する言語そのものだった。その、彼らの肌に私は刃を入れる。何度吐いたかわからない。何日も、何も食べられなかった。不快感はいつまでもいつまでも胃の奥のほうで疼いていた。見る夢は悪夢ばかりだった。無機質なコンクリート打ちっぱなしの通路、そこを延々と走っている。見えない誰かから、逃げている。立ち止まると、白い彼らが髪を引っ張る。足にすがる。腕を取る。逃げるしかない。どこまでも続く通路を走るしかない。たったそれだけと言えばそれだけの悪夢だが、目覚めはいつも最悪だった。ベッドの上の私の身体は汗に濡れ、疲労は抜けなかった。そして、そのまま出勤。
 もう慣れた。何も思わなければよかったのだ。私は全ての自意識を封じ、与えられた仕事を処理するだけの機械になった。そうすれば、何も感じない。彼らを見て心痛むこともない。勤め先と自宅の往復だけの日々。友人はいなくなった。両親からの連絡も途絶えた。君もいない。何もない私には何もない生活が相応だった。部屋には洗面道具と何着かの着替え、そしてベッド。殺風景、という言葉だけが似合う部屋だった。休みの日は何もすることがない。自宅にいても何もないだけだから、出勤する。仕事しかしないから、預金残高だけは増えていった。
 君のことは記憶のどこかに封印した。思い出すと、仕事がやりづらくなる。一番最初に忘れたのは君の涙だ。美しく、清浄な涙は、流れ落ちることすらもったいなかった。綺麗な水は君の体内にあるべきだ。もう二度と見たくない。誰にも見せたくない。好きだった笑顔だけはなかなか忘れられなかった。不安を打ち消してくれる君の笑顔には、底抜けの明るさと優しさがあった。非科学的であるが、魔法でもかかっていたとしか、思えない。忘れるのは嫌で、覚えているのは苦痛だった。君からもらったものは全て捨てた。ノートの切れ端に書いてある手紙も、何枚もあった写真も、返し忘れていたハンカチも、記憶とともに捨てた。君と初めて会った公園の桜の樹も、燃やしてしまった。炎が燃え盛っている様は、桜が天に昇華していくようだった。あの炎は君にも見えたかもしれない。このことだけは君に謝りたい。この桜は、君の一番のお気に入りだった。炎を見ている間、私はずっと謝り続けていた。
 私は君を忘れることで仕事に打ち込めた。仕事をこなし、私の地位は確実に上がっていった。使われることのない名刺の肩書きは何度も変わり、部下も上司も何度も変わった。それでも、仕事そのものが変わることはなかった。箱、と呼ばれている建物の中から彼らを一人づつ運び出し、台の上に載せ、刃を入れる。暴れるものには麻酔を、怯えるものには口先だけの言葉を与えた。彼らにはあらゆる薬を注入した。数分も立てば抵抗しなくなる。機能を停止する。私はその時間と様子を逐一チェックし、所定の用紙に書き込む。
 君は幸せだった。彼らと同じモノになりながら、彼らと同じ立場にはならなかった。どこに行くこともなく、自宅で君は息を引き取った。翼は成長せず、小さなままだった。背中から、少しだけのぞいて見える程度だった。ある程度の抗体が体内にあったのかもしれない、と医者は言った。進行が遅かったのもそのせいだろう、と。君は君のままでいられたのだ。通夜で見た君の姿は私の知っている君だった。それで、全て終わり。
 君はどこにもいない。私には何もない。


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