天使病・ゼロ

3.

 背中が痛い。
 うずくまって激痛に耐える。
 骨と骨の間を割って新しい骨が伸びようとしている。そのたびに身体がきしみ、悲鳴を上げる。肩甲骨の辺りだろう。背を裂き、新しい部位が生成されている。
 涙も出ないほどの激痛が私を襲う。リノリウムの床は氷のように冷ややかだったはずなのに、全く温度を感じていない。皮膚感覚が麻痺している。流れ落ちる嫌な汗が床に小さな水溜りを作っていた。
 助けて、と叫びたくても喉は枯れて声が出ない。少しでも身体を動かせば新たな激痛に見舞われる。声も出せず、動けず、私は耐える。硬直した手足は痙攣していた。
 心の中で助けを乞う。この部屋に誰かが来てくれることを願う。
 肉が裂ける音がした。その痛みに天を仰ぎ、四肢を床に突っ張る。顎を生温かいものが伝う。強く噛んだ下唇から血が流れていた。背中のものが成長している。背が大きく開いたワンピース様の白衣は薄汚れ、私の姿を一層惨めなものにしている。魂までもがきしみ、悲鳴を上げているかのような感覚。
 私の意思に逆らい、背中のものは動こうとする。私の一部でありながら、全く異なる存在であるようだ。今よりも大きく、自由でありたいのか。成長を抑えようにも、その術は知らない。何故人間の背にこんなものができるのだろうか。生きていく上で不要なものだ。あっても邪魔なだけで、無駄なものだ。
 見上げる天井の一点に小さなヒビがある。亀裂、と呼べるほどには大きくない。時間が経ち、塗料が風化してできたヒビだろう。私の背中にはヒビなどなかった。こんないらないものもなかった。滑らかな曲線を描く、白い背中だった。異常が現れたのはひと月ほど前。バックパックを背負と、何かが当たった。痛いわけではないが、少々気になる刺激だった。鏡に映して見ると、肩甲骨の辺りに二箇所、小さなしこりができていた。虫にでも刺されたのかと思い、気にも留めていなかったそれは、二週間で服の上からでもわかるほどに大きくなった。更に数日後には、天井にあるような、小さなヒビが入った。誰が見ても明らかだった。発病している。
 自分自身が信じられなかった。既に絶滅していると聞いていたウィルスに感染していたのだ。私の発病が発覚すると同時に、周りの人間の反応も変わった。勤め先は解雇され、家族は顔をあわせようとせず、友達からの電話もなくなった。病院に行けば、隔離病棟の無菌室のようなところに二、三日押し込まれた。その後は施設に移された。私と同じ病気の患者ばかりを集めた施設だ。しかし、施設と言えば響きはいいが、実態は牢獄のようなところだ。
 患者は一人一人、コンクリート剥き出しの部屋に収容され、時々ここから連れ出された。そして、再び帰ってくることがない。出ていって、それきりだ。それからどうなるのかは誰も知らない。
 私の向かいの部屋にいた、末期まで病状が進んでいた青年は、私が入って一週間もしないうちにどこかへ行ってしまった。その後には中学生ほどの少女が入った。彼女は笑うこともなく、泣くこともなかった。ただ、腰を下ろして膝を抱え、床の一点を見つめているだけだった。
 そして昨日、背中の亀裂が痛みを伴ってきた時、今いる部屋に移された。ここまで連れてきた人間は全身を宇宙服に似たスーツで覆っていたため、顔もわからなかった。
 窓も何もない部屋だ。床がリノリウムである以外は、今までいたところと大差はない。部屋の隅には病院にあるようなベッドと毛布が置いてある。勿論、時計もない。窓がないせいで時間間隔が麻痺している。ここで過ごした時間が、短くも長くも感じる。
 それでも、だいぶ経ったと思える頃だろうか。背中の痛みが、激痛となった。あまりの痛さに胃が締め上げられる。こみ上げるものはあるが、苦酸っぱい胃液しか出てこない。少し前から食事を摂っていないからだ。
 この施設の人間は、私がこうなるでろうことを時間単位で予測できたのだろう。恐らく、彼らは今もどこからか私を観察しているに違いない。
 天使病は死病だ。発病してしまったら、治す方法はない。背中から舞い落ちた白い羽根を見つめ、私は死を悟る。
 いやだ。死ぬのはいやだ。
 天使は綺麗だ、というのは妄想に過ぎない。翼を生やす過程でうめき苦しみ、動かすだけで苦痛を伴う、人間は苦しみ抜いて天使になり、死んでいく。天使は神の使者などではない。死神だ。
 ふと、身体中の力が抜けた。そのまま冷たい床に倒れこむ。
 生きたかった。
 朦朧とする意識の中、それだけを思った。


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